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2013年5月31日金曜日

同性愛が幻というなら異性愛も幻--フランスで初の同性婚カップル誕生

フランス初の同性婚カップル誕生、男性2人が愛誓う 

 フランスで初めてというのが意外な感じもしますが、ともかくカップル誕生の吉報。おめでたいことです。 同性愛についての賛否について私自身、詳しい訳でもしっかりと自分の立場を見つめ直した訳でもないのですが、基本的には反対ではありません。 

 反対の論拠は想像するに、生物は男女・雌雄という異性同士が子孫を生んで次代につながっていくものだから、異性愛が自然だ……ということなのではないでしょうか。宗教上の理由での反対もこれに近いのではないでしょうか。

  しかし、人間が生まれてくる理由が、「子を産み育てるためだけ」とは言えないと思います。子孫をつくらないという選択肢もあるのが人間ではないでしょうか。望んでもできない方も少なくありませんが。 生物が「種の保存」に最も高いプライオリティを置くものだとしたら、人間を人間たらしめている、ほかの生物と人間をわかつのはまさに、その点 なのかもしれません。

 「無駄」という表現をつかうと誤解されそうですが、生きていくということだけ考えれば、人間は何と無駄なことをしているか。音楽を聞くとか、ブログを書くとか……避妊をしてのセックスだってそうでしょう。これらは、生きること、種を保存することだけを必要なことと考えたら、「無駄」(必ずしも要としない)ということになるでしょう。
 人間は種の保存のためだけに必要な行動しかとっていない訳では決してありません。ですがそれをして「人間はおかしい」と言っていいものとも思えません。「働かざるもの食うべからず」が卑しいという考えもありますが、人間には他の生物にはない、違いがあります。長所なのか短所なのかはともかく。

 同性愛はたしかに種の保存、次世代を産むということに関しては無縁です。しかし、だからといって、それを否定することは人間的とはいえません。もし同性間の愛が幻であるとするならば、異性愛のそれも同様でしょうし、そもそも愛情を幻と考えてしまうのは寂しすぎます。

 ただ、同性愛を認めることと同性婚を認めることはまた別の問題でしょう(何も「同性愛は認めるが同性婚は認めない」といっているのではありません)。今の日本は、同性婚が認められるという未来を想像しづらい状況にあると思いますが、今後議論の場が増えていくのではないでしょうか。

 上に、「しっかりと自分の立場を見つめなおしたわけではない」と書きましたが、この話題についてはいろいろな意見や考え方を見聞きして整理したいと思います。

2013年5月24日金曜日

Suicaで「不足額チャージ」ができるようになった理由?


Suicaを使ってJRの鉄道に乗り、降りるときにチャージされた残高が足りないと、これまでは「1000円以上チャージする」か「不足分だけ支払って精算券を受け取る」かどちらかの方法で精算する仕組みだった(精算券を受け取った場合は、改札ではその精算券を通して出るので、Suicaは使わない)。

 だが、つい数日前、チャージ分が足りなかったので不足分を支払って出ようと思ったら、これまで見たことがないボタンが表示された。それが上の写真だ。「精算(不足額チャージ)」と書かれている。これを押すと読んで字のごとく、足りない分だけチャージされることになる。
 例えば190円区間に乗り、残高が160円しかなかったとする。その場合にこのボタンを押すと、30円だけチャージできる。100円を入れると70円釣り銭が出てきて30円だけチャージされ、改札を抜けると残高は0円になる。

 と説明すると当たり前にしか思えないが、以前はこんなボタン、仕組みはなかった。上に書いたように、不足分だけ入れる場合は「精算券」が紙で出てきていたし、そうでなければ1000円以上チャージするやり方だった。1000円未満のチャージができるのは改札内で不足分が生じたときだけで、改札外でふつうにチャージしようと思うと、従来どおり1000円以上しかできない。

 ちょっと調べてみると、JRのページに紹介されていた。またこのブログによると、3月のダイヤ改正からこの仕組みになったようだ。ちなみに東急のページにはこうあり、PASMOでは以前からこの仕組み(不足分チャージ)ができていたそうだ。

 交通系ICカードの話題では、先日、1円単位での支払ができるようJR東日本が申請するというニュースがでていたが、これを見越してのことなのだろうか?
 この話、ICで支払うと高くなる場合があるということを聞き、さらにニュースでは
券売機での切符は10円単位のままで、二重の運賃設定になることや、4月までの準備期間が限られていることなどから、冨田社長は「国土交通省の見解を踏まえ、慎重に判断したい」と話した。
とあって、「ちょっとそれはおかしくないか」と思っていた。「国土交通省の見解」はふまえるけど、「利用者の声」は聞かないのかと……(そりゃまぁ聞けば「高くなるのはおかしい」「安いほうに合わせるべきだ」ということになるのだろうけれど)。

 しかし、仕事で鉄道を頻繁に利用する営業を抱えた企業などにとっては、数円でも積もればバカにならないわけで、些細な問題ではない。税率アップで値上げされるのは仕方ないにしても、機械や設備の問題で利用者の負担に差を付けるのはいかがなものかと思った。

* * *

 余談になるが、Suicaへのチャージについていえば、どうにかしてほしいと思っていたことがほかにもある。定期券を更新するときに、「改札機」で更新すると同時にチャージができるのだが、「みどりの窓口」で更新しようとすると、同時にチャージはできないことだ。「改札機」の利用を勧めようという狙いなのかどうか分からないが、どうにかならないものだろうか。なぜか改札機だとはじかれるクレジットカードもあって(通常利用はできるのに)不便を感じている。

2013年5月22日水曜日

教育問題について考えるサイト「育ナビ」 初回記事(横浜市の待機児童問題)アップしました



 先日、横浜市の保育問題について書いた記事でも触れましたが、荒木由美子市議(日本共産党)のインタビューを公開しました。

「待機児童」改善した横浜市・報じられない裏側 荒木由美子市議インタビュー(前編)
「待機児童」改善した横浜市・報じられない裏側 荒木由美子市議インタビュー(後編)

 「育ナビ」という教育問題について取材し報じるサイトを立ち上げました、その記事の第一号です。このサイトでは乳幼児期から小学校3年生くらいまでの子どもを対象にした教育について考えたいと思っています。小学校3年生はちょうど学童保育が終わる学年です(高学年までやっているところもありますが)。保護者をはじめとした大人たちの影響が強い、幼少期の教育について、識者や自治体、企業などに話を聞いて記事にすると同時に、意見も募っていきたいと思っています。一方的な意見の表明をするためのサイトではなく、いろいろな立場の意見が集まる場所にしたいと思います。

 荒木議員に取材したのは4月末でしたが、取材をお願いしたのは、いま教育問題で取り上げるべきは「待機児童問題」が旬だろうと考えたことが発端です。杉並など都内の関係者への取材を当初考えていましたが、婦人公論で杉並区議と住民代表の「炎上対談」をやられてしまい、一方でTVニュースで「横浜方式」が盛んに持ち上げられていたため、「横浜の保育の問題点について聞いてみたい」と考えました。
 もしかしたら共産党所属の議員のお話ということで、色眼鏡で見てしまう方もおられるかもしれません。しかし荒木議員は保育士として勤めた経験もあり、横浜市の保育についても批判だけするのでなく、良い点は評価しておられます。保育の理想を持ちつつ、現実的にできること・すべきことをふまえて精力的に活動されています。ご一読いただければ、傾聴に値する内容と評価していただけると思います。

 サイトを立ち上げたばかりで、また運営も細々とやっているので、まだ初回のインタビュー記事しかありませんが、続いて横浜市の保育関係者に取材をしたいと考えています。

 また「育ナビ」のコンテンツについては、ある程度取材記事がまとまったら電子書籍にしていく考えです。
 待機児童問題に限らず、教育についてはいろいろと調べたいことがたくさんあります。学童保育、教育委員会制度、早期学習……。サイトで取り上げるべきテーマや、サイトの記事へのご意見、日頃感じている教育問題、実際に体験したエピソードなどを募ることも考えていますので、今後「育ナビ」をよろしくお願いいたします。

2013年5月21日火曜日

カチンときた時に問われる――乙武さんの入店拒否の件で



 乙武さんが銀座のレストランでの入店拒否にあった件で、彼とレストランそれぞれに対する擁護と批判の両方をネットでたくさん見かける。言った言わないの問題、そもそも完全なバリアフリーをすべての店舗が提供できるかどうか、店名を出すべきなのか、などなど検証すればいろいろな意見がでてくる問題だ。だがこの件について僕が考えたことは、「果たして自分が乙武さんの立場なら、または店主の立場なら、どういう対応をしていただろうか?」ということ。「もし現場に自分が当事者としていたとして、今回騒動になったような行為をしたのでは?」ということだった。

 僕は乙武さんに雑誌の取材などで数回お会いし、Twitterで何度かやり取りをしたことがあるだけだが、とても爽やかで真面目な好青年だと思っている。もちろん取材者に見せている顔がすべてではないだろうけれど、それでもたくさんの人に会っていれば、「この人と友達になりたい/なりたくない」ということを感じ取るし、ふとした瞬間に「ニコニコしてるけど、こいつは嫌な奴かも」と思わされることがあるが、彼にネガティブな印象を持ったことはない。また実際に彼と会って話した人で、彼を悪く言う人を僕は知らない。

 だから今回の件でも彼は悪くないだろうといいたいのではない。だが店名を出して批判しているということを知ったときに思ったのは、「あれ? どうしちゃったの?」「それはさすがによくないだろう」ということだ。だが同時に、親近感のようなものを覚えた。

 Twitterでの彼のツイートを閲覧している方ならご存じと思うが、TL上での彼は毒舌、歯に衣を着せない発言で知られる。障害をネタにしたツイートでも平気でして、ときに各種掲示板でもヒかれてることがあるほど。そういう行為をいいと思うか、嫌悪感を感じるかは人それぞれだと思うが、ひっくるめていつも「叶わないなぁ」と思わされる。彼がいうことはいちいち正論だからだ。勝手な思い込みや固定観念をいともたやすく破り、「かくあるべし」「自分はこう思う」という正論、持論をストレートに、躊躇せず(実際は葛藤があるかもしれないが)展開している。だから何かにつけ、「さすが乙武さん」という見方をするようになっていた。

 だけど今回、彼は自分でも後で反省するような行為をしてしまった。実際、彼はブログで反省文を掲載している。「あぁ彼も普通の人なんだ」ということを改めて感じ、親近感を覚えたのだ。障害者だから普通じゃないと思っていたということではなく、乙武洋匡という人物について、彼の態度や発言がいちいち首肯せざるを得ないものばかりだったから、「普通じゃない」と一目置かざるを得なかったのだ。

 だがその文面を読むにつけ、改めて「やっぱり叶わない」と思った。ここまで自分の嫌らしいところをさらけ出せるものだろうか。つい格好つけたり、都合の悪いところは隠したりしてしまうものではないだろうか。そして彼はその文の中で、反省しながらも、店主への批判もしっかりしている。そこに「読む人に反省と思われなかったら嫌だから、そういうことは敢えて書かない」という思考はない。計算ではないからこそ、言うべきは言う、というスタンスなのだろう。

 別に障害がある人の発言が正しいとか、客だから絶対正しいとか、さらにいえば乙武さんだから間違えないということはない。彼も、自分が障害者だから、客だから、乙武洋匡だから、有名人だからということは”基本的には”思ってないだろう。だがふとした瞬間に、カチンとくる。そしてその気持ちを吐露してしまった。

 そりゃもう、「そういうこともあるでしょ」という類いのもんじゃないだろうか。

 たしかに店主の側からすると、さらされて迷惑だという見方もできる。だが乙武さんが説明していることがそれなりに事実であるならば、「そりゃ言われても仕方ないのでは」とも思う。でも自分が店主の立場に立ったとして、失礼なく、でも無理の無い範囲で、気持ちのよい対応を自分ならできるだろうか。カチンとだってくるだろうし、つい言っちゃいけないようなことも言うのではないだろうか。そう考えると、店側にも「分かりますよ」と、これまた勝手に親近感を抱いてしまう。

 どちらの立場に身を置いて考えても、やはり他人事で済まされる問題じゃない。世の中きれいごとばかりじゃないし、理想はあっても自分が実現を阻んでいることもあるし、それを改めて批判されれば素直に受け入れられなくてカチンとくることがある。そうしたときに何か問われる資質があるのかもしれない。まだまだ自分も修行が足りんな、修行が……。

2013年5月20日月曜日

待機児童ゼロ達成 賞賛の一方で検証も必要だ



 横浜市の林文子市長が本日5月20日の会見で、待機児童がゼロになったと発表したそうです。ハード面の設備を充実させたことや、利用者と直接連絡を取り合ってサービスや保育所を紹介したりする保育コンシェルジュ制度の導入、役所内の連携など、いろいろな取り組みが功を奏したということでしょう。

 横浜の状況については先日、地元議員に取材をして、なかなか全国ニュースにはならない、現場の実態や悩みを聞きました(近いうちにインタビュー記事として公開したいと思っています)。実際には前の中田宏市長時代から、保育に関する取り組みは改善されていたようですが、最近のニュースでは高く評価されている「横浜保育室」については報じられていない限界がありそうですし、保育所などを急に増やしたことによる新たな問題もあるようです。それに、「本当にまったくゼロ」ということは、おそらくないでしょう。とはいえ、統計上でも一旦はゼロになったということを前向きな評価してもよいのではないでしょうか。

 「ちょっと待て」という市民はたくさんいると思います。想像ですが「保育サービスを利用できてはいるけれど希望とはほど遠い」とか、「うちは横浜保育室を使ってるけど本当は認可保育所に預けてもっとがっつり働きたい」とかいう家庭は少なくないと思います。また夏に控えた市長選に向けたアピールだという見方をする人もいるかもしれません。問題もたくさんあると思います。

 それでも、数年前までの市のサービスや設備だけでは保育所に入れなかった子どもが、ここまで充実したために入所できたというケースは少なくないでしょうから、やらなかったままだったことを想像して比較すると、絶対にやってよかったと言えるのではないでしょうか。

 取材の際に議員に紹介してもらって購入したのが上に画像を貼った「調査季報 vol.172 特集 横浜の子育て支援」です。市役所で500円で売っていますが、webで記事が無料公開されています(!)。これをみると、多角的に待機児童ゼロに向けて取り組んできたことが分かります。関心のある方はご一読されるといいと思います。またぜひ関係者(市、保育所、コンシェルジュ、保護者など)に取材したいと考えています。 

2013年5月18日土曜日

異なる常識に触れたときに――「図書館戦争」と「真夜中のパン屋さん」を観て


 アニメ「図書館戦争」とドラマ「真夜中のパン屋さん」を観ていて、「自分の世界とは違う常識で生きている人たち、世界に触れたとき、果たして自分は受け入れられるのだろうかということを考えた。

 「図書館戦争」の第6話「図書隊ハ発砲セズ」。原作にはないアニメオリジナルのエピソードだそうで、ググるとあらすじの矛盾を指摘するブログもあるようだが、この中で登場人物がこんなことを言う。

 「俺たちの社会は、政治的な駆け引きが複雑に絡み合ってこんなことになっちゃったけど。もしメディア良化法も図書館の自由法もない世界の人が見たら、さぞや滑稽で不思議に見えるだろうね」

 この台詞は視聴者の心情を代弁、説明した言い訳のように聞こえる。ちょうど5話まで観てきて、その設定、世界にちょっと無理を感じていただけに余計にだ。僕は原作を読んでいないし、実写映画も観ていないので、そちらがどれだけリアリティがあるか分からないが、少なくともノイタミナ枠で放映されたこのアニメにはあまりリアリティが感じられなかった(それは必ずしも面白くない、つまらないということではない)。
 そこで、アニメシリーズの演出の問題という見方もできるが、表現の自由や図書を争って戦闘が繰り広げられるという、現実には考えられない設定、社会、常識であることに対して、自分が気づかないうちに否定してしまっていたのではないかと考えた。フィクションだからこそ、リアリティ、「さもありなん」な感じはほしい。けれど、理由を制作者側、作品に求め過ぎていなかっただろうか。「もし本当にあったとしたら」と考えられないなら、自分の思考の幅がいかに狭いかを嘆くべきではないか。
 現実の世界で「信じられない」常識に生きる人たちに会ったときに、果たして自分は受け入れられるだろうか。受け入れる、溶け込む必要はなくても、「尊重する」ことができるだろうか。

 ちょうどそんなことを考えていて、「真夜中のパン屋さん」第3回(「普通じゃない人々」)を視聴した。母と二人暮らしの小学生こだま。母が出ていってしまい一人ぼっちになった彼をパン屋の暮さん(タッキー)たちが世話するのだが、希実(土屋太凰)がこだまの母を「カッコウ」にたとえる。自身も母の知り合いなどあちこちに預けられた経験があり、母のことをカッコウのようだと思っていた希実らしい台詞だ(そもそもこの物語は、不思議な魅力のある暮さんとその亡き奥さん、ブランジェの弘基たちのパン屋さん=ブランジェリークレバヤシ=に、いろんな人たちが集まってきて、暮さんが託された卵を孵化させるような役割をしている)。

 なるほどと思いながらネットを見ていたら、たまたま「カッコウは自分の体温で卵を孵すことはできない」という掲示板の書き込みを見つけた。体温が低いからカッコウは卵を温められないというのだ。

 そこで「自分の卵が温められないからだのつくりってありえないんじゃないか。そんな動物がな存在するんだ」と思い、すぐに反省した。これもまた自分の常識を当てはめようとしているだけじゃないかと。自分でできなくても、他人に孵化してもらえれば目的は達成されるんだから、それはそれでいいんじゃないかと。

 母をカッコウにたとえる希実の台詞を聞いた直後に書き込みを見つけて、「こんな偶然もあるのか」とちょっと驚きながら、「自分の常識がみんなの常識とは限らない」ということを肝に銘じた。

2013年5月17日金曜日

「男が働き、女が育てる」が常識という時代じゃない――女性の役員・管理職登用積極化

3メガ銀初の女性役員…三菱UFJが川本氏起用

 先日この記事を夕刊で読んで驚きました。これまで3メガバンクには女性役員が一人もいなかったんですね。「なんて業界だ」なんて思っていたら、イオンが2020年までに女性管理職の比率を50%まで引き上げる方針を明らかにしたそうです。イオンのほうは役員ではなく管理職ということですが、現状は7%とのこと。イオンのような小売り、GMSは女性客が多いでしょうから、7%は低い気がします。業種にもよると思うのですが、日本の企業は全体的に女性の取締役、管理職への登用が遅れているんだろうなという印象があります。具体的にはどれくらいいるんだろうとググってみたところ、東洋経済にこんな記事がありました。こんなもんなんですね。表を見て改めて少なさに驚きました。

女性役員が多い会社はどこか?
パソナ、ニチイ学館、エステーが最多の4人 

 女性役員・管理職の積極的登用について考えると、「女性だから役員になれなかったんじゃなくて優秀な女性がいなかったからでは」という意見が出てきそうですが、そんなことはないと思います。やはり結婚、出産、育児の過程で、オフィスから遠ざかる(遠ざけられる)のが女性ばかりだったから、つまり押し付けて放逐されてきたからというのが一つの理由ではないでしょうか。その過程で女性は残りづらくなっていく、そういう雰囲気をつくってくたのではないでしょうか。三菱UFJのボードに入った川本氏も叩き上げ社員ではなく、外部からの就任です。女性にとって「入社→出世→役員へ」というコースは難しい気がします。

 無理に女性を役員にすることに意味があるのかという意見もあるでしょう。逆に差別なのではないかという人もいるかもしれません。しかし、女性が役員として経営に携わりやすい環境をつくること、そのために数値目標の設定はあっていいと思います。それがないと絶対にやらないはずで、だから今のようになっているわけです。やってみて問題があれば替えればいいでしょう。アファマティブアクションといっていいかはともかく、当面はそうした措置が必要だと思います。
 自民党の「女性力の発揮」っていうキャッチはどうにかならなかったもんかとは思いますが、これまで能力を発揮したいと考えていた女性たちが、性別が男性でないということを理由に重用されなかったり、軽んじられたりということがあったはずですから、それを無くしていくことは必要だと思います。

 この問題は、誤解を恐れずにいうと、障害者の法定雇用率制度の議論と似ている気がします。むろん、女性が障害者であるといっているのではありません。男ばかりの取締役会に入る女性はマイノリティだという意味です。以前、Twitterで、障害者の法定雇用率を無理して守るくらいなら罰金を払ったほうがマシというツイートをしている人がいましたが、それと同じ考えをする人が出ないとも限りませんから、目標の設定は必要でしょうが、ルールを決めればそれでいいというものでもないでしょう。「我が社は女性を登用したくない。罰金払えばいいんだろ」っていうのはおかしな話です。

 そうした変革を実現することで、男性の働くことに対する意識や習慣にも変化が生まれるでしょうし、役員や管理職ではない、一般の女性社員も働きやすくなるはずです。またこれまで「女性の仕事」だった「育児」に男性がより関わるようになることが期待できる点は大きいと思います。

 ただ「我が社は男性だけで経営する」ということが責められるものなのか? ということも考えるべきだと思います。たとえば役員もしくは社員が女性ばかりの会社もあるでしょうし、それを妨げるのはおかしい。だから「義務化すればいい」といった問題ではなく、数値目標の設定とレビューから始めて、業種や規模を問わず、いずれの企業も「他人事(他社事?)」と考えずに議論し、検討することが求められるのでしょう。

 ここでふと、「じゃあ自分はどうなんだ」と自問しました。いま自分が関わっている会社は一人代表ですが、重要な経営方針を決めるメンバーに女性はいません。日常的な方針などは皆に情報開示して皆で話し合っていますが、役員というか出資者、そのメンバーに女性はいません。とはいえ別に避けたつもりはありません。無理に女性を入れろと言われると、それはそれで困るものもありますね。一律に女性を幹部に登用すればいいってわけではないというのもまた正しいのでしょう。

2013年5月16日木曜日

他人は他人 保育園児が留年してもいいじゃないか

 自民党の教育再生実行本部が「6・3・3」制の弾力化を提言するそうです。中高一貫のメリットは一貫した教育ができることなど複数あるのでしょうが、子どものためになると考えられるなら、硬直化した枠組みを取り払うことはいいことだと思います。ただ読売新聞の記事によると、「地域の判断でできる」とあり、ここが若干気になります。詳しくは提言案を見ないと分かりませんが、それを決めるのは教育委員会ということになるのでしょうか。教委の制度は大阪の例を出すまでもなく、改革が必要な仕組みと思います。せっかくの新しい制度設計が無駄にならないよう取り組んでもらいたいと思います。

2013年5月15日水曜日

NISA普及が目的? 金融コンシェルジュは機能するのか

お金の悩みや相談 病院内に窓口開設 金融コンシェルジュ

 実現してワークすればとてもいいことだと思いますが、果たして病院にかかる高齢者がどれだけこうした窓口を活用するでしょうか。当面は都内の河北総合病院で週1回、1年間やってみるそうですが、とりあえずやるなら常駐させるぐらいがっつりやらないと意味なくないでしょうか。お金に関する相談を他人にするっていうことに、抵抗がない世代ではないでしょうから。
 一般的な資産運用の知識を伝えたり相談にのったりするそうですが、金融商品を売ることはしないそうです(とはいっても、そのあたりはどうにでもなるでしょうが)。

 ところで金融庁がまとめたのは「高齢化社会に対応した金融サービスの向上について」(PDF)というものですが、その中に
現役世代が将来に向けた資産形成の必要性や積み立ての重要性(金融リテラシー)を認識しなければ、積み立て型の長期投資商品をコツコツ購入する動きは広がらない。
という問題認識が掲げられています。金融リテラシーを上げることには賛成ですが、「積み立て型の長期投資商品をコツコツ購入する動き」をつくることが目的なんでしょうかね? 

 投資とか金融商品に対する考え方は、もっと早く、学生のうちからやっておかないとダメだと思います。もちろん教えるのは、学校の先生では無理なので、させてはいけないと思います。専門家を招聘してやってもらえばいいのでは。ただ当面は親がついて行けないということも考えられるでしょう。

 あとリバースモーゲージとか中古住宅の資金化についての軽く言及がありますが、このあたりもっと使いやすくしたほうが、先々のことを考えるといいのではないかと思います。特に都心ではもったいない物件がたくさんありそうです。

 総じて、NISAの普及のためにやる感がアリアリで、何だかなとも思いますが、お金に関する相談がちゃんと受けられる仕組みができること、金融リテラシーを高める施策をすることには賛成なので、河北総合病院での取り組みに注視したいと思います。

2013年5月12日日曜日

お金がないから妊娠できないということの切なさ


<にんしんSOS>妊婦相談で虐待防止2割 大阪府事業で効果

 なかなかニュースへのもって生き方が苦しい感じもしますが、大阪府がこういう事業をしていたんですね。調べれば他の自治体でもやっているのかもしれませんが、妊娠の疑いが生じた時に何の懸念もなく受診できる人ばかりではないでしょう。アンケートの回答者が13歳から、というあたりからもそれは分かります。
 後のほうの段落に出ている大阪府医師会のまとめはこちら。



未受診妊婦:大阪府、3年で倍増 生活難、知識欠如

 経済的な理由で受診せずに出産した方が結構多いことに驚きます。にわかに信じがたいですが、「誰にも言えない」のではなく「お金がない」が理由というのはどうにかならないものでしょうか。

 こう書くと、「金がないのに子どもなんてつくるな」と思う方もいるかもしれませんが、それはむしろ逆で、「お金の心配をせずに子どもをつくれるように」しないといえないんじゃないですかね?


2013年5月11日土曜日

連帯責任という被害拡大システム

 

 ドラマ「ラスト・シンデレラ」の録画を昨日観ていたのですが、藤木直人さん演じる美容院の店長が学生時代野球をやっていて、甲子園の切符をつかんだのに部員の不祥事で出場辞退して出られなかったという設定でした。
 こういう話を聞くたびに、なぜ連帯責任を追わのか、何の教育になるのか疑問でなりません。

 高校野球は他のスポーツと比べて優遇されているので、有名税のようなものが押し付けられる面があっても仕方ないような気がしていましたが、よくよく考えてみればそれも酷いし、それも一昔前の話。もはや高校球児が特別という訳でもないでしょう。

 などと昨夜思っていたら、こんなニュースが。

東海大サッカー部で部員同士の暴力発覚、当面の公式戦辞退へ…

 これだけスポーツでの暴力が問題になり、ニュースにもなっているのに暴力をふるうなんて、バカとしか思えないのですが(真剣だから、というのはすり替え)、ともかく暴力行為があったとして、責任を問われるのは、暴力をふるった本人と、監督責任者、あと部長くらいでいいのではないでしょうか。

 もしそういう基準を明確に作ったとして、懸念されるのは、暴力行為があったときに、責任を問われないよう、関わらないようにする部員が多数出てくる(見てみぬふりをする、止めない)ということでしょうか。

 ですが、それだって止める奴は止めるし、止めない奴は止めないような気がします。

 所属コミュニティが責任を問われるということでいえば、大学生が事件を起こしたときに大学が会見を開きますけど、そんな必要なくないですかね? たとえばUSJでバカやったからって何で教職員が頭さげにゃならんのでしょうか? 大学の授業で行って教員が引率してて、というならまだしも。親が揃って会見を開くというなら、まだ分からなくもない気が…いや、それも違うな。大人なんだから、本人がやるべきなんきゃないですかね、もしやるなら(そもそも会見が要るかという議論もあるでしょうが)。

 やったことの責任は本人がとるべきであって、所属するコミュニティがとらなきゃいけないというのは(特別に合理的な理由がないかぎり)おかしいと思います。

 じゃなきゃ、複数のコミュニティいに属する、複数の肩書きを持った人が、いずれのコミュニティとも直接関係のないところで不祥事起こしたら、どこの誰が会見しなきゃいけないのってことになりませんかね。大学の講師とかさ…会社役員とかさ…。

 とにかく、同じ部で頑張ってた"無関係な"部員が巻き込まれるのは可哀想すぎると思います。
 



2013年5月10日金曜日

時代に合わないルールなんて替えちゃえばいい(のか?)



 大学時代に入っていたサークルで、下級生から規約(正式な名前は忘れた)を変えようという動きが出たことがあって結構もめたときに、「実態に合ってない決まり事なんて変えちゃえばいいじゃないですか」というような発言をされて、驚いて反論したことを覚えている。

 曲がりなりにも法学部に在籍していた僕は、長年守られてきたサークルの規約なんてものを、気に食わないからといってコロコロ変えていいもんじゃないだろうと思った。同級生のS君がまさに「憲法みたいなもんなんだから」と嗜めてなるほどと思ったように記憶している(そのS君は今は裁判官をやっている)。古いから、伝統があるからというよりも、ブレるからイカンと思った。その決まり、何のために存在するんだってことにもなる。
 その発言をしたのは理系の子で法律的な知識がなかった(もしくは考え方ができなかった)ようだったし、世の常として上級生は下級生を頼りなく思ってしまうものなので、「話にならんなぁ」と感じたような気がする。今思えば微笑ましい限りだ。かくいう自分も法学部といったって熱心でもない学生だったし。
 ただ”原則”をそうコロコロかえるのはよくないと思ったし、今もそう思っている。

 昨年、大勝して政権を取り戻した自民党が、維新など野党の協力が得られそうなこともあり、今度こそ本気で憲法を改正しようとしているようだ。96条を替えて改正のハードルを下げようといわれているが、果たしてそれはいいことなのだろうか。

 憲法は改正したほうがいいと思っている。「自主憲法でなきゃイカン」という立場ではないし、自民党の憲法草案も「それはアカンのちゃうか」と思う部分が結構あるから、あのまま実現されると困る(ゲンロンの「憲法2.0」(新日本国憲法ゲンロン草案)はちゃんと読み込んでないので、むしろこの際読んでみたいと思う)。どこをどう替えたほうがいいという考えがまとまっている訳ではないのだが、いくつか替えるべき条文はあると思う。

 「改正したいと思っているなら、改正のハードルが下がるのは歓迎じゃないのか」と問われるかもしれないが、そうは思わない。BLOGOSの座談でコバセツ先生がおっしゃっていることがもっともだと思う。
国民と憲法の間をウンと遠くさせておいて、日本維新の会の橋下さんが何か言ったら、「うまくいけば、3分の2行きそうだ」と途端に動き始めた。今、96条なら3分の2がまとまる。そして、96条を取っ払って過半数になったら、その後はどんなに分裂しても、自公で過半数を持っていると。これはどう考えても、姿勢として正しくないですよ。
小林先生も改憲論者の立場でありながら、今のムードを見て警鐘をならしておられ、頼もしい限りだ(とか書くと偉そうだけど)。右傾化警戒とかいうわけではないけれど、「憲法の改正」ということの重大さをもちっと考えて、広く議論されなきゃならんと思う。今はそういうニュースが盛んに流れているけれど、皆が議論している感じじゃあ、決してない。

 アベノミクスの恩恵を受けて投資資産の含み損が含み益をもたらしている昨今、山口県出身者でもあるので安倍総裁にはさらに期待をするものでありますが、国会勢力と、何となく高くなってる支持率を背景に、このまま一気に憲法改正に突き進むのはちょっと危険な気がします。

 このBLOGOSの座談、「(憲法論議は)あまり詳しくない」という方、「憲法改正されるんでしょ?」と何となく思っている方にオススメです。


2013年5月7日火曜日

都立高校のBS公表――分からないことを分からないまま書くかねぇ


 東京都教育委員会が都立高校のBSやCF計算書を公表したそうだ。今年が初めてではないのだが、初めて知った(何となく聞いたような気もするが)。たまたまマイナビニュースの記事で知ったのだが、この記事を読んでちょっとうなってしまった。筆者はBSが読めないんだろうなぁと思ってしまったからだ。この記事や単なる数字の羅列で、解説も何もないから、とてもではないが読みたくはならない。数字を伝えるだけで「なるほど今年はそうだったのか」と読者が納得してくれるような内容なら「単に情報を伝達することが目的」という方便も成り立つだろうが、果たしてそれでいいのだろうか?

 なぜわざわざそんなことを言うかといえば、自分が記者時代、BSやPL、CFなんて分からないのに、前年のスクラップを見て自治体の予算、決算記事を書いていたことを思い出したからだ。恥ずかしながらほとんど何も分かっていなかったので、予算課のレクに厳しくツッコむことなんてできなかった。その自治体にとって大きなイシューであれば、議員もツッコむし事前に勉強することができたので、それなりに解説や批判はできていたと思う。だが、そもそもBSやPLを読みこなせていなかったので、大方の部分についてはポイントがつかめず、何をどう書いていいか分かっていなかった。

 ところでこの記事の目的はマイナビ批判ではない。言いたいことはまず、BSやPLは読めるようになっておいたほうがいいということだ。会計士が書いた書籍にその手のものが結構あるが、読めるようになるのはなかなか大変だ。また、読み方を知識として身につけても、その数字が意味するところを読み取るのは容易ではない(「日経新聞の読み方」を指南した本があるが、あれを読んでも記事の評価ができないと同じか)。かく言う私も、今でこそBSやPLを見て、何となく意味が分かるようになっているが、それでも細かいところまでは分からないし、業種が変わると手が出なかったりする。ちゃんと勉強したわけではなく、「決算書はここだけ読め」とか「バランスシートがすぐに読めるようになる」とかいった本を読んで勉強したのだが、結局役に立ったのは実際のBSやPLを見なければいけなくなってからだ。そうして実物をシビアに見たからこそ、それぞれの項目や数字が持つ意味が少しずつ分かるようになった。

 でもこの手の資料を見ただけで敬遠しているようでは、ダマされても文句は言えないと思う。それはBSやPLに限らず契約書や法的な書類についても同じことだ(この手の書類が誰にでも分かるようになると士業の皆さんが食いっ逸れるからそんなことにはならないだろう)。記者時代の自分もダマされていたかもしれない。いや、ダマされていたのだろう。そんなもの、追求しても「聞かれなかったから」と返されたらぐうの音も出ない。中には自分には必要ないという人もいるだろう。たとえば「ビジネスパーソンとして出世したい、起業して成功したいとかいう人ならともかく、自分には関係ない」というように。そういう人は「ダマされてもいい」と言っているわけだから、聞いてくれなくていい。

 次に言いたいことは、余計なお世話を承知でいうが、この手の専門性のある記事を知識のない記者に書かせていていいのだろうか、ということだ。1本記事を書けばあちこちに転載されてPVは稼げるのかもしれないが、「金かけてないんだなぁ」ということが丸わかりだし、恥ずかしいし、記者のためにもならない。この場合、記者がちゃんと読みこなせrるように勉強するか、読める専門家に読んで解説してもらうこと(場合によっては記事を書いてもらうことまで含めて)をしないと、読者のためにはならない(大手紙なら、たとえ社会部ネタでも経済部に力を借りることができるが、ウェブメディアなどでそれができるとは限らない)。記事1本あたりのコストが下がっている今、なかなか1本の記事にそう労力は割けないかもしれないが、最初にがんばって最低限の「読み方」を身につけておけば、あとは毎年、または年に数回その読み方をツカう機会がくる。最初は大変かもしれないが、やっておいて損はないと思う。同情はするが、解決の選択肢はある。

 冒頭の都立高校のBS、CF計算書は面倒で読んでいないので、ポイントは分からない。たとえ読んだとしても、自分の能力では読み解くことはできないだろうし、「あぁ出版や広告代理店とはここが違うなぁ」という比較くらいしかできないだろう。そもそも今年の分だけを読み込んでも、過去や他の自治体などと比べなければ評価ができないだろうし、そこまでの時間を割くつもりはない。と言っている時点で、紹介した記事の筆者と同じスタンスだといえばそうかもしれないが、誰かやってくれないものだろうか……。

 ところで都や区の予算の執行状況、決算などが配布されると思うが、あれも同じだと思う。本当に都民や区民に状況を知ってもらうための努力がしっかりなされているかといえば、そんなことはないだろう。ひと昔前とくらべれば、グラフや表、たとえなどを使うことで分かりやすく読みやすくするための工夫がされるようになった気もするが、それでも都民、区民の多くがしっかりと読めるような状態にはなっていない。それを都や区に求めていいものかは自信がないが、何とかできないものだろうか、とは思う。


  

2013年5月6日月曜日

ファンなら何が知りたいか――大おもちゃ博で感じたこと


 人気アニメのおもちゃの展示・体験やライブなどがあるイベント「大おもちゃ博」(品川プリンスホテル主催、タカラトミーなど特別協力)に行った。トランスフォーマー、リカちゃん、ポケモン、プリティーリズムなど同社のコンテンツが勢ぞろいで、子どもだけでなく大人も楽しんでいた。会場に入る前に、中で行われるイベントの整理券配布などについての説明があったのだが、これが分かりにくかった。

 説明や会場整理には、タカラトミーの社員、プリンスホテル社員、レコード会社関係者、そして多くのバイトが携わっていたのだと思う(会場に着いてすぐ内容について質問した相手がホテル関係者で、中でのことは分からないと言われてしまった)。そもそもこのイベントはウェブサイトの情報整理がいまひとつで、事前に知りたいことがよく分からなかったのだが、会場での説明も要領を得ず、分かりにくかった。

 なぜ参加者が満足のいくような説明がなされないのか。それは、説明した担当者が、自分が今説明している内容について、“深く”は理解していないからではないか。準備不足とも言えなくはないが、というよりむしろ参加者やファンほどにはその対象を愛していないからだろうと思う。

 参加者は本当にそのアニメやキャラ、テーマ曲を歌っているアーティストが好きで会場に来ている。一方、主催者側の担当者については、皆が皆、そんなテンションという訳ではない。それをプロ意識の欠如と断じるのはちょっと厳しいと思う。このイベントでも、会場整理のため、イベント運営のためのマニュアルが作られ、現場の担当者は粛々と実行しているはず。だが、こちらとしては目的を達成することができるのか(見たいものが見られるのか、欲しいものがゲットできるのか)、一向に分からない。その理由に、対象への思いの深さの違いがあるように思えてならなかった。
 結局、いちいち聞かれると担当者も大変だろうから、係員を呼び止めてあれこれ聞くのは憚られるから、迷惑にならないであろうタイミングを見計らって、どうしても聞いておきたいことは聞いた(結局聞くこともできたし、このイベント関係者を批判したいわけではない。大きな手落ちがあったわけでもないのだし)。

 開場までの待機列で暇潰しにネットを見ていて、「ジャニーズのファンが非公式グッズを買ってしまうのは、公式にはない、痒いところに手が届く、ファン心理をついたグッズ展開をしているからだ」という主旨の記事をサイゾーで見つけて、なるほどと思った。
 ジャニーズの公式グッズを作っている会社や関係者、担当者だって入念にリサーチして、ファンが欲しいと思うであろうグッズを作っているはず。彼らはプロだし、まさに当事者なのだから。
 しかし実際にはファンは非公式グッズを買ってしまう(公式を買わず、ということではない)。非公式グッズを作っている会社や関係者ももはやプロといっていいだろうが、サードパーティーが本家を越えているというのは興味深いことだ(ここでいう「越えている」は売上のことではないし、どう越えているかのデータはない。公式にはないがファンに支持されるグッズが非公式から出ているということだ)。

 こういうことはよくあると思う。ジャニーズの場合はどうか分からないが、ファンが考えたほうが、ファンが欲しがるグッズが作れるのかもしれない。ファン心理が分かるのだから、その可能性は小さくないのかもしれない。
 グッズ制作だけでなくイベント運営でも同じことがいえる。ファンならここに何を求めて来ているのか、今このタイミングでファンならどうしたいとw思うか、そのために何が知りたいのか……。担当者だってちゃんと準備はしているだろうが、「ファンならどう考えるか」というところに思いを馳せているかどうかは自問してもらいたい。さらにいえば「ファンに負けないくらい、その対象について語れるか」ということにも。

 そしてこれはイベント運営だけでなく、サイト運営など各種サービスについて応用できると思う。自分の過去の仕事、経験を振り替えって、そういう想像をすることがいかに難しいかに気づいた。それが自然にできる人が気が利く、仕事ができるということなのだろう。

 お客様の立場に立ってとか言われるが、そんな手垢のついた言い回しや考えではなく、自分がファンになるくらいに対象を愛して考えてみなければ、気づかないことがたくさんあるのだと思う。まさに言うは易し、行うは難しだと思うが、忘れず応用したい。

2013年5月5日日曜日

マスコミイクメン今昔――増えてはいると思うけど

イクメンプロジェクトウェブサイトより)

 こどもの日ということで、読売が朝刊で「『イクメン』が世間を変える」という社説を掲載している。主催イベントのPRをちゃっかりしながら、「男性の育児参加をさらに促す企業努力を各社に求めたい」「親子が気軽に集える場を増やすべきだ」などと書いている。
 育児ネタに限らないが、こうした提言を大手紙などメディアがする時に感じるのが「お前とこはどないやねん」ということだ。

 自分が読売にいた頃は、読売に限らずマスコミは育児を蔑ろにしていたと思う。辞めたのはもう十年くらい前だし、当時と今とでは社内の制度や雰囲気も大きく変わっているだろう。子育て真っ最中の同期たちのFacebookの書き込みを見る限り、彼らはフツーに子育てしている。皆が皆、育児に消極的という訳でもないとは思う。
 ただ当時、仕事のできる他社の先輩から、取材応援で長期出張していて、子どもの顔をみたのは産まれてから何ヵ月も後だったという話を武勇伝のようなエピソードを聞いた。この先輩はたしか他社だったが、自社の先輩からも似たような話を聞いたような気がする。当時(自分がいた地方の記者クラブ)はそんな雰囲気だった。
 あの先輩が本当に、何ヵ月も我が子の顔を見られなかったことを悔やんでないのかは分からない。照れ隠しだったのかもしれない。でも自分としては、そういう未来が自分に待っているかもしれないのは嫌だった。辞めた理由の一つになった。

 この記事の意図は読売をディスることではない。ただ先日、ある地方議会議員の取材で思ったのだが、国や自治体にいろんな制度をつくるよう求める前に、企業が変わらなければまともな育児環境などできないだろう。企業が変わるということはつまり、もしかしたら育児などしたことがない、お偉いさんたちが変わるということだ。

 世の中にはまだまだ、オムツを替えたことのない男性はたくさんいる。ただ自分は何も、子を持つ全員が全員、オムツを替えるべきだとは思わない。そりゃかかりきりんあるのが理想かもしれないが、そうもいかない。役割分担はあっていいと思う。なるべくやったほうがいいと思うし、一度は体験してみるべきとも思う。そうしなければ、本当の大変さはなかなか分からない。そんな人たちがつくった(社内、自治体の)
制度なんて、ツカえたもんじゃないはずだ。
 また「イクメン」という言葉は早くなくなればいいと思う。親が育児をするのは当たり前だからだ。男がしてこなかったからこんな言葉があるわけで、正常な状態とは言えない。自分など、子育てに関して「偉いですね」なんて労われると、面映ゆくて仕方ない。実は育児の多くの部分を妻に任せているということもあるが、できる範囲であれこれやっているのは当然だと思っているし、面白いから、好きだからやっているだけだからだ。こんなに面白い、楽しいことを女性だけにエンジョイさせるなんて、男性として「もったいない」と思う。
 マスコミに限らず、仕事で忙しい日々をおくっているという人が(多くは男性だろう)、勝手に頭の中から自分を育児のプレーヤーから外してしまっている。他の誰か、他の会社の取り組みを言う前に自分のことを考えなければいけない。
 読売の編集委員や社説の担当者など、お偉いさんはどうなんだろうか?

2013年5月4日土曜日

ブレーキ踏み過ぎ注意――知らず知らずに迷惑をかける恐ろしさ


 車を運転していると、“本人は気づいていないんだろうけど後続の車には迷惑な運転”をする人がいる。迷惑といえば、狭い道や交差点そばでの停車や合流しきれずのノロノロもあるが、それらは本人も気づいてるだろうからともかく、気づかれていない迷惑運転の代表格が「頻繁なブレーキング」だと思う。

 何もないところですぐにブレーキを踏む人が多い。ブレーキを踏むとランプがつくからは、後ろの運転手も踏む。するとその後ろも踏んで…と連鎖して、やがて渋滞になる場合もある。
 ATしか運転しない人、できない人、MT車を運転したことがない人にその傾向が強いのではないかと(データはないけど)思う。エンジンブレーキという発想がないからで、減速するためにはフットブレーキしか思い付かないのではないか。 ちょっとした減速はアクセルを戻すなどして対応すべきで、場合によってはギアを2速に下げてもいいのではないか(最近のAT車について、走行中のギアダウンの是非は詳しく知りませんが…)。
 少なくとも自分は、何もないところで減速するのにそうそうブレーキは踏まないし、前の車が踏んだとしても、さらにその前の状況から、単に目の前の運転手がスキル不足で踏んだだけと判断したら(できたら)踏まないで対処しようとしている。

     ほかにも幅員の決して大きくない道での左折で膨らんだりするのも、おそらく本人は気づいてないだろうけど、後ろの運転手は困る。「コンパクトに曲がれないなら小さな車に乗ればいいのに」と思うが、その思いは当然届かない。ミニバンや大きなセダンなんかやめて軽にしたほうがいいと思うおばちゃんドライバーの実に多いこと!!(ダンナと共有だろうから仕方ないけど)。

 大人になると周りが注意をしてくれなくなるし、運転の仕方を誰かがアドバイスしてくれる訳でもないから、本人は後続に迷惑をかける運転をしていることにずっと気づかない。解決は難しいだろう。

 かくいう自分も知らず知らずのうちに迷惑をかけているかもしれない。生まなくていい渋滞を生むかもしれないわけだから、善意だから許されると思わず、気をつけて運転したい。また「気づかずに迷惑をかけることに注意する」という意味では、運転だけではなく仕事でも同じことが言えると思う。後ろをふりかえりながら進んでいきたい。

2013年2月18日月曜日

経済・金融の専門家ではない立場からの書評『日本人はなぜ貧乏になったか?』(村上尚己著)

経験はないが、いい記者が持っているモノ

 


 記者は専門家ではない。

 テーマによっては専門家に負けない知識が求められることもあるし、専門家ではないことを準備不足の言い訳にしてはいけない。だが基本的には「専門家ではない」からこそ、専門家に取材して記事を書く。記者は、時間を割いてくれる相手に失礼のないよう、そして聞くべきことをしっかり引き出すために事前勉強はするにしても、それはあくまで聞くための準備であって、読者に伝えるべき情報は専門家が持っている。どの専門家を選ぶかという点には記者(編集者)の考えが反映されるのだが、伝えるべきメッセージを持っているのはあくまで専門家だ。大手メディア所属の記者であるとか、フリーのブロガーであるとか、そうした所属や肩書きはともかく、いわゆる記者・ライターにとって必要なのは、専門家に負けない知識ではない。冒頭にも書いたように、記者は専門家ではないからだ。

 では何が必要なのか。

 数ある中でも最も必要なのは「理解する力」ではないか。

 理解する力があれば、取材で難しい専門用語に惑わされず騙されず、「何がポイントなのか」「どこを伝えるべきなのか」を見つけ出すことができる。のらりくらり逃げようとするインタビューイを前に、だまされずに突っ込むことができる。

 「理解する力」があれば過去の経験は関係ない。例えば教育関係の仕事をしたことがないというライターでも、教育関連のインタビューをしっかり構成できる。投資経験がない記者が、金融機関での取材をこなすこともできる(こう書いていて気づいたが、「理解する力」には、「専門家の話を理解する力」だけでなく、「そのインタビュー・取材をすることの意味」「その媒体で、そのタイミングで発表することの意義」を理解する力も含まれると思う)。

 経験はアドバンテージにはなるが絶対ではない。新聞社の経済部にいた記者がいい経済誌記者になるとは限らない。アニメ誌の編集をやっていたからといって、いいアニメライターになるとは限らない。スタート時点では、経歴のない人と比べればリードしたポジションに立てるが、「アキレスと亀」じゃあるまいし、リードはいくらでも詰められる(とはいえ、記者やライターの採用、起用を検討する際の指標として、過去の経歴・ポートフォリオ 以外のものってそうそうないのだが……)。

 などと書くと、自分が経済紙誌の記者経験がなくFJという経済誌の編集をやっていたことの言い訳のように聞こえてきたが、それは本意ではない。

 いい記者・ライターであるために必要な要素はいくつもある。
 そして私は自分がいい記者・ライターであるとは思っていない。

 しかし、専門ではない話のポイントを掴むのは比較的得意だと思っている。「偉そうに」と思われるかもしれないが、記者なんて誰でも「ここは負けない」「これは得意」ってのがないとやっていけない(中には「営業は負けない」という記者・ライターもいるだろうが)。

「ロジックを立てるのがうまい」人はたくさんいるが


 経済誌の編集部時代には、金融機関で何人ものエコノミストやアナリストを取材した。その誰もが、ロジカルな話を聞かせてくれた。彼らは(嫌味のつもりでなく言うのだが)頭がいいし、自分の意見や考えをサポートする材料を見つけ、ロジックを組み立てるのはうまい。だから、ある命題に対して賛成、反対両サイドの意見を聞くと、それぞれに納得できる話が聞けてしまう。
 例えば自分が賛成に立場に立つ政策について、反対の立場に立つエコノミスト(政治家や学識経験者もそう)に話をいても、「なるほど」と思ってしまう。別に騙されているということではなく、「ロジックを組み立てるのがうまいな」という評価をしているのだが、ともかく金融機関に勤める人たちはこうしたことに長けていると思う。
  当時、取材をさせてもらった多くのエコノミスト、専門家の中でも、つくづく「なるほど」と思わされ、自分なりに納得できる話を聞かせれくれたのが、マネックス証券のチーフ・エコノミスト村上尚己氏だ。

 何だかこの流れで紹介すると、かえって失礼に聞こえてしまうかもしれないが、それはまったくの誤解だ。氏の取材で受けた印象は、「話が分かりやすい」というだけではなかった。話が分かりやすいだけの人なら結構いる。そうではなくて、「信頼できる議論を展開している」という印象といえばいいだろうか。自分のもともとの意見に近いからそう感じるのだろうと言われるかもしれないし、それは否定できない。だが村上氏は、すでに経済誌の編集記者ではなくなった私が今なおレポートや発言をウオッチしている数少ない専門家の一人だ。経済や金融の分野で何かコトが起きる度に、「村上さんは何といっているだろうか」と気になるし、「この事象をどうみればいいのか村上さんの見方を拝見しよう」と時折レポートも確認している。

 その村上氏が単著としては初めてという『日本人はなぜ貧乏になったか?』(中経出版)を上梓した。発売翌日に購入して早速読んだが、これは分かりやすい、いい本だと思う。知らず知らずに信じこんでしまっていたいくつかの事柄、説明のできない事柄に対して、明快な否定と説明をしてもらえた感じだ。
 既に”村上推し”というバイアスがあることを明らかにした、経済・金融の専門家でも現役記者でもない私が薦めても説得力はないのかもしれないが、実際売れているようで、担当編集者のツイートによるとすでに3万部を突破したという。

 
 一見、装丁がおどろおどろしい感じだったので、トンデモ本と間違えられやしないかと偉そうにも思ったが、杞憂だったようだ(失礼しました)。

 本書は21の通説に対して真相を明示し、その説明をしていくという形をとっている(これは同じ中経出版から山内太地さんが出された『東大秋入学の衝撃 』と同じような構成だ)。その通説の一部を見ると、

「かつての『がんばり』を忘れたから、日本人は没落した」
「90年台バブルの崩壊は仕方がなかった」
「人口が減少する日本が成長できないのは、構造的な宿命だ」
「日本のデフレは、安価な中国製品が流入したせいだ」
「日銀の金融政策では、物価を動かすことなどできない」
「日本はインフレ目標政策をすでに導入している」
「お金を刷るだけでいいはずがない。構造の抜本改革を優先せよ」
「『右肩上がりの日本』は幻想。低成長の成熟社会を目指せ」

−−などが並んでいる。筆者はこの21の通説を21のウソと断じ、誤解を解いていく。

 少なくともここに挙げたいくつかの通説を読んで、「え?そうなんじゃないの?」「そう信じてた」という方は、まず読んでみてほしい。その上で自分はどう思うのか、考えてみてはどうだろうか。筆者は証券会社のエコノミストだから、「ポジショントークだ」と思う人もいるかもしれないが、読まずにそう決めつけるのはよくない。

 本書ではまた「おわりに」でちょっと驚かされた。村上氏の同僚でもあるマネックス証券の広木隆さんがZAi ONLINEの記事で紹介されているが、筆者の熱い思いがつづられているからだ。インタビューイからこうした熱い思いを聞けることはなかなかないから、氏の熱い思いを目の当たりにして、驚き、感銘を受けた。

 円安・株高を期待する反面、ここまでデフレが長く続くと、「いくらアベノミクスとか言っても所詮春くらいまででしょ」「持って参院選まででは」と弱気な見方をしてしまうもの。デフレには辟易していた自分も、後者の見方のほうが強くなっていた。
 しかし本書を読んでみて、不安と懐疑的な見方のほうが強かったアベノミクスに対して、多少は期待が持てるようになった。


……「多少かよ」というツッコミは、読んだ方からのみ受け付けたいが、私も本書を読んで、すべて鵜呑みにしているというわけではない。筆者とは違う見方をしている部分も(マイナだが)ある。また例えば、『60歳までに1億円つくる「実践」マネー戦略』で村上氏とともに著者に名を連ねている内藤忍氏は、アベノミクスにはかなり否定的とのこと。村上氏とは見方は違うわけだが、私は内藤氏の見方も信頼している。こうして異なる立場の見立てを吸収し、自分なりの理解や見通しを組み立てているつもりだ。


「アベノミクス」の行方は私たちの将来に大きな影響を与えるはずだ。もし積極的に情報を得ようとせずにいろいろな判断をしているなら、先行きの見立ての正誤や可能性を心配する前にやることがあると思う。


2012年11月22日木曜日

なぜ「嫌い・ダメ」なのか――「悪の教典」はたしかに気持ち悪い映画だけど


© 2012「悪の教典」製作委員会

“つまり今回の大島号泣の一件も、仕込みではあったが、関係者のほとんどが何も知らされていなかったため、結果的に大混乱を招いてしまったということなのだろう。”
サイゾーウーマンでこう解説されている、「『悪の教典』AKB48特別上映会」での大島優子号泣、中座事件。このニュースが流れる前に本作を観ていた私としては、「話題作りかもしれないなぁ」とも、「本当に気持ち悪くなって中座したのが本当かもしれないなぁ」とも思った。
 
 本作は、生徒にも同僚にもウケのいい高校の英語教師・蓮見が実はサイコパスで、自分の悪事を隠すために、学園祭の準備で泊まり込んでいたクラスの生徒たちを朝までに全員殺そうとする話だ。海猿のさわやかマッチョイメージを覆そうと伊藤英明君ががんばって主演している。
 私は原作は読んでいないのだが、とても気持ち悪い、後味のよくない映画だった。

 そりゃそうだ。高校生が次々にショットガンで殺されていくんだから、気持ちがいいはずがない。

 この中座事件の日、大島優子はこういうコメントを残している。
「わたしはこの映画が嫌いです。命が簡単に奪われていくたびに、涙が止まりませんでした。映画なんだからという方もいるかもしれませんが、わたしはダメでした。ごめんなさい」
こんなふうに「“私は”ダメ」と言われてしまうと、「そんなのおかしい」と言えなくなるが、ただエンターテインメントに関わる身であることを考えれば、これをマジで言ってるのなら問題ありだろう。(当日、配給の東宝が「真実は映画を見て判断してほしい」とコメントしているあたり、話題作りの色合いも濃い気はするのだが、その真偽は分からないのでこれ以上は触れない)。
 生徒が次々に殺されていく様を観ていて気持ちいいはずはない。だが、そもそも人が死ぬ映画なんていっぱいある。現実に人は死んでいる。殺されている。ではなぜ“この映画はダメ”ということになるのだろうか。

 現代の日本が舞台で、若い高校生が殺されるからなのか。
 じゃあ日本人じゃなければどうなんだろう? 高校生じゃなければ? さらに言えば、殺されるのが人間じゃない生物ならどうなんだろう?

 そういうことではないのだろうか。

 嫌なことから目を背ける権利も、観ない権利もある。
 でも、たとえそれがフィクションであっても「観たくない」なんて、女優が言ってていいのだろうか。フィクションの力、演技の力、映画の力というものを信じてないのだろうか。女優としてのプライド、矜持は上映終了まで自身を席にとどめるほどではなかったのだろうか。
 メンタルからイヤだと言うのは簡単。プレイヤーなんだから、ロジカルに、クリティカルに考えて発言してほしいと思う。

 それと、最後の「ごめんなさい」は制作陣に対してなのだろうか。「なんで謝るの?」「何に対して謝るの?」という謝罪をテレビでよく聞くので、ちょっと疑問に思った。


 私の感想としては、結構面白かったと思う。何度も書くように、気持ちのいいものではないが、あやしげな、不吉な雰囲気はよく出ている。気味が悪い。最後の校内の殺戮は三池節というのか何なのか、イケイケの軽い感じはしたが、勢いもあいまってカタルシスを覚えてしまう人もいるだろうと思う。倒れた宇宙飛行士の人形を戻すところとか、細部の演出にこだわりは見られたのだけれど、もっと蓮見の人物像や、形成された過程、現在の心の中の風景を、音楽とあやしげな画による雰囲気だけではなく、演出・描写で観たかった気はした(そもそもサイコパスの心の中をロジカルに理解できるのか?とも思うが)。あと伊藤君は頑張っていたけれど、もう一つ何か足りなかった気がする。それが何か、演技の善し悪しをうまく説明できないので分析できないけれど。

 続編は観てみたいと思う。

 


その他最近、試写で観た映画。

「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」
 インドからアメリカへの航海中、大嵐で投げ出され、1匹のトラと救命艇で生き延びた男の話。トラはほとんどCGというからすごい。話のあらすじがトンデモな感じだが、そのトンデモな設定の勝利でもある。原作がどうなのかは知らないが、主人公が不思議な体験をして生き延びる話だからか、神や宗教についてのセリフや描写が多いし、海での様子がとてもスピリチュアルに描かれていて、それが強過ぎる気がする。もうちょっとサバイバルのための工夫を丁寧に描いても良かったのではないか。3Dの必要性はない気がした。ただドキドキハラハラしながら、楽しんで観ることはできます。「観るんじゃなかった」とは思わないでしょう。

パイの物語(上) (竹書房文庫)  パイの物語(下) (竹書房文庫)

「ねらわれた学園」
 ご存じ眉村卓の名作ジュブナイル[『ねらわれた学園 』 を現代に置き換えたアニメ映画。まゆゆが声優をつとめたことや主題歌をsupercellが作ったことなどで話題になりました。現在、公開中です。原作は結構昔のものなので、現代に置き換えるにあたって携帯電話を使い、コミュニケーションのあり方について一石を投じている。その点について、もっと考えさせる描き方をしてほしかった。絵づくりの面では、逆光やレンズフレアが過剰すぎる気がした。もちろん狙ってやっているのだろうけど、なぜだろう。新海誠さんの作品が好きな方はいいのかもしれないと思った。

 

「塀の中のジュリアス・シーザー」
 ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したタヴィアーニ兄弟が監督・脚本を務め、アカデミー賞外国語映画賞・イタリア代表作品に決定した本作。ローマ郊外のレビッビア刑務所で、受刑者たちが、一般人に見せるために演劇「ジュリアス・シーザー」を上演することになり、稽古が進むうち、囚人たちは次第に役と同化。刑務所がローマ帝国のようになっていく。日本でありがちな、素人が頑張って一つのことに打ち込んで、涙あり笑いありで苦難を乗り越えて最後は団結して終わり、みたいなコメディじゃない点は評価できるが、ちょっとおカタすぎる。エンターテインメントというよりアート、いやエクスペリメンタル、実験的な映画という感じ。シェイクスピアはおさえとかないといけないなと思わされた。








2012年6月29日金曜日

号泣する余裕がなかった――映画『聴こえてる、ふりをしただけ』を観て



映画『聴こえてる、ふりをしただけ』より


リアルな演出とストレートなテーマ
号泣する余裕がなかった

 映画『聴こえてる、ふりをしただけ』の試写を観た。

 公式サイトによれば、ストーリーはこうだ。

不慮の事故で母親を亡くした、11歳の少女・サチ。周囲の大人は「お母さんは、魂になって見守ってくれている」と言って慰めるが、なかなか気持ちの整理はつかない。何も変わらない日常生活の中で、サチの時間は止まっていく。お母さんに会いたい。行き場のない想いを募らせるサチのもとに、お化けを怖がる転校生がやってくる ― ―。
遺された者は、どう生きて行けばいいのか。深い喪失から立ち上がり、明日へと生きるためには、何を捨て、何を自覚しなければならないのか。
母との死別、そして新しい世界。11歳の少女が悩み、立ち止まり、再び新しい日常へと生きる姿を瑞々しく綴った本作は、大人を一度子どもに戻してから、子どもから大人にさせてくれる。

  本作を勧めてくれた友人で映画ライターの鈴木沓子さんが
Web D!CEでいいインタビュー記事を書いている。彼女はその記事で「上映中、ポケットティッシュを使い果たしてもまだ足りないほど号泣させられ、鑑賞後しばらく、言葉を失くしました」と書いている。頷ける。だが私は、途中数カ所で泣いたものの、そこまでは号泣しなかった。とはいっても、何も「記事は大げさだ」と言いたいのではない。

 私が泣いたのはすべて“子どもだけのシーン”だった。もともと「子どもが自分の非を認めて必死に謝る」というシチュエ―ションに特に弱く、その情景を思い浮かべただけで泣きそうになる性質なのだが、私が(すすり泣きはしたものの)号泣しなかったのは、本作があまりにもリアルで、自身を投影して観るあまりに考えこんでしまったからで、つまりは泣く余裕がなかったのである。


「おためごかし」を言うのが
本当に大人の役割か
 

 前出のインタビューで今泉監督は、自身が小学生のころに家族が大病を患った時のことを語っている。

当時一番つらかったのは、いろいろなことが起こった自分の気持ちとは裏腹に、学校では、これまでの日常生活を送らなければならないこと
 今日どんなに辛いことがあっても明日の朝には学校に、職場に行かなければならない……。家人の死という大きな出来事に限らず、事の大小の差はあれ誰もが経験していることだろう。例えば彼氏にフラレて何もする気が起きないのにプレゼンしなきゃいけないとか、取材でインタビューに行かなきゃいけないとか。そういう辛いときだからこそ、変わらぬ日常を過ごすことで気を紛らわせ、時が過ぎ心が癒されるのを待つことができる。そう分かってはいても、その渦中にある本人は辛いものだ。

 そこで考えたのは、


「その渦中にあるのが子どもだったときに、大人はどう接するべきなのか」


 ということだった。本作の大人たちは、母を失って傷心のサチに、「お母さんはすぐそばで見守ってくれているからね」と繰り返す。そしてサチは霊という存在に強い関心を持つのだが、ある転校生と出会い、理科で「脳の働き」を学ぶうちに、残念ながら理性ではその存在を否定せざるを得なくなっていく。そこには、「サンタさん」を信じなくなる過程にある「切なさを伴うファンタジー」はない。

 そんな心情の変化に気付かない大人たちは、お母さんが守ってくれているという言葉をかけ続ける。さも「それが大人の役割」と言わんばかりに。そんな大人に対し、サチは疑問を素直にぶつける。

 「お母さんがそばで守ってくれているのに、なんで友達にいじわるをされるのか」と。



 そこで私は何と答えられるだろうか。
「それでもお母さんはそばにいる」とサチに言えるだろうか……?


 私は「お母さんはそばにいる」と言ってやりたいと思った。言わねばならないと思った。押し付けなのかもしれないが、「お母さんが身近に感じられる子でいほしい」と思った。
 
 劇中で大人たちはサチに優しい言葉をかけるが、ことごとくおためごかしに聞こえる。ほとんど考えもせずに、慰めるためだけにその言葉をかけている。たしかに、それは仕方のないことなのだろう。人生を引き受ける覚悟もないのに、人生に関わるつもりなどないのに、人生を変えるほどの経験をした人に対して、そうそう慰めの言葉なんてかけられない。
 

 自分がサチの父親であるなら、何を置いても娘を支えなければならないはずだとして、もし自分がサチの父ではなく、そばにいる他人の大人だったらどうなのだろうか。やはりおためごかしを言うしかないのだろうか?

 少なくとも、「もし自分の娘ならこういう言葉をかけるはずだ」という言葉をかけたいと思った。できるかどうかは分からないが、それこそが周りにいる大人の役目なのではないだろうか?
 11歳だからと子ども扱いすることなく、正面から向き合わなければならない。

(こんな偉そうなことを言うと、「それほどの壮絶な体験がないのだろう」「甘すぎる」と批判されるかもしれない。だがそれは甘受するしかない)

かけられたままのエプロン
心を癒す時間と共に失われるもの


 本作で感じたもう一つのことは、「女性の強さ」だった。

 サチが今泉監督の投影だから主人公が女児であるのは変えられないとして、彼女が直面するのが「母の死」ではなく「父の死」だったらどうだっただろうか。「妻と死別した夫」ではなく、「夫と死別した妻」の話であったなら、話はどう展開していただろうか。


(ここからほんの少しだけ、上に書いた「ストーリー」には書かれていない話の筋に触れます)

 サチは母の死後、辛さを感じながらも学校に通い、日常を過ごす。その一方で、父親は妻の死を受け止めきれず、大きく変わっていく。それはもう、まったく人が変わったようになる。“憑かれたように”とはあのことを言うのだろう。本作はフィクションではあるし、(子どもがいるのに)「さすがに夫がそこまで打ちひしがれるものだろうか?」と思わなくもなかった。しかし、だからといって「まったくもっておかしい」とも思わなかった。夫がやつれ果ててしまった状態をみて、「そうなってしまうのかもしれない」と思えたのだ。

 だが逆に、夫が死んで妻と子どもが残されたのだとしたらどうだっただろうか。とてもではないが、女性が何も手につかなってしまうとは思えなかった。それは私の「母性に対するリスペクト」なのかなと思ったりもした。

(ところで、自分の死後に夫があれだけ打ちひしがれるのを見たら、亡くなった妻はどう思うのだろうか。そんなことをふと考えた。嬉しいだろうか? 母としては「何やってんの、あんた。サチがいるんだからしっかりしなさい」ってことになるだろうが、夫婦は子どもが11歳になるくらいの長ーい時間を過ごしている。それでなお夫が、あれだけ深いショックを受けるとは……)

 また前出のインタビューで今泉監督は、“ほこり”のシーンについて、

ほこりは、そのまま撮っても、なかなか映らなくて苦労したカットです。ただ、こういうシーンは、男性には細かすぎて、伝わらなかったみたいです。女の人には共感してもらえることが多いのですけれど……。

 と述べている。

 だが私はそうは思わなかった。単に私が女々しいだけなのかもしれないが、自分がホンを書くとしても(不遜だけど)そんなシーンは入れるのではないかと自然に思えた。
 むしろ、「ちょっとベタかな」とすら思った。

 それよりも私が「あぁ、これは!」とシビれたのは、“エプロン”のほうだった。

 いつも母が座る食卓の席、背もたれにかけられたエプロン。死の直後、サチも一度は手を伸ばしかけるのだが、逡巡して、触らない。そのまま何カ月もかけられたままになる。妻の死後、まったく別人のようになるほど打ちひしがれた夫ですら、触らない。まるで「そのエプロンを動かしてしまったら、本当にお母さんが返ってこなくなる」と思われているかのように、エプロンがそこにずっとかけられたままになっている。

 私がそこで「あぁ」と思ったのは、エプロンにはおそらく母の匂いがしみついているだろう、と思ったからだ。放置して時が経てば経つほど、その匂いは失われていく。ようやくそのエプロンを手に取る勇気が生まれたころには、おそらくその匂いはかけらもないだろう。なんと切ないことか……。

 * * * * *

 今泉かおり監督は26歳で会社を辞めて映画学校の生徒になったそうで、当時制作した短編をもとにして作り上げたのが今作だという。本作は、重くて真面目なテーマを持った、視聴者がしっかり受け止めなければいけない良作だと思うのだが、演出面では、まだまだだとも感じた。間の取り方やカメラワークなど、何というか、時々“ひっかかり”のようなものを感じる演出だったような気がした。
 だがこれが長編第一作ならば、それはいわば名刺代わりだ。その名刺代わりの作品を存分につくり、国外でも高い評価を受けるほどに仕上げたのだから、これはすごいことだ。高く評価してしかるべきだろう。
 とはいうものの、いじわるな言い方をすれば、一作目はすべてを注ぎ込むから、良いものは撮れる。
 早く今泉監督の二作目が観たい。