2013年5月31日金曜日

ブログを毎日書いてみて ネットのクソ情報に溺れるわ

 5月は一カ月間、毎日ブログ記事を更新した。アップロードが12時を過ぎた日もあったが、毎日何かしら記事を書くことにし、何とか今日この記事で31本目だ。一カ月やってみて思ったのは、「まぁ一カ月くらいなら難しくも何ともないな」ということだったのでだが、それでも節目は節目なので、ちょっと振り返ってみる。
 「何でもいいんならできるだろ」というツッコミをされるかもしれないが、自分なりに「面白い」と思ったことしかネタにはしないとか、TwitterやFacebookで投稿するような長さでお茶を濁すようなことはしないと決め、無理しすぎず、楽もしすぎず、とりあえずやってみた。

 このブログを始めたのは、TwitterやFacebookでは書きたいことがあっても短くなってしまうし、雑誌では発表の機会がそうないし、必ずしも好きなテーマ、長さで書けるとは限らないこと(また雑誌を休刊したこと)などが理由だった。過去には、業務(またはその延長戦上)でブログをやったりもしたが、会社の都合や業務とのかかわり合いとの兼ね合いでいずれもやめてしまった。業務がどうあれ会社がどうあれ、自分個人として続けてみようと思って、URLにも自分の名前をいれて、このブログを始めた。

 昔から、日々生活していて、「あれ?なんだこれ」とか「ほほぅ、これは面白い」と思うことが結構あって、「何かのときに書こう」とは思うのだが、その何かは自分でつくらないと訪れない機会だから、自分でその機会をつくろうと考えた。
 そして書くテーマについては「それなりに長い文章としてまとめておきたいもの」と考えていたのだが、そうすると今度はなかなか書かなくなってしまう。書きたいから書くのではあるが、つい忙しさにかまけて、一カ月や二カ月平気で書かなくなってしまう。だからこの際、とにかく短くてもいいから書いてみようと思い、続けてみた。
 とにかく書こうと思ったのは、取材をしてこんなことを思っていたことが直接の理由だ。2月からしばらく経っているが、会社の移転や諸々あって、GWに若干落ち着いたタイミングで始めた。その記事にも書いたように、アウトプットの機会を無理矢理つくったからこそ、インプットを積極的にするようになる。インプットしたところで出す機会がなければ宝の持ち腐れ。インプットも必要だがアウトプットはもっと重要だ。

 ところでこの「インプット」、種類にもよるが、自分が望んでいる類いのアウトプットをするためには、質の高いインプットが欠かせない。僕は(あまり好ましいことではないが)人見知りするので、情報を得るのは人からというより、物やサービスからということが多い。そして、本や雑誌、劇場、テレビ、ネットなんでもいいのだが、面白いもの新しいものは、それなりにお金を払って吸収するもののほうが、情報としての価値は高い。ついお金をけちって情報収集を怠ったり、無料の情報ばかりで過ごしたりすると、目には見えないけれどの後々のアウトプットに如実に影響してくる。それを実感した。
 もともと「本代はけちるな」と教えられたこともあって、面白そうな記事があれば雑誌や本はあまり躊躇せずに買っていた。だがいろいろお金がかかるようにもなり、会社も順調とは言えなかったために報酬を下げたりしたため、しばらく雑誌や書籍をあまり買わずに過ごした。映画もよほどのことがなければ劇場には行かなかった。古書店やレンタルは時折利用していたが、頻度はそう高くなかった。
 すると、それがボディブローのように効き始めた(と感じたことがあった)。なんと言うか、インプットを盛んにしていたときに感じていた、自分の中の引き出しのバラエティーさが失われていた。アウトプットするときにネタの傾向が似てしまう。何か新しいニュースを見たり聞いたりしたときに、インプットを盛んにしていたころは「あ、これはこないだ見たアレと似ている」とか「またこんなサービスが出ているな、はやっているのかも」とか(あまりいい例じゃないけど)、そういう気づきがそれなりにあったのだが、この時期は、時々意識してインプットすると、「あ、こんなのがあるのか」「これは知らなかった」と驚くばかりだった。
 ちきりん女史はインプットよりもアウトプットのほうが重要という考えを著書で示していて、それもよく分かるのだが、「インプット」「アウトプット」といってもそれぞれ目指すものや手法が違うので、単純に比べられないということだろうと思う。

 ネットがないと生活できなくなってしまった現代、情報は無数にある。けれど、無料の情報は一過性の、消費するためだけのネタでしかない。それをないがしろにしていい訳ではないが、吸収する物がそんなのばかりでは、やはり自分の中のフィルターに残るものがなくなってしまう。フィルターもさびついてしまう。

 だから今は、厳しいなりにも厳選して、多少は無理してでもインプットするようにしている。そしてさらに、今以上にインプットをするよう、このブログでの記事更新(アウトプット)の回数を増やしてみた。

 今思うのは、ネットで得られる情報、特に簡単にアクセスできる、アクセス数を稼ぐためのニュースやポータル、まとめサイトなどの情報は、(いいものもあるが)クソが増えすぎているということだ。ネット巡回していて、気分が悪くなることがあった(そんなに突飛なサイトやサービスをみて回っているわけでもないだろうが)。見出しはそれなりにフックになっているが、クリックしたら全然ミスリードだったり、大したことでもないのにクリックさせるために大げさな見出しをつけたりしている。

 「無料だから」といわれればそれまでだけれど、さすがに線引きをしなければいけない時期にきているなと気づいた。あぁ、だからキュレーションとかまとめとかが流行るのか(クソまとめも多いけど)……そういう意味では個人メルマガがはやるのも理解できる。


 とりとめがなくなってしまったが、とにかく一カ月やってみて、自分なりに些細ながら分かったこと気づいたことがあり、やってよかったと思う。せっかくなので今後もできる限り書き続けていき、日々記事の小ネタを後々しっかり料理しなおすというスタンスでやってみようと思った。


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同性愛が幻というなら異性愛も幻--フランスで初の同性婚カップル誕生

フランス初の同性婚カップル誕生、男性2人が愛誓う 

 フランスで初めてというのが意外な感じもしますが、ともかくカップル誕生の吉報。おめでたいことです。 同性愛についての賛否について私自身、詳しい訳でもしっかりと自分の立場を見つめ直した訳でもないのですが、基本的には反対ではありません。 

 反対の論拠は想像するに、生物は男女・雌雄という異性同士が子孫を生んで次代につながっていくものだから、異性愛が自然だ……ということなのではないでしょうか。宗教上の理由での反対もこれに近いのではないでしょうか。

  しかし、人間が生まれてくる理由が、「子を産み育てるためだけ」とは言えないと思います。子孫をつくらないという選択肢もあるのが人間ではないでしょうか。望んでもできない方も少なくありませんが。 生物が「種の保存」に最も高いプライオリティを置くものだとしたら、人間を人間たらしめている、ほかの生物と人間をわかつのはまさに、その点 なのかもしれません。

 「無駄」という表現をつかうと誤解されそうですが、生きていくということだけ考えれば、人間は何と無駄なことをしているか。音楽を聞くとか、ブログを書くとか……避妊をしてのセックスだってそうでしょう。これらは、生きること、種を保存することだけを必要なことと考えたら、「無駄」(必ずしも要としない)ということになるでしょう。
 人間は種の保存のためだけに必要な行動しかとっていない訳では決してありません。ですがそれをして「人間はおかしい」と言っていいものとも思えません。「働かざるもの食うべからず」が卑しいという考えもありますが、人間には他の生物にはない、違いがあります。長所なのか短所なのかはともかく。

 同性愛はたしかに種の保存、次世代を産むということに関しては無縁です。しかし、だからといって、それを否定することは人間的とはいえません。もし同性間の愛が幻であるとするならば、異性愛のそれも同様でしょうし、そもそも愛情を幻と考えてしまうのは寂しすぎます。

 ただ、同性愛を認めることと同性婚を認めることはまた別の問題でしょう(何も「同性愛は認めるが同性婚は認めない」といっているのではありません)。今の日本は、同性婚が認められるという未来を想像しづらい状況にあると思いますが、今後議論の場が増えていくのではないでしょうか。

 上に、「しっかりと自分の立場を見つめなおしたわけではない」と書きましたが、この話題についてはいろいろな意見や考え方を見聞きして整理したいと思います。

2013年5月28日火曜日

攻殻S.A.C.ファンがARISEを観た感想――少佐じゃないけどしっかり素子だった

 

攻殻機動隊ARISE border:1 Ghost Pain」のプレミア先行上映イベントに行ってきました。自分は別に押井攻殻でも原作でもなく、ただS.A.C.が好きだというファンなだけに、失礼ながらも心配しながら観に行きましたが、満足して帰りました。

以下ちょっとイベント内容のレポートをしてみたいと思います。話のあらすじには触れていないので、よほど「絶対に予備知識を入れたくない」という方以外は、鑑賞前に読まれて楽しみが損なわれることはないかと思います。

2013年5月27日月曜日

「オススメは?」という質問の恐ろしさ

 知人がTwitterで、これからレンタルするDVDの作品名を書いていた。まだ観たことがなかった作品だったので、興味を持った。それと同じ日。ネットで、オススメの本を持ち寄って紹介するイベントの記事を読んだ。まだ読んでいない本も出ていたが、あまり興味を持てなかった。

 前者では興味を持って、後者では持てなかった。その理由が何かといえば、「誰が勧めているか」の違いだ。前者については、その知人は「これから観る」というだけだから厳密には勧めているわけではないが、それでもその知人が「借りてみよう」と思った、それだけ関心を持ったということ。だから自分は「彼が観たいと思っているなら」という前向きな評価をした。一方、後者は、どんな人が勧めているのか分からない。予想外の当たりがあるのかもしれないが、はずれだって多いだろうという思いが勝ったわけだ。

 そもそも映画にしても本にしても、巷間よい作品だと言われているものが自分の好みとは限らない。自分が一目置いている人が勧める作品だからといって、自分のお気に入りになるかどうかは別だ。それでもやはり、誰だか分からない人が勧めているものよりも、一目置いている人、センスがいいと思っている人が勧める作品のほうに食指は動く。特に、過去に好きだった作品が同じだったりすると余計にだ。

 こう考えている人が増えているのかどうかは知らないが、それが自然だとすれば、ソーシャルメディアが広く支持されるのも分かる。「全米が泣いた」作品よりも、「自分と好みの合う友達のAさんが『泣けるよ』っていってた」作品のほうが観てみたいと思うのは自然ではないだろうか。

 大学生のころ、かなりの数の映画を(レンタルビデオで)観ていて、そういう話をすると「オススメは?」と(軽々しく)聞かれることがあるのだが、答えに窮してしまう。なぜなら、自分が好きな作品が相手の好みに合うかどうか分からないからだ。
 相手が「どうせ好みは違うんだから」と分かってくれている人ならいいのだが、軽々しく勧めて相手が観て全然好みと違っていた場合に、「あの人(濱田)はこれを面白いと思っているのか」と、自分がいないところで後々に思われるのも、何となく嫌だ。自分のセンスに絶対的な自信があればいいのだろうけれど、自分はそんなに不遜ではない。
 だから「オススメは?」と聞かれたら、「これまでに好きだった映画は?」と聞きかえして、“その場なりに”真剣に答えるようにしていた(とはいっても、誰にでも威張れるほどたくさん観ているわけでもないのだけれど)。少なくとも好きな作品を聞けば、監督や俳優やジャンルなどが分かるので、「オススメといえるかどうか分からないけど……」と言い訳しつつも、別の作品名を触れやすくはなる。「あの映画なら、監督が◎◎さんだけど、同じ監督の△△は観た? 僕はそっちのほうが好きだけど」とか言える。

 ただこんな心配も、本当に好きな作品であれば、心配はまったくせずに伝えられる。それは「あの作品なら面白いから間違いない」という場合もあるし、「相手の好みと合うかどうか分からないけど、とにかく自分は好きなんだ」という場合もあって、いずれにせよ自信があるからだ。

 怖いのは、「オススメは?」とさりげなく聞きながらこちらのセンスを試そうとしているのではないかという場合だ。自分は、高い評価をしてもらいたいと思う人の前だと、つい張り切って意気込んで結果失敗することが多いので、焦って結局、超無難なことしかいえない。
 逆に、「これをオススメしたい!」「聞いてくれ!」という自信がある作品を観たり読んだりしたときに限って聞かれない。聞かれてもないのに言うのは、気が引ける(ブログでは書くけれど)。


 「オススメの作品は?」と聞かれたいけど、聞かれたくない。
 もし聞くのであれば、それはとても恐ろしい質問だということを踏まえて、そして回答に時間がかかることを覚悟して聞いていただきたい。ゆめゆめ、何も考えずに聞くようなことはしないでいただきたい……。




(笑)



といいながら今ならオススメの漫画はこれでしょうかね

2013年5月26日日曜日

参考にならないランキング

女性声優の歌手デビュー続々、世界観の構築でアプローチする新世代

 声優のCDデビューなんて珍しい話ではないと思いますが、この記事では、最近はアニメ・声優の作品を聞いてこなかった音楽ファンも聞いているのでは、とのコメントが紹介されています。あくまで一店員の単なる印象でデータはないですが、まぁそうなのかもしれません。別に悪いことでも不思議でもないのですが、それよりもランキング、特にオリコンについては、何でもかんでもいっしょくたのランキングで測るのをやめたほうがいのではないかと思います。

 海外ではラジオのジャンルにしても、音楽の種類で分けられていると思います。カントリーとロックが一緒になってることって無いのではないでしょうか。
 日本では演歌とアイドルとクラブ系と…すべて同じランキングで紹介されています。専門のチャートもあるのでしょうが、あまり聞きません。

 ランキングの数が増えると紹介が大変だとかマニアックになるとかいった弊害もありそうですが、制作者は分けて欲しいと思っているんじゃないかと思います。

 オリコン的には分けたくないのでしょうか。ランキング一位の作品が複数あれば、プロモーションに使われる回数も増える気がしますが、ありがたみがなくなってしまうでしょうか?

 しかし握手券付きのAKBのCDばかり並んだチャートを見ても何の参考にもなりません。CDが売れないという時代に一人勝ちしている、売りまくっていること自体は否定しないし、すごいと思いますが、参考にならないランキングを見せられても嬉しくもなんともありません。

 ところで冒頭の記事は、脱力な締めとなっております。
 
声優の音楽活動が定番化してきただけに、音楽性の一面だけではアピールしにくくなっている。今後は個人のキャラクターが垣間見えるような世界観を見せることで他者との差別化を図る声優が増えていきそうだ。


 ん?だから?どういうこと?

2013年5月25日土曜日

映画ポスターにおける顔写真とクレジット表記の位置問題


 映画「クロユリ団地」の広告が夕刊に出ていて思い出したのですが、映画のポスターでよく気になることがあります。それはキャストのクレジット順と顔写真の並びがまったく逆になっていたりするのがどうにかならないか、ということです。このポスターでいえば、顔写真は左から成宮君、あっちゃんの順ですが、タイトル下のクレジットは左右がテレコになっています。

 ただこのポスターくらいなら、さほど問題ではありません。並んでいるのが異性だし、写真と文字が若干離れているのからです。もっと紛らわしいポスターがたくさんあります。複数のメインキャストの名前が並んでいるときに、見事に順番が逆になっていたり、名前と顔が一致しない俳優が複数いて判断に困ったり……。左から掲載されている名前のテキストとアップの顔写真の位置関係がかなり近いのに、見事にバラバラの場合もあって(顔写真の近くに別の人の名前があるとか)、「これ作った人も気づいてるだろうけどなぁ」と思ったことは一度や二度ではありません。

 クレジットは順番が契約で決められているでしょうし、レイアウトを「紛らわしくないもの」にしようと思うと、デザインの幅がかなり制限されてしまうので、この問題はなかなか解決が難しそうです。

 皆さんも似たような経験ないでしょうか? 紛らわしいと感じたことはないでしょうか?

2013年5月24日金曜日

Suicaで「不足額チャージ」ができるようになった理由?


Suicaを使ってJRの鉄道に乗り、降りるときにチャージされた残高が足りないと、これまでは「1000円以上チャージする」か「不足分だけ支払って精算券を受け取る」かどちらかの方法で精算する仕組みだった(精算券を受け取った場合は、改札ではその精算券を通して出るので、Suicaは使わない)。

 だが、つい数日前、チャージ分が足りなかったので不足分を支払って出ようと思ったら、これまで見たことがないボタンが表示された。それが上の写真だ。「精算(不足額チャージ)」と書かれている。これを押すと読んで字のごとく、足りない分だけチャージされることになる。
 例えば190円区間に乗り、残高が160円しかなかったとする。その場合にこのボタンを押すと、30円だけチャージできる。100円を入れると70円釣り銭が出てきて30円だけチャージされ、改札を抜けると残高は0円になる。

 と説明すると当たり前にしか思えないが、以前はこんなボタン、仕組みはなかった。上に書いたように、不足分だけ入れる場合は「精算券」が紙で出てきていたし、そうでなければ1000円以上チャージするやり方だった。1000円未満のチャージができるのは改札内で不足分が生じたときだけで、改札外でふつうにチャージしようと思うと、従来どおり1000円以上しかできない。

 ちょっと調べてみると、JRのページに紹介されていた。またこのブログによると、3月のダイヤ改正からこの仕組みになったようだ。ちなみに東急のページにはこうあり、PASMOでは以前からこの仕組み(不足分チャージ)ができていたそうだ。

 交通系ICカードの話題では、先日、1円単位での支払ができるようJR東日本が申請するというニュースがでていたが、これを見越してのことなのだろうか?
 この話、ICで支払うと高くなる場合があるということを聞き、さらにニュースでは
券売機での切符は10円単位のままで、二重の運賃設定になることや、4月までの準備期間が限られていることなどから、冨田社長は「国土交通省の見解を踏まえ、慎重に判断したい」と話した。
とあって、「ちょっとそれはおかしくないか」と思っていた。「国土交通省の見解」はふまえるけど、「利用者の声」は聞かないのかと……(そりゃまぁ聞けば「高くなるのはおかしい」「安いほうに合わせるべきだ」ということになるのだろうけれど)。

 しかし、仕事で鉄道を頻繁に利用する営業を抱えた企業などにとっては、数円でも積もればバカにならないわけで、些細な問題ではない。税率アップで値上げされるのは仕方ないにしても、機械や設備の問題で利用者の負担に差を付けるのはいかがなものかと思った。

* * *

 余談になるが、Suicaへのチャージについていえば、どうにかしてほしいと思っていたことがほかにもある。定期券を更新するときに、「改札機」で更新すると同時にチャージができるのだが、「みどりの窓口」で更新しようとすると、同時にチャージはできないことだ。「改札機」の利用を勧めようという狙いなのかどうか分からないが、どうにかならないものだろうか。なぜか改札機だとはじかれるクレジットカードもあって(通常利用はできるのに)不便を感じている。

2013年5月23日木曜日

スマホが大きくなって良いこと悪いこと

 スマートフォンをGalaxy SからGalaxy S3αに機種変更した。画面は4インチ、ワイドVGAから4.8インチのHDになり、CPUも1Gから1.6GHzのクアッドコアに。なぜか前機種はGPSの反応が悪かったが今度はそんなこともなく、Arrows Tab LTEの出番がほとんどなくなるほど、S3で何でも済むようになっている(新規契約と同時に済ませたことや、値段交渉をしたことからかなり安く済ませられた)。Arrows Tabはテキスト入力のレスポンスが悪いこともあって、週末などブログ記事もS3で書いてしまうほどで、いい買い物をしたと満足している。

 しかし困ったことがない訳でもない。まずサイズが大きくなって見やすくなり、入力しやすくなった反面、ミスタッチも多くなった。

(左から)Galaxy S3αとS
  
 たとえばSのときは片手で操作できていた(下写真)。操作は主に左手で行っているが、親指が余裕で画面の端まで届いていた。画面右上のほうも無理すれば届いていた。


だがS3αでは左手だけでは操作が完結できなくなってしまった(下写真)。親指が端まで届かなくなった。下の写真では指が若干曲がっているようにみえるが、思い切りのばしても親指の腹は、画面の端まで届かない。無理に指先だけでも届かそうと思うと、グッと握り直さなければならず、ホールドの支えとなる小指が痛くなる。

  入力はQWERTYのキーボードで行うようにしているので、画面が大きくなった分、キーのミスタッチは減った。しかし今度はアプリの広告ミスタッチが劇的に増えてしまった。

 これまで使ってきたアプリの広告でクリックしたくなるものはなかった。いまS3αで使っているアプリで広告が出るのは2chのビューアーくらいだが、まず毎日のように、画面下に出てくる、オンラインゲームを中心とした広告をミスタッチしてしまう。
 「別に広告をクリックするくらいでお金を取られるわけではないだろ」「無料のアプリを使っているんだからそれくらい我慢しろ」と言われそうだが、意外とストレスになるし、「そもそもアプリにお金をかける人ってそんなにいないだろ」とも思う。
 また上にも書いたのだが、左手でしっかりホールドしたときに小指が痛くなるのも意外とストレスになる。それなりの大きさなので、しっかりと持っておかないと簡単に手からすべり落ちそうになってしまう。

 携帯でも音楽プレイヤーでも、一度は小さくなって、また機能が付加されて大きくなって、やがて使いやすいサイズになっていくのだろうが、その意味ではスマホは適切なサイズ(いい落としどころ)が生まれていないのかな、とも思ったりする。

 

2013年5月22日水曜日

教育問題について考えるサイト「育ナビ」 初回記事(横浜市の待機児童問題)アップしました



 先日、横浜市の保育問題について書いた記事でも触れましたが、荒木由美子市議(日本共産党)のインタビューを公開しました。

「待機児童」改善した横浜市・報じられない裏側 荒木由美子市議インタビュー(前編)
「待機児童」改善した横浜市・報じられない裏側 荒木由美子市議インタビュー(後編)

 「育ナビ」という教育問題について取材し報じるサイトを立ち上げました、その記事の第一号です。このサイトでは乳幼児期から小学校3年生くらいまでの子どもを対象にした教育について考えたいと思っています。小学校3年生はちょうど学童保育が終わる学年です(高学年までやっているところもありますが)。保護者をはじめとした大人たちの影響が強い、幼少期の教育について、識者や自治体、企業などに話を聞いて記事にすると同時に、意見も募っていきたいと思っています。一方的な意見の表明をするためのサイトではなく、いろいろな立場の意見が集まる場所にしたいと思います。

 荒木議員に取材したのは4月末でしたが、取材をお願いしたのは、いま教育問題で取り上げるべきは「待機児童問題」が旬だろうと考えたことが発端です。杉並など都内の関係者への取材を当初考えていましたが、婦人公論で杉並区議と住民代表の「炎上対談」をやられてしまい、一方でTVニュースで「横浜方式」が盛んに持ち上げられていたため、「横浜の保育の問題点について聞いてみたい」と考えました。
 もしかしたら共産党所属の議員のお話ということで、色眼鏡で見てしまう方もおられるかもしれません。しかし荒木議員は保育士として勤めた経験もあり、横浜市の保育についても批判だけするのでなく、良い点は評価しておられます。保育の理想を持ちつつ、現実的にできること・すべきことをふまえて精力的に活動されています。ご一読いただければ、傾聴に値する内容と評価していただけると思います。

 サイトを立ち上げたばかりで、また運営も細々とやっているので、まだ初回のインタビュー記事しかありませんが、続いて横浜市の保育関係者に取材をしたいと考えています。

 また「育ナビ」のコンテンツについては、ある程度取材記事がまとまったら電子書籍にしていく考えです。
 待機児童問題に限らず、教育についてはいろいろと調べたいことがたくさんあります。学童保育、教育委員会制度、早期学習……。サイトで取り上げるべきテーマや、サイトの記事へのご意見、日頃感じている教育問題、実際に体験したエピソードなどを募ることも考えていますので、今後「育ナビ」をよろしくお願いいたします。

2013年5月21日火曜日

カチンときた時に問われる――乙武さんの入店拒否の件で



 乙武さんが銀座のレストランでの入店拒否にあった件で、彼とレストランそれぞれに対する擁護と批判の両方をネットでたくさん見かける。言った言わないの問題、そもそも完全なバリアフリーをすべての店舗が提供できるかどうか、店名を出すべきなのか、などなど検証すればいろいろな意見がでてくる問題だ。だがこの件について僕が考えたことは、「果たして自分が乙武さんの立場なら、または店主の立場なら、どういう対応をしていただろうか?」ということ。「もし現場に自分が当事者としていたとして、今回騒動になったような行為をしたのでは?」ということだった。

 僕は乙武さんに雑誌の取材などで数回お会いし、Twitterで何度かやり取りをしたことがあるだけだが、とても爽やかで真面目な好青年だと思っている。もちろん取材者に見せている顔がすべてではないだろうけれど、それでもたくさんの人に会っていれば、「この人と友達になりたい/なりたくない」ということを感じ取るし、ふとした瞬間に「ニコニコしてるけど、こいつは嫌な奴かも」と思わされることがあるが、彼にネガティブな印象を持ったことはない。また実際に彼と会って話した人で、彼を悪く言う人を僕は知らない。

 だから今回の件でも彼は悪くないだろうといいたいのではない。だが店名を出して批判しているということを知ったときに思ったのは、「あれ? どうしちゃったの?」「それはさすがによくないだろう」ということだ。だが同時に、親近感のようなものを覚えた。

 Twitterでの彼のツイートを閲覧している方ならご存じと思うが、TL上での彼は毒舌、歯に衣を着せない発言で知られる。障害をネタにしたツイートでも平気でして、ときに各種掲示板でもヒかれてることがあるほど。そういう行為をいいと思うか、嫌悪感を感じるかは人それぞれだと思うが、ひっくるめていつも「叶わないなぁ」と思わされる。彼がいうことはいちいち正論だからだ。勝手な思い込みや固定観念をいともたやすく破り、「かくあるべし」「自分はこう思う」という正論、持論をストレートに、躊躇せず(実際は葛藤があるかもしれないが)展開している。だから何かにつけ、「さすが乙武さん」という見方をするようになっていた。

 だけど今回、彼は自分でも後で反省するような行為をしてしまった。実際、彼はブログで反省文を掲載している。「あぁ彼も普通の人なんだ」ということを改めて感じ、親近感を覚えたのだ。障害者だから普通じゃないと思っていたということではなく、乙武洋匡という人物について、彼の態度や発言がいちいち首肯せざるを得ないものばかりだったから、「普通じゃない」と一目置かざるを得なかったのだ。

 だがその文面を読むにつけ、改めて「やっぱり叶わない」と思った。ここまで自分の嫌らしいところをさらけ出せるものだろうか。つい格好つけたり、都合の悪いところは隠したりしてしまうものではないだろうか。そして彼はその文の中で、反省しながらも、店主への批判もしっかりしている。そこに「読む人に反省と思われなかったら嫌だから、そういうことは敢えて書かない」という思考はない。計算ではないからこそ、言うべきは言う、というスタンスなのだろう。

 別に障害がある人の発言が正しいとか、客だから絶対正しいとか、さらにいえば乙武さんだから間違えないということはない。彼も、自分が障害者だから、客だから、乙武洋匡だから、有名人だからということは”基本的には”思ってないだろう。だがふとした瞬間に、カチンとくる。そしてその気持ちを吐露してしまった。

 そりゃもう、「そういうこともあるでしょ」という類いのもんじゃないだろうか。

 たしかに店主の側からすると、さらされて迷惑だという見方もできる。だが乙武さんが説明していることがそれなりに事実であるならば、「そりゃ言われても仕方ないのでは」とも思う。でも自分が店主の立場に立ったとして、失礼なく、でも無理の無い範囲で、気持ちのよい対応を自分ならできるだろうか。カチンとだってくるだろうし、つい言っちゃいけないようなことも言うのではないだろうか。そう考えると、店側にも「分かりますよ」と、これまた勝手に親近感を抱いてしまう。

 どちらの立場に身を置いて考えても、やはり他人事で済まされる問題じゃない。世の中きれいごとばかりじゃないし、理想はあっても自分が実現を阻んでいることもあるし、それを改めて批判されれば素直に受け入れられなくてカチンとくることがある。そうしたときに何か問われる資質があるのかもしれない。まだまだ自分も修行が足りんな、修行が……。

2013年5月20日月曜日

待機児童ゼロ達成 賞賛の一方で検証も必要だ



 横浜市の林文子市長が本日5月20日の会見で、待機児童がゼロになったと発表したそうです。ハード面の設備を充実させたことや、利用者と直接連絡を取り合ってサービスや保育所を紹介したりする保育コンシェルジュ制度の導入、役所内の連携など、いろいろな取り組みが功を奏したということでしょう。

 横浜の状況については先日、地元議員に取材をして、なかなか全国ニュースにはならない、現場の実態や悩みを聞きました(近いうちにインタビュー記事として公開したいと思っています)。実際には前の中田宏市長時代から、保育に関する取り組みは改善されていたようですが、最近のニュースでは高く評価されている「横浜保育室」については報じられていない限界がありそうですし、保育所などを急に増やしたことによる新たな問題もあるようです。それに、「本当にまったくゼロ」ということは、おそらくないでしょう。とはいえ、統計上でも一旦はゼロになったということを前向きな評価してもよいのではないでしょうか。

 「ちょっと待て」という市民はたくさんいると思います。想像ですが「保育サービスを利用できてはいるけれど希望とはほど遠い」とか、「うちは横浜保育室を使ってるけど本当は認可保育所に預けてもっとがっつり働きたい」とかいう家庭は少なくないと思います。また夏に控えた市長選に向けたアピールだという見方をする人もいるかもしれません。問題もたくさんあると思います。

 それでも、数年前までの市のサービスや設備だけでは保育所に入れなかった子どもが、ここまで充実したために入所できたというケースは少なくないでしょうから、やらなかったままだったことを想像して比較すると、絶対にやってよかったと言えるのではないでしょうか。

 取材の際に議員に紹介してもらって購入したのが上に画像を貼った「調査季報 vol.172 特集 横浜の子育て支援」です。市役所で500円で売っていますが、webで記事が無料公開されています(!)。これをみると、多角的に待機児童ゼロに向けて取り組んできたことが分かります。関心のある方はご一読されるといいと思います。またぜひ関係者(市、保育所、コンシェルジュ、保護者など)に取材したいと考えています。 

2013年5月19日日曜日

悲恋の話の広告に笑顔で出ることはアリかナシか


 女優岸恵子さんの小説『わりなき恋』(幻冬舎)が売れているそうです。5月18日付け読売新聞朝刊に掲載された全5段広告では17万部突破とのこと。
 その広告にはコピーとして、「女盛り、70歳。最後の恋、最高の恋ーー。」とあります。また、あらすじの説明によると、国際的ドキュメンタリー作家の女性主人公(69)と、大企業のトップ(58)がパリ行きのファーストクラスで知り合ってから始まる物語だそうです。さらにこんな紹介もあります。「愛憎、献身、束縛、執念、エゴ……。男女間のあらゆる感情を呑み込みながら、燃え上がる鮮烈な愛と性。生と死を見つめる感涙の終着駅。」……。

 これらから何となく予想はつきますが、素敵な、そして切ないラブストーリーなのでしょう。別に茶化す気も笑う気もありません。気になったのは、その広告で岸さんがニッコリと笑っている写真が出ていること。悲恋を想像させるお話の著者が、PRでニッコリいていることに違和感を覚えました。

 そういえば先日、映画「リンカーン」を観たのですが、冒頭に監督のスティーヴン・スピルバーグが出てきて、時代背景を説明します。
 そんなの要らないんじゃないかと思いましたが、それも含めて演出であり、PRの戦略なのでしょう。日本以外でも同様の映像が流れているのか気になりますが(スピルバーグ監督は日本の視聴者に呼び掛けていた)、それはさておき。もちろんシリアスな感じで、淡々と説明をしていました。

 もしそこで監督がニコニコしていたらおかしいでしょう。しかしそれは冒頭の広告についても言えるのではないでしょうか。この小説を読んだ訳ではないので勘違いもあるかもしれませんが……。

 ただし、作品の中身と広告がすべて同じ雰囲気で統一されてないといけないのだとすると、映画公開前のキャンペーンでずっとしかめ面してたりしなきゃいけないことになるので、さすがにそれは無理でしょう。

 どこまで統一されていれば違和感がなくなるのか分かりませんが、やはりいくらフィクションの作品でも、著作物と著者のイメージに解離があると残念に思うものではないでしょうか。それは別に本当のところがどうかは関係なくて、視聴者、読者の前に出てくる時のプレゼンのあり方の話です。そこは統一されていてほしいものです。


2013年5月18日土曜日

異なる常識に触れたときに――「図書館戦争」と「真夜中のパン屋さん」を観て


 アニメ「図書館戦争」とドラマ「真夜中のパン屋さん」を観ていて、「自分の世界とは違う常識で生きている人たち、世界に触れたとき、果たして自分は受け入れられるのだろうかということを考えた。

 「図書館戦争」の第6話「図書隊ハ発砲セズ」。原作にはないアニメオリジナルのエピソードだそうで、ググるとあらすじの矛盾を指摘するブログもあるようだが、この中で登場人物がこんなことを言う。

 「俺たちの社会は、政治的な駆け引きが複雑に絡み合ってこんなことになっちゃったけど。もしメディア良化法も図書館の自由法もない世界の人が見たら、さぞや滑稽で不思議に見えるだろうね」

 この台詞は視聴者の心情を代弁、説明した言い訳のように聞こえる。ちょうど5話まで観てきて、その設定、世界にちょっと無理を感じていただけに余計にだ。僕は原作を読んでいないし、実写映画も観ていないので、そちらがどれだけリアリティがあるか分からないが、少なくともノイタミナ枠で放映されたこのアニメにはあまりリアリティが感じられなかった(それは必ずしも面白くない、つまらないということではない)。
 そこで、アニメシリーズの演出の問題という見方もできるが、表現の自由や図書を争って戦闘が繰り広げられるという、現実には考えられない設定、社会、常識であることに対して、自分が気づかないうちに否定してしまっていたのではないかと考えた。フィクションだからこそ、リアリティ、「さもありなん」な感じはほしい。けれど、理由を制作者側、作品に求め過ぎていなかっただろうか。「もし本当にあったとしたら」と考えられないなら、自分の思考の幅がいかに狭いかを嘆くべきではないか。
 現実の世界で「信じられない」常識に生きる人たちに会ったときに、果たして自分は受け入れられるだろうか。受け入れる、溶け込む必要はなくても、「尊重する」ことができるだろうか。

 ちょうどそんなことを考えていて、「真夜中のパン屋さん」第3回(「普通じゃない人々」)を視聴した。母と二人暮らしの小学生こだま。母が出ていってしまい一人ぼっちになった彼をパン屋の暮さん(タッキー)たちが世話するのだが、希実(土屋太凰)がこだまの母を「カッコウ」にたとえる。自身も母の知り合いなどあちこちに預けられた経験があり、母のことをカッコウのようだと思っていた希実らしい台詞だ(そもそもこの物語は、不思議な魅力のある暮さんとその亡き奥さん、ブランジェの弘基たちのパン屋さん=ブランジェリークレバヤシ=に、いろんな人たちが集まってきて、暮さんが託された卵を孵化させるような役割をしている)。

 なるほどと思いながらネットを見ていたら、たまたま「カッコウは自分の体温で卵を孵すことはできない」という掲示板の書き込みを見つけた。体温が低いからカッコウは卵を温められないというのだ。

 そこで「自分の卵が温められないからだのつくりってありえないんじゃないか。そんな動物がな存在するんだ」と思い、すぐに反省した。これもまた自分の常識を当てはめようとしているだけじゃないかと。自分でできなくても、他人に孵化してもらえれば目的は達成されるんだから、それはそれでいいんじゃないかと。

 母をカッコウにたとえる希実の台詞を聞いた直後に書き込みを見つけて、「こんな偶然もあるのか」とちょっと驚きながら、「自分の常識がみんなの常識とは限らない」ということを肝に銘じた。

2013年5月17日金曜日

「男が働き、女が育てる」が常識という時代じゃない――女性の役員・管理職登用積極化

3メガ銀初の女性役員…三菱UFJが川本氏起用

 先日この記事を夕刊で読んで驚きました。これまで3メガバンクには女性役員が一人もいなかったんですね。「なんて業界だ」なんて思っていたら、イオンが2020年までに女性管理職の比率を50%まで引き上げる方針を明らかにしたそうです。イオンのほうは役員ではなく管理職ということですが、現状は7%とのこと。イオンのような小売り、GMSは女性客が多いでしょうから、7%は低い気がします。業種にもよると思うのですが、日本の企業は全体的に女性の取締役、管理職への登用が遅れているんだろうなという印象があります。具体的にはどれくらいいるんだろうとググってみたところ、東洋経済にこんな記事がありました。こんなもんなんですね。表を見て改めて少なさに驚きました。

女性役員が多い会社はどこか?
パソナ、ニチイ学館、エステーが最多の4人 

 女性役員・管理職の積極的登用について考えると、「女性だから役員になれなかったんじゃなくて優秀な女性がいなかったからでは」という意見が出てきそうですが、そんなことはないと思います。やはり結婚、出産、育児の過程で、オフィスから遠ざかる(遠ざけられる)のが女性ばかりだったから、つまり押し付けて放逐されてきたからというのが一つの理由ではないでしょうか。その過程で女性は残りづらくなっていく、そういう雰囲気をつくってくたのではないでしょうか。三菱UFJのボードに入った川本氏も叩き上げ社員ではなく、外部からの就任です。女性にとって「入社→出世→役員へ」というコースは難しい気がします。

 無理に女性を役員にすることに意味があるのかという意見もあるでしょう。逆に差別なのではないかという人もいるかもしれません。しかし、女性が役員として経営に携わりやすい環境をつくること、そのために数値目標の設定はあっていいと思います。それがないと絶対にやらないはずで、だから今のようになっているわけです。やってみて問題があれば替えればいいでしょう。アファマティブアクションといっていいかはともかく、当面はそうした措置が必要だと思います。
 自民党の「女性力の発揮」っていうキャッチはどうにかならなかったもんかとは思いますが、これまで能力を発揮したいと考えていた女性たちが、性別が男性でないということを理由に重用されなかったり、軽んじられたりということがあったはずですから、それを無くしていくことは必要だと思います。

 この問題は、誤解を恐れずにいうと、障害者の法定雇用率制度の議論と似ている気がします。むろん、女性が障害者であるといっているのではありません。男ばかりの取締役会に入る女性はマイノリティだという意味です。以前、Twitterで、障害者の法定雇用率を無理して守るくらいなら罰金を払ったほうがマシというツイートをしている人がいましたが、それと同じ考えをする人が出ないとも限りませんから、目標の設定は必要でしょうが、ルールを決めればそれでいいというものでもないでしょう。「我が社は女性を登用したくない。罰金払えばいいんだろ」っていうのはおかしな話です。

 そうした変革を実現することで、男性の働くことに対する意識や習慣にも変化が生まれるでしょうし、役員や管理職ではない、一般の女性社員も働きやすくなるはずです。またこれまで「女性の仕事」だった「育児」に男性がより関わるようになることが期待できる点は大きいと思います。

 ただ「我が社は男性だけで経営する」ということが責められるものなのか? ということも考えるべきだと思います。たとえば役員もしくは社員が女性ばかりの会社もあるでしょうし、それを妨げるのはおかしい。だから「義務化すればいい」といった問題ではなく、数値目標の設定とレビューから始めて、業種や規模を問わず、いずれの企業も「他人事(他社事?)」と考えずに議論し、検討することが求められるのでしょう。

 ここでふと、「じゃあ自分はどうなんだ」と自問しました。いま自分が関わっている会社は一人代表ですが、重要な経営方針を決めるメンバーに女性はいません。日常的な方針などは皆に情報開示して皆で話し合っていますが、役員というか出資者、そのメンバーに女性はいません。とはいえ別に避けたつもりはありません。無理に女性を入れろと言われると、それはそれで困るものもありますね。一律に女性を幹部に登用すればいいってわけではないというのもまた正しいのでしょう。

2013年5月16日木曜日

他人は他人 保育園児が留年してもいいじゃないか

 自民党の教育再生実行本部が「6・3・3」制の弾力化を提言するそうです。中高一貫のメリットは一貫した教育ができることなど複数あるのでしょうが、子どものためになると考えられるなら、硬直化した枠組みを取り払うことはいいことだと思います。ただ読売新聞の記事によると、「地域の判断でできる」とあり、ここが若干気になります。詳しくは提言案を見ないと分かりませんが、それを決めるのは教育委員会ということになるのでしょうか。教委の制度は大阪の例を出すまでもなく、改革が必要な仕組みと思います。せっかくの新しい制度設計が無駄にならないよう取り組んでもらいたいと思います。

2013年5月15日水曜日

NISA普及が目的? 金融コンシェルジュは機能するのか

お金の悩みや相談 病院内に窓口開設 金融コンシェルジュ

 実現してワークすればとてもいいことだと思いますが、果たして病院にかかる高齢者がどれだけこうした窓口を活用するでしょうか。当面は都内の河北総合病院で週1回、1年間やってみるそうですが、とりあえずやるなら常駐させるぐらいがっつりやらないと意味なくないでしょうか。お金に関する相談を他人にするっていうことに、抵抗がない世代ではないでしょうから。
 一般的な資産運用の知識を伝えたり相談にのったりするそうですが、金融商品を売ることはしないそうです(とはいっても、そのあたりはどうにでもなるでしょうが)。

 ところで金融庁がまとめたのは「高齢化社会に対応した金融サービスの向上について」(PDF)というものですが、その中に
現役世代が将来に向けた資産形成の必要性や積み立ての重要性(金融リテラシー)を認識しなければ、積み立て型の長期投資商品をコツコツ購入する動きは広がらない。
という問題認識が掲げられています。金融リテラシーを上げることには賛成ですが、「積み立て型の長期投資商品をコツコツ購入する動き」をつくることが目的なんでしょうかね? 

 投資とか金融商品に対する考え方は、もっと早く、学生のうちからやっておかないとダメだと思います。もちろん教えるのは、学校の先生では無理なので、させてはいけないと思います。専門家を招聘してやってもらえばいいのでは。ただ当面は親がついて行けないということも考えられるでしょう。

 あとリバースモーゲージとか中古住宅の資金化についての軽く言及がありますが、このあたりもっと使いやすくしたほうが、先々のことを考えるといいのではないかと思います。特に都心ではもったいない物件がたくさんありそうです。

 総じて、NISAの普及のためにやる感がアリアリで、何だかなとも思いますが、お金に関する相談がちゃんと受けられる仕組みができること、金融リテラシーを高める施策をすることには賛成なので、河北総合病院での取り組みに注視したいと思います。

2013年5月14日火曜日

見られてますよ、あなたのメールアドレス

 仕事で交わす名刺に書かれたメールアドレスは、だいたい主の名前です。名字だけ、フルネーム、ファーストネームだけ……。順番も氏→名の場合もあれば、名→氏のこともあります。キャピタライズする、ドットを入れるなどいろいろですが、たいがいは名前です。
 最近仕事で、学生数十人の名刺データを触る機会があって、彼らのアドレスの多くが名前とはあまり関係のない文字列であることに気付きました。

 学生のうちはそれでも困らないでしょう。交換するのは友達同士だったり、各種サービスを受けたり使ったりするための登録用でしょうから。しかし、学生時代につくったアドレスでも、社会人になる過程で使う可能性があるなら、就活で使うなら、相手にどういう印象を与えるかということについて、考えてみてもいいかもしれません。

 例えば、ちょっと口に出すのは恥ずかしい文章をアドレスにしていたり(必ずしもエロいものではなくとも)、子どもじみた名前、厨二ぽい文字列だったりすると、もらった人はどう思うでしょうか。「友達同士で使ってただけなのに…」という学生のノリを、「微笑ましい」と流してくれる人ばかりではないでしょう。

 アドレスなんて最初に一回打ち込めばあとは気にしないし、こちらから先に送れば、相手は返信する形になる(登録も勝手にされる)ので、深く考えることに大して意味はないのかもしれません。それに「プライベートで使うんだから何にしたっていいじゃないか」と言われればそれまでです。ごもっとも。
 しかしそれなら完全にプライベートでしか使わないという線引きは必要だと思います。

 ここでいいたいのは、何もアドレスを名前にせよということではありません。僕は、シブいアドレスの人がいると、つい由来を想像したり、場合によっては聞いちゃったりします。それくらい、その人に興味がわきます(そういえば携帯のアドレス診断なんか、性格分析がありましたが)。

 アドレスの付け方も人となりを示すための、いいプレゼンの機会にすることができるのです。趣味や格言、好きな物事……せめて何か話のタネになるようなものにしておきたいところです。

 仕事や就活などでつかうのであれば、それなりにこだわりの文字列を考え抜いてつけるか、名前にしてしまってもいいでしょう。その利点としては、名前が何通りかの読み方ができる人であれば、アドレスのアルファベットで相手は読み方を伝えることができます。。私の場合だと、「まさる」なのか「ゆう」なのか、アドレスで相手は分かります。
 また僕はフルネームの場合は必ず氏を先に表記するようにしていますが、そこにもこだわりの理由があります。

 自分の名前は自分ではつけられません。ですが自分のアドレスは(会社から与えられるものでなければ)自分でつけられます。考えすぎてイタいアドレスになってもいけませんが、少なくとも、自分のアドレスをみて自分のセンスが値踏みされているかもしれないということは、覚えておいて損はないと思います。



2013年5月13日月曜日

萎えるアニメ 萎えないドラマ――OP&ED考

 

 NHKアニメ「はなかっぱ」のOPがスパガ、EDがDream5とそれぞれ別のアイドルグループの曲になっている。特にEDはアイドルたちと着ぐるみのはなかっぱ、ももかっぱちゃんが一緒に踊っていてちょっと驚いた。キャラの着ぐるみは他のアニメにもあるが、主題歌を歌うアイドル、歌手と一緒に登場しているのは初めて見た。多分ほかにも同様の事例はあるのだろうが。この「はなかっぱ」の選曲の是非というより、アニメのOPやEDの曲選定はいつも考えさせられる、ということについて書いてみたい。

 まずタイアップどうかはともかく一番大事なのは、世界観とあっているかどうかだ。一時期、人気アーティストの楽曲をただ主題歌にしただけと思えるケースが結構あった。また人気が若干落ち目になったアーティストがどんな理由か知らないが()採用されることもあった。そういうのが一番萎える。

 人気アーティストの楽曲を使うことは、アニメファン、原作ファン以外の、そのアーティストのファンも取り込むことが期待できるメリットはある。

 しかし、それは邪道だろう。

 主題歌を選ぶのは監督や演出ではないのだろうから、押し付けられた制作陣とて忸怩たる思いはあろう。だが大人の事情で選ぶ余地がなかったとしても、視聴者全員が忖度してくれる訳ではない。そんな義務はない。ファンにしてみれば、OPやED含めた世界観を楽しみ、浸りたい。その統一感やいい意味での裏切りを期待しているし、値踏みしている。

 だからアニメの楽曲は世界観に合わせたオリジナル制作が一番いいように思う。ただ既存の曲にピッタリのものがあれば使ってもいいだろうし、アーティストに発注して作ってもらってもいい。


 最近のアニメはあまり観ていないが、それでもジョジョはOP、EDともによかった(一期、二期とも。神風動画の映像がさらに引き立ててた)。「宇宙兄弟」も楽曲やアーティストの選択にセンスがある気がする(進撃の巨人は悪くないけど、騒ぎすぎな気も)。

 OPやEDも含めて作品と考えるか、その部分をPRと考えるか、ということだろうか。


 と、ここまで考えて思ったのは、ドラマはどうだろうかということ。ドラマはタイアップじゃない楽曲はなかなか考えづらいから、よくよく考えるとドラマの筋や世界観とあってない楽曲ってかなり多いんじゃないだろうか。

 でも「ドラマはそんなもんだ」と思っているからか、楽曲の良し悪しは気にするものの、ドラマとの親和性、統一感みたいなものはあまり気にならない。これはなぜだろうか……。もしかして自分だけだろうか。よく考えてみれば、海外ドラマなんてテーマ曲は無いか、ジングルの長いやつみたいな、ちょっとしたインストだけってことも結構ある。


 楽曲は覚えてるけど本編はあまり…という作品もある(アニメ、ドラマとも)。本編が後々まで記憶されるほどの良作であれば、楽曲だって合わせて記憶されるのだろうが、ファンとしてはやはり、「なるほど」と想えない選曲はしてほしくないものだ。

2013年5月12日日曜日

お金がないから妊娠できないということの切なさ


<にんしんSOS>妊婦相談で虐待防止2割 大阪府事業で効果

 なかなかニュースへのもって生き方が苦しい感じもしますが、大阪府がこういう事業をしていたんですね。調べれば他の自治体でもやっているのかもしれませんが、妊娠の疑いが生じた時に何の懸念もなく受診できる人ばかりではないでしょう。アンケートの回答者が13歳から、というあたりからもそれは分かります。
 後のほうの段落に出ている大阪府医師会のまとめはこちら。



未受診妊婦:大阪府、3年で倍増 生活難、知識欠如

 経済的な理由で受診せずに出産した方が結構多いことに驚きます。にわかに信じがたいですが、「誰にも言えない」のではなく「お金がない」が理由というのはどうにかならないものでしょうか。

 こう書くと、「金がないのに子どもなんてつくるな」と思う方もいるかもしれませんが、それはむしろ逆で、「お金の心配をせずに子どもをつくれるように」しないといえないんじゃないですかね?


2013年5月11日土曜日

連帯責任という被害拡大システム

 

 ドラマ「ラスト・シンデレラ」の録画を昨日観ていたのですが、藤木直人さん演じる美容院の店長が学生時代野球をやっていて、甲子園の切符をつかんだのに部員の不祥事で出場辞退して出られなかったという設定でした。
 こういう話を聞くたびに、なぜ連帯責任を追わのか、何の教育になるのか疑問でなりません。

 高校野球は他のスポーツと比べて優遇されているので、有名税のようなものが押し付けられる面があっても仕方ないような気がしていましたが、よくよく考えてみればそれも酷いし、それも一昔前の話。もはや高校球児が特別という訳でもないでしょう。

 などと昨夜思っていたら、こんなニュースが。

東海大サッカー部で部員同士の暴力発覚、当面の公式戦辞退へ…

 これだけスポーツでの暴力が問題になり、ニュースにもなっているのに暴力をふるうなんて、バカとしか思えないのですが(真剣だから、というのはすり替え)、ともかく暴力行為があったとして、責任を問われるのは、暴力をふるった本人と、監督責任者、あと部長くらいでいいのではないでしょうか。

 もしそういう基準を明確に作ったとして、懸念されるのは、暴力行為があったときに、責任を問われないよう、関わらないようにする部員が多数出てくる(見てみぬふりをする、止めない)ということでしょうか。

 ですが、それだって止める奴は止めるし、止めない奴は止めないような気がします。

 所属コミュニティが責任を問われるということでいえば、大学生が事件を起こしたときに大学が会見を開きますけど、そんな必要なくないですかね? たとえばUSJでバカやったからって何で教職員が頭さげにゃならんのでしょうか? 大学の授業で行って教員が引率してて、というならまだしも。親が揃って会見を開くというなら、まだ分からなくもない気が…いや、それも違うな。大人なんだから、本人がやるべきなんきゃないですかね、もしやるなら(そもそも会見が要るかという議論もあるでしょうが)。

 やったことの責任は本人がとるべきであって、所属するコミュニティがとらなきゃいけないというのは(特別に合理的な理由がないかぎり)おかしいと思います。

 じゃなきゃ、複数のコミュニティいに属する、複数の肩書きを持った人が、いずれのコミュニティとも直接関係のないところで不祥事起こしたら、どこの誰が会見しなきゃいけないのってことになりませんかね。大学の講師とかさ…会社役員とかさ…。

 とにかく、同じ部で頑張ってた"無関係な"部員が巻き込まれるのは可哀想すぎると思います。
 



2013年5月10日金曜日

時代に合わないルールなんて替えちゃえばいい(のか?)



 大学時代に入っていたサークルで、下級生から規約(正式な名前は忘れた)を変えようという動きが出たことがあって結構もめたときに、「実態に合ってない決まり事なんて変えちゃえばいいじゃないですか」というような発言をされて、驚いて反論したことを覚えている。

 曲がりなりにも法学部に在籍していた僕は、長年守られてきたサークルの規約なんてものを、気に食わないからといってコロコロ変えていいもんじゃないだろうと思った。同級生のS君がまさに「憲法みたいなもんなんだから」と嗜めてなるほどと思ったように記憶している(そのS君は今は裁判官をやっている)。古いから、伝統があるからというよりも、ブレるからイカンと思った。その決まり、何のために存在するんだってことにもなる。
 その発言をしたのは理系の子で法律的な知識がなかった(もしくは考え方ができなかった)ようだったし、世の常として上級生は下級生を頼りなく思ってしまうものなので、「話にならんなぁ」と感じたような気がする。今思えば微笑ましい限りだ。かくいう自分も法学部といったって熱心でもない学生だったし。
 ただ”原則”をそうコロコロかえるのはよくないと思ったし、今もそう思っている。

 昨年、大勝して政権を取り戻した自民党が、維新など野党の協力が得られそうなこともあり、今度こそ本気で憲法を改正しようとしているようだ。96条を替えて改正のハードルを下げようといわれているが、果たしてそれはいいことなのだろうか。

 憲法は改正したほうがいいと思っている。「自主憲法でなきゃイカン」という立場ではないし、自民党の憲法草案も「それはアカンのちゃうか」と思う部分が結構あるから、あのまま実現されると困る(ゲンロンの「憲法2.0」(新日本国憲法ゲンロン草案)はちゃんと読み込んでないので、むしろこの際読んでみたいと思う)。どこをどう替えたほうがいいという考えがまとまっている訳ではないのだが、いくつか替えるべき条文はあると思う。

 「改正したいと思っているなら、改正のハードルが下がるのは歓迎じゃないのか」と問われるかもしれないが、そうは思わない。BLOGOSの座談でコバセツ先生がおっしゃっていることがもっともだと思う。
国民と憲法の間をウンと遠くさせておいて、日本維新の会の橋下さんが何か言ったら、「うまくいけば、3分の2行きそうだ」と途端に動き始めた。今、96条なら3分の2がまとまる。そして、96条を取っ払って過半数になったら、その後はどんなに分裂しても、自公で過半数を持っていると。これはどう考えても、姿勢として正しくないですよ。
小林先生も改憲論者の立場でありながら、今のムードを見て警鐘をならしておられ、頼もしい限りだ(とか書くと偉そうだけど)。右傾化警戒とかいうわけではないけれど、「憲法の改正」ということの重大さをもちっと考えて、広く議論されなきゃならんと思う。今はそういうニュースが盛んに流れているけれど、皆が議論している感じじゃあ、決してない。

 アベノミクスの恩恵を受けて投資資産の含み損が含み益をもたらしている昨今、山口県出身者でもあるので安倍総裁にはさらに期待をするものでありますが、国会勢力と、何となく高くなってる支持率を背景に、このまま一気に憲法改正に突き進むのはちょっと危険な気がします。

 このBLOGOSの座談、「(憲法論議は)あまり詳しくない」という方、「憲法改正されるんでしょ?」と何となく思っている方にオススメです。


2013年5月9日木曜日

AKB48研究生失格でも乃木坂46メンバーになれる理由


 元AKB48研究生の西川七海さんが乃木坂46で再デビューするそうです。AKBの研究生をやめたのは、「AKB48研究生としての自覚に欠けた軽率な行動を取った」というのが理由だそうですが、AKBの公式ライバルである乃木坂46ではその行動は問題ないという認識なのでしょうか。

 その「軽率な行動」というのが、男性とプリクラを撮ったことのようです。AKBは「恋愛禁止」ということになっていて、そのプリクラ撮影がひっかかるということなのでしょう。一時期、秋元プロデューサーが「恋愛禁止なんて言ってない」と述べたというニュースがありましたが、Google+では禁止と書いています。どうやら乃木坂も同様に恋愛禁止ということになっているようなので、これはつまり乃木坂はAKBよりも倫理のハードルが低いということなのでしょうか。乃木坂としては、あれはAKB研究生時代のことだから問題ない(乃木坂メンバーとして活動中に同じことをしたらダメだけど)ということでしょうか。

 別に西川さんの再デビューが気に食わないわけでも、乃木坂憎しということでもなく、どうせ戻ってくるのに活動自粛とか引退とかいってファンの前から姿を消すのってどうなんだろう、と思ったのです。西川さんの場合は自分から引退したわけではないですが、結局戻ってきたのは、プロデューサーが同じ秋元さんが務める乃木坂なので、拡大解釈気味ですが自作自演といえなくもない気がします。
 ほかにも、勉強に力を入れたいとか、留学したいとか言って、すぐ別の事務所からデビューしたりする人が結構いますが、見え見えだったりして辟易とします。大人の世界といえばそれでおしまいですが……。

 ただし、一度ミスを犯したり減点されたりした人が再起できないのはおかしいと思います。「そもそも活動を自粛しなければいけなかったのか?」とも思いますし、せっかく再デビューするのだから、当時から待っていたファンもいるはずですし、ぜひがんばってほしいと思います。乃木坂もアイドルグループのワンオブゼムから抜けきれないし、AKBも一時の勢いは失いつつあるようなので、話題になることは歓迎なのかもしれません(自分としては、48グループについての関心事はもはや、こじはるがいつ卒業するのかという点につきます……)。

2013年5月8日水曜日

そのFAX、メールじゃダメですか?

 


 FAX使ってますか? 最近いつ使いましたか?



 自分はなるべくFAXを使わないようにしている。プレスリリースがFAXできたら、送り先に連絡してメールに切り替えるようお願いしている。多いところだとA4で5枚にも10枚にもなるので、紙がもったいない。メールにPDF添付して送ってくれればそれでいい。

 紙の節約という意味では、会議で使う資料だって、印刷して配布する必要性の高いものはともかく、そうでないものはなるべく印刷しないで済ませたいと思っている。原稿、ゲラのチェックとか細かな確認はディスプレイよりも紙のほうがやりやすいと思うが、紙で配られる資料のすべてが、紙でなければいけないということはないだろう。会議だって、参加者それぞれが端末を持つとか、スクリーンに投影して全員でそれを見るなど、いろいろ方法はある。

 だがPDFで資料や書類をもらっても、デジタルだけで完結できないことが多い。日本は書類に印鑑を押す文化の国だから、PDFでもらった書類を印刷して押印し、郵送やFAXで戻すことがよくある。それならまだしも、押印した書類をスキャンしてPDFにしてメールで送ることもあって、こうなってくると、「何やってんだ」という思いが頭をもたげる。とはいっても、デジタル署名、デジタル印鑑なんてまだ一般的ではなくて、自分も使っていない。アナログとデジタルの融合……などとひとりごち、ちょっと慰めてみる。

 たしかにFAXは、パソコンがなくても専用機と電話線があれば送れるし、手書きの文字や絵をそのまま送ることができる。メールよりも優れていると言えなくもない点があるような気もする(←回りくどい)。それに企業ならFAXと電話線はだいたいあると思う。

 だがFAXでないといけないということはどれだけあるだろうか。ラジオ番組のリスナーからの投稿とか、24時間テレビの応援FAXとかも、なくなったら主催者側が困るような気もするが、ビジネスではメールへのPDF添付でいいのではないか。メールを使わない会社だって今はあるし、PDFを全員に送らずともクラウド、ドライブにファイルを置いて各自がアクセスする方法だっていいと思う。

 会社を移転にあたって、FAXをメール受信できるサービスも検討した。社内の全員に周知させるのにハードルがあると思ってやめたのだが、ひかり電話のい1回線をFAXに占有されてしまうのは、ちょっと切ない気もした。



 何もFAXそのものがもう無くていいなどと言うつもりはない。会社の書類をすべてデジタルにせよとも言わない。
 でもビジネスでは、オフィスワークの現場では、FAXはもう使わないようにしていきませんか…?。





(ところでFAX送信するよう促してる書類で、送り先番号を紙の上のほうに表示するのって、嫌じゃないですか? 紙を置いて、いざダイヤル()しようと思っても番号見えないし)


(これ、会社で使ってます……)

2013年5月7日火曜日

都立高校のBS公表――分からないことを分からないまま書くかねぇ


 東京都教育委員会が都立高校のBSやCF計算書を公表したそうだ。今年が初めてではないのだが、初めて知った(何となく聞いたような気もするが)。たまたまマイナビニュースの記事で知ったのだが、この記事を読んでちょっとうなってしまった。筆者はBSが読めないんだろうなぁと思ってしまったからだ。この記事や単なる数字の羅列で、解説も何もないから、とてもではないが読みたくはならない。数字を伝えるだけで「なるほど今年はそうだったのか」と読者が納得してくれるような内容なら「単に情報を伝達することが目的」という方便も成り立つだろうが、果たしてそれでいいのだろうか?

 なぜわざわざそんなことを言うかといえば、自分が記者時代、BSやPL、CFなんて分からないのに、前年のスクラップを見て自治体の予算、決算記事を書いていたことを思い出したからだ。恥ずかしながらほとんど何も分かっていなかったので、予算課のレクに厳しくツッコむことなんてできなかった。その自治体にとって大きなイシューであれば、議員もツッコむし事前に勉強することができたので、それなりに解説や批判はできていたと思う。だが、そもそもBSやPLを読みこなせていなかったので、大方の部分についてはポイントがつかめず、何をどう書いていいか分かっていなかった。

 ところでこの記事の目的はマイナビ批判ではない。言いたいことはまず、BSやPLは読めるようになっておいたほうがいいということだ。会計士が書いた書籍にその手のものが結構あるが、読めるようになるのはなかなか大変だ。また、読み方を知識として身につけても、その数字が意味するところを読み取るのは容易ではない(「日経新聞の読み方」を指南した本があるが、あれを読んでも記事の評価ができないと同じか)。かく言う私も、今でこそBSやPLを見て、何となく意味が分かるようになっているが、それでも細かいところまでは分からないし、業種が変わると手が出なかったりする。ちゃんと勉強したわけではなく、「決算書はここだけ読め」とか「バランスシートがすぐに読めるようになる」とかいった本を読んで勉強したのだが、結局役に立ったのは実際のBSやPLを見なければいけなくなってからだ。そうして実物をシビアに見たからこそ、それぞれの項目や数字が持つ意味が少しずつ分かるようになった。

 でもこの手の資料を見ただけで敬遠しているようでは、ダマされても文句は言えないと思う。それはBSやPLに限らず契約書や法的な書類についても同じことだ(この手の書類が誰にでも分かるようになると士業の皆さんが食いっ逸れるからそんなことにはならないだろう)。記者時代の自分もダマされていたかもしれない。いや、ダマされていたのだろう。そんなもの、追求しても「聞かれなかったから」と返されたらぐうの音も出ない。中には自分には必要ないという人もいるだろう。たとえば「ビジネスパーソンとして出世したい、起業して成功したいとかいう人ならともかく、自分には関係ない」というように。そういう人は「ダマされてもいい」と言っているわけだから、聞いてくれなくていい。

 次に言いたいことは、余計なお世話を承知でいうが、この手の専門性のある記事を知識のない記者に書かせていていいのだろうか、ということだ。1本記事を書けばあちこちに転載されてPVは稼げるのかもしれないが、「金かけてないんだなぁ」ということが丸わかりだし、恥ずかしいし、記者のためにもならない。この場合、記者がちゃんと読みこなせrるように勉強するか、読める専門家に読んで解説してもらうこと(場合によっては記事を書いてもらうことまで含めて)をしないと、読者のためにはならない(大手紙なら、たとえ社会部ネタでも経済部に力を借りることができるが、ウェブメディアなどでそれができるとは限らない)。記事1本あたりのコストが下がっている今、なかなか1本の記事にそう労力は割けないかもしれないが、最初にがんばって最低限の「読み方」を身につけておけば、あとは毎年、または年に数回その読み方をツカう機会がくる。最初は大変かもしれないが、やっておいて損はないと思う。同情はするが、解決の選択肢はある。

 冒頭の都立高校のBS、CF計算書は面倒で読んでいないので、ポイントは分からない。たとえ読んだとしても、自分の能力では読み解くことはできないだろうし、「あぁ出版や広告代理店とはここが違うなぁ」という比較くらいしかできないだろう。そもそも今年の分だけを読み込んでも、過去や他の自治体などと比べなければ評価ができないだろうし、そこまでの時間を割くつもりはない。と言っている時点で、紹介した記事の筆者と同じスタンスだといえばそうかもしれないが、誰かやってくれないものだろうか……。

 ところで都や区の予算の執行状況、決算などが配布されると思うが、あれも同じだと思う。本当に都民や区民に状況を知ってもらうための努力がしっかりなされているかといえば、そんなことはないだろう。ひと昔前とくらべれば、グラフや表、たとえなどを使うことで分かりやすく読みやすくするための工夫がされるようになった気もするが、それでも都民、区民の多くがしっかりと読めるような状態にはなっていない。それを都や区に求めていいものかは自信がないが、何とかできないものだろうか、とは思う。


  

2013年5月6日月曜日

ファンなら何が知りたいか――大おもちゃ博で感じたこと


 人気アニメのおもちゃの展示・体験やライブなどがあるイベント「大おもちゃ博」(品川プリンスホテル主催、タカラトミーなど特別協力)に行った。トランスフォーマー、リカちゃん、ポケモン、プリティーリズムなど同社のコンテンツが勢ぞろいで、子どもだけでなく大人も楽しんでいた。会場に入る前に、中で行われるイベントの整理券配布などについての説明があったのだが、これが分かりにくかった。

 説明や会場整理には、タカラトミーの社員、プリンスホテル社員、レコード会社関係者、そして多くのバイトが携わっていたのだと思う(会場に着いてすぐ内容について質問した相手がホテル関係者で、中でのことは分からないと言われてしまった)。そもそもこのイベントはウェブサイトの情報整理がいまひとつで、事前に知りたいことがよく分からなかったのだが、会場での説明も要領を得ず、分かりにくかった。

 なぜ参加者が満足のいくような説明がなされないのか。それは、説明した担当者が、自分が今説明している内容について、“深く”は理解していないからではないか。準備不足とも言えなくはないが、というよりむしろ参加者やファンほどにはその対象を愛していないからだろうと思う。

 参加者は本当にそのアニメやキャラ、テーマ曲を歌っているアーティストが好きで会場に来ている。一方、主催者側の担当者については、皆が皆、そんなテンションという訳ではない。それをプロ意識の欠如と断じるのはちょっと厳しいと思う。このイベントでも、会場整理のため、イベント運営のためのマニュアルが作られ、現場の担当者は粛々と実行しているはず。だが、こちらとしては目的を達成することができるのか(見たいものが見られるのか、欲しいものがゲットできるのか)、一向に分からない。その理由に、対象への思いの深さの違いがあるように思えてならなかった。
 結局、いちいち聞かれると担当者も大変だろうから、係員を呼び止めてあれこれ聞くのは憚られるから、迷惑にならないであろうタイミングを見計らって、どうしても聞いておきたいことは聞いた(結局聞くこともできたし、このイベント関係者を批判したいわけではない。大きな手落ちがあったわけでもないのだし)。

 開場までの待機列で暇潰しにネットを見ていて、「ジャニーズのファンが非公式グッズを買ってしまうのは、公式にはない、痒いところに手が届く、ファン心理をついたグッズ展開をしているからだ」という主旨の記事をサイゾーで見つけて、なるほどと思った。
 ジャニーズの公式グッズを作っている会社や関係者、担当者だって入念にリサーチして、ファンが欲しいと思うであろうグッズを作っているはず。彼らはプロだし、まさに当事者なのだから。
 しかし実際にはファンは非公式グッズを買ってしまう(公式を買わず、ということではない)。非公式グッズを作っている会社や関係者ももはやプロといっていいだろうが、サードパーティーが本家を越えているというのは興味深いことだ(ここでいう「越えている」は売上のことではないし、どう越えているかのデータはない。公式にはないがファンに支持されるグッズが非公式から出ているということだ)。

 こういうことはよくあると思う。ジャニーズの場合はどうか分からないが、ファンが考えたほうが、ファンが欲しがるグッズが作れるのかもしれない。ファン心理が分かるのだから、その可能性は小さくないのかもしれない。
 グッズ制作だけでなくイベント運営でも同じことがいえる。ファンならここに何を求めて来ているのか、今このタイミングでファンならどうしたいとw思うか、そのために何が知りたいのか……。担当者だってちゃんと準備はしているだろうが、「ファンならどう考えるか」というところに思いを馳せているかどうかは自問してもらいたい。さらにいえば「ファンに負けないくらい、その対象について語れるか」ということにも。

 そしてこれはイベント運営だけでなく、サイト運営など各種サービスについて応用できると思う。自分の過去の仕事、経験を振り替えって、そういう想像をすることがいかに難しいかに気づいた。それが自然にできる人が気が利く、仕事ができるということなのだろう。

 お客様の立場に立ってとか言われるが、そんな手垢のついた言い回しや考えではなく、自分がファンになるくらいに対象を愛して考えてみなければ、気づかないことがたくさんあるのだと思う。まさに言うは易し、行うは難しだと思うが、忘れず応用したい。

2013年5月5日日曜日

マスコミイクメン今昔――増えてはいると思うけど

イクメンプロジェクトウェブサイトより)

 こどもの日ということで、読売が朝刊で「『イクメン』が世間を変える」という社説を掲載している。主催イベントのPRをちゃっかりしながら、「男性の育児参加をさらに促す企業努力を各社に求めたい」「親子が気軽に集える場を増やすべきだ」などと書いている。
 育児ネタに限らないが、こうした提言を大手紙などメディアがする時に感じるのが「お前とこはどないやねん」ということだ。

 自分が読売にいた頃は、読売に限らずマスコミは育児を蔑ろにしていたと思う。辞めたのはもう十年くらい前だし、当時と今とでは社内の制度や雰囲気も大きく変わっているだろう。子育て真っ最中の同期たちのFacebookの書き込みを見る限り、彼らはフツーに子育てしている。皆が皆、育児に消極的という訳でもないとは思う。
 ただ当時、仕事のできる他社の先輩から、取材応援で長期出張していて、子どもの顔をみたのは産まれてから何ヵ月も後だったという話を武勇伝のようなエピソードを聞いた。この先輩はたしか他社だったが、自社の先輩からも似たような話を聞いたような気がする。当時(自分がいた地方の記者クラブ)はそんな雰囲気だった。
 あの先輩が本当に、何ヵ月も我が子の顔を見られなかったことを悔やんでないのかは分からない。照れ隠しだったのかもしれない。でも自分としては、そういう未来が自分に待っているかもしれないのは嫌だった。辞めた理由の一つになった。

 この記事の意図は読売をディスることではない。ただ先日、ある地方議会議員の取材で思ったのだが、国や自治体にいろんな制度をつくるよう求める前に、企業が変わらなければまともな育児環境などできないだろう。企業が変わるということはつまり、もしかしたら育児などしたことがない、お偉いさんたちが変わるということだ。

 世の中にはまだまだ、オムツを替えたことのない男性はたくさんいる。ただ自分は何も、子を持つ全員が全員、オムツを替えるべきだとは思わない。そりゃかかりきりんあるのが理想かもしれないが、そうもいかない。役割分担はあっていいと思う。なるべくやったほうがいいと思うし、一度は体験してみるべきとも思う。そうしなければ、本当の大変さはなかなか分からない。そんな人たちがつくった(社内、自治体の)
制度なんて、ツカえたもんじゃないはずだ。
 また「イクメン」という言葉は早くなくなればいいと思う。親が育児をするのは当たり前だからだ。男がしてこなかったからこんな言葉があるわけで、正常な状態とは言えない。自分など、子育てに関して「偉いですね」なんて労われると、面映ゆくて仕方ない。実は育児の多くの部分を妻に任せているということもあるが、できる範囲であれこれやっているのは当然だと思っているし、面白いから、好きだからやっているだけだからだ。こんなに面白い、楽しいことを女性だけにエンジョイさせるなんて、男性として「もったいない」と思う。
 マスコミに限らず、仕事で忙しい日々をおくっているという人が(多くは男性だろう)、勝手に頭の中から自分を育児のプレーヤーから外してしまっている。他の誰か、他の会社の取り組みを言う前に自分のことを考えなければいけない。
 読売の編集委員や社説の担当者など、お偉いさんはどうなんだろうか?

2013年5月4日土曜日

ブレーキ踏み過ぎ注意――知らず知らずに迷惑をかける恐ろしさ


 車を運転していると、“本人は気づいていないんだろうけど後続の車には迷惑な運転”をする人がいる。迷惑といえば、狭い道や交差点そばでの停車や合流しきれずのノロノロもあるが、それらは本人も気づいてるだろうからともかく、気づかれていない迷惑運転の代表格が「頻繁なブレーキング」だと思う。

 何もないところですぐにブレーキを踏む人が多い。ブレーキを踏むとランプがつくからは、後ろの運転手も踏む。するとその後ろも踏んで…と連鎖して、やがて渋滞になる場合もある。
 ATしか運転しない人、できない人、MT車を運転したことがない人にその傾向が強いのではないかと(データはないけど)思う。エンジンブレーキという発想がないからで、減速するためにはフットブレーキしか思い付かないのではないか。 ちょっとした減速はアクセルを戻すなどして対応すべきで、場合によってはギアを2速に下げてもいいのではないか(最近のAT車について、走行中のギアダウンの是非は詳しく知りませんが…)。
 少なくとも自分は、何もないところで減速するのにそうそうブレーキは踏まないし、前の車が踏んだとしても、さらにその前の状況から、単に目の前の運転手がスキル不足で踏んだだけと判断したら(できたら)踏まないで対処しようとしている。

     ほかにも幅員の決して大きくない道での左折で膨らんだりするのも、おそらく本人は気づいてないだろうけど、後ろの運転手は困る。「コンパクトに曲がれないなら小さな車に乗ればいいのに」と思うが、その思いは当然届かない。ミニバンや大きなセダンなんかやめて軽にしたほうがいいと思うおばちゃんドライバーの実に多いこと!!(ダンナと共有だろうから仕方ないけど)。

 大人になると周りが注意をしてくれなくなるし、運転の仕方を誰かがアドバイスしてくれる訳でもないから、本人は後続に迷惑をかける運転をしていることにずっと気づかない。解決は難しいだろう。

 かくいう自分も知らず知らずのうちに迷惑をかけているかもしれない。生まなくていい渋滞を生むかもしれないわけだから、善意だから許されると思わず、気をつけて運転したい。また「気づかずに迷惑をかけることに注意する」という意味では、運転だけではなく仕事でも同じことが言えると思う。後ろをふりかえりながら進んでいきたい。

2013年5月3日金曜日

「アメトーーク! 将棋たのしい芸人」で考えた“言葉の選び方”

 

実現したいことは言葉にしたほうがいい、話したほうがいいといわれる。助力してくれる誰かの耳に入るかもしれないと期待できるということもあるだろうが、言葉にするこで成功のイメージを持ち、成功に近づきやすくなると信じられているということも理由だろう。不吉なことを口にすると縁起でもないと言われるなど、言霊は広く信じられている。前向きはな言葉を使うことで前向きな気持ちになり、可能性や能力を広げられるだけではなく、逆に自分の言葉が自分をしばるということもある。これは何も日本に限ったことではない。海外のドラマでも“Say it”と相手に約束事を言わせるシーンをよく見る。

 だから同じことをいう場合でも、なるべくポジティブな言い回しをしたいと思っている(ちょっと逸れるかもしれないが、お土産を渡す時は「つまらないものですが…」などとは言わないようにしている。「気に入っていただければいいのですが」「お口にあえばいいのですが」といった言い方をする)。 

 しかし自信がないと、ネガティブな言い回しに、知らず知らずのうちになってしまう。 

 昨日、5月2日放送の「アメトーーク!」のテーマ(くくり)は「将棋たのしい芸人」だった。
 序盤、駒の説明をしているときに、香車が好きというペナルティのワッキーがその理由について、ズバッとまっすぐ前に行って戻らないところが、ウケるかどうか分からないネタを思い切ってやって終わったらサッとひく自分に似ているというような説明をしていた。彼らは、笑いが取れるとは限らない、博打を打ち続けているわけだ。なるほど、と思ったのだが気になったのは彼の言い回しだ。
 ワッキーはそのとき、「スベるかスベらないか」という言葉を使った。「ウケるかウケないか」ではなく。

 別にワッキーを批判したいわけではないけれど、そこに、彼が芸能界で置かれている状況や世間からの評価、それらに対する自身の認識というものを感じて、少し切なくなった(ちょっと失礼かもしれないが)。それに、これは自分の勝手な決めつけで、ご本人は自信満々だったのかもしれないのだが……。

  自分も、自信のないときは控えめな、ネガティブな言い方をついしてしまうので、気をつけなければいけないと思った。自分がこう思っているということは、自分のネガティブな言い回し聞いて、「あ、濱田は自信がないんだな」と思われたり(気づかれたり)してもおかしくないのだ。 

 自信をもって話せるようにするには念入りな準備も必要だろうが、思いがけない、ふとした瞬間にこそ自分の精神状態を表す言葉が口をついて出るものだろう。改めて気をつけたいと思った。

2013年5月2日木曜日

素人デザイナーとプロを分かつもの


「仕事ができる」というのは、クライアントが抱える本質的な課題を見抜くための、またはクライアントが望む状態を生み出すためのソリューションを提供できるということだと思う。

 その意味では、肩書きなど関係なく、ディレクターだろうかデザイナーだろうがプログラマだろうが、プロジェクトを成功に導く鍵、ポイントを見つけて実現できることこそが重要だ。だからこれは単なる偏見なのだが、数ある職種の中でも「デザイナー」という職種はとても奥深いと思う。
 一般にデザイナーと聞けば、「カッコいい見た目の何かをつくる仕事」というイメージを持たれるかもしれないが、その仕事の本質は、クライアントが持つ課題を「デザインする」ことで解決に導くことだ。ここでいう「デザインする」とは、単にデザイン系のソフトを使って紙やPC画面で何かを作ることではない。デザインには意味があるから(というより、なければいけない)、「何となくカッコいいから」という理由で、色や形を選んではいけない。そのチョイスの意図が伝わらないこともあるが、それはそのデザインに込めた意味が間違っているか、意味が伝わりにくい見せ方をしているからであって、「赤がはやっているから赤にする」とか「流行の形だから」とかいうのは間違っていると思う(選んだきっかけがそういう理由だったとしても、後付けであってもロジックは必要だ)。しっかりと意味を持ったデザインワークをつくることで、目的を達成させられるのがプロのデザイナーだ。

 と、この手の記事は過去にも書いたことがあるのだが、それくらい「デザインする」ということの奥深さを、デザイナーという職種をリスペクトしている。自分が携わっている「編集する」という仕事も奥深く、難しく、リスペクトに値するものだと思うが、自分がデザイナーではないだけに畏敬の念は強い(また、自分のイメージではデザイナーのほうがより「手を動かす感覚」が強く、現場に近い感じ、何と言うか「クリエイター」に近いイメージがある)。

 ところで自分は社会人学生として通った学校やデジハリでデザイン系ソフトの使い方を習い、個人的にサイトを作ったりしたので、一応Adobeの印刷系、ウェブ系のソフトは使える。なのでデザイナーのまねごとはでき、ビジネスクオリティでなければちょっとしたものはつくれるが、が、あくまで素人レベルだ。デザイナーの足下にも及ばないと思っている。

 小さな会社や組織だと、パンフレットや小冊子を予算の都合で自社で作ることがある。作った本人はそれなりに満足しているのかもしれないが、見てられないものが結構ある。学生がつくったものにも同じことがいえる。後者はまぁ、微笑ましいともいえるが、本人がどれだけ「見てられないものであること」に気づいているのか聞きたいと思うことがある(この感覚はデザインワークだけでなく、文章についても同じようなことがいえると思う)。

 プロと素人のデザインワークのもっとも大きな違い、というかセンスの分かりやすい見極めの基準がある。

 それは「フォントの使い方」だ。

 これはだいてい一見して分かる。ちょっとしたグラフィックデザインから、エディトリアル、ウェブ……なんだってそうだ。

「これは素人がつくっている」「このデザイナーはうまい」

 もちろん自分なりの「うまいー下手」の判断基準なのだが、これは「好きー嫌い」の分かれ目ではない。「ちゃんとデザインの修行を積んでいるかどうか」「センスがあるかどうか」を見極めるポイントだ。
 自分にはその「フォントのチョイス」のセンスがないので、いつも苦労するし、だいたい後悔する。直してもらえるなら直してほしいといつも思う(が、自分がデザインする時点でデザイナーに頼めないものである訳だから、叶わない)。

 どういうフォントがいいかは、アウトプットの目的や場面に寄るし、誰かを批判したい訳ではないので具体的な事例を出すことは避けるが、このことはデザイナーでなくても、デザインワークを作らないという人でも頭の片隅にとどめておいて損はないと思う。
 たとえば企画書やプレゼン資料をつくるとき、子どもの通う保育園や学校に寄せ書きをつくるとき、勉強会やサークルなどにプロフィールをつくって出すとき……デザイン系のソフトではなくても、ワードやパワポなどで何かしら他人の目に触れるもの(れっきとした「デザインワーク」だと思う)をつくることはあると思う。

(ただ、パッと見て「カッコいい」と思ったフォントでも、「よく意味を考えたらおかしい」ということもある。分かりやすい例を挙げると、クールなフォントを使った映像作品のポスターがあったとして、カッコいい仕上がりになっていたとしても、その映像作品がクールというよりハートウォーミングな内容なのだとしたら、ミスリードを生んでいるそのデザインワークはいいものとは必ずしも言えない)。

 もしこれを読んで少しでも「なるほど」と思ったら、身の回りや街角、オフィスで目に入った何か(何でもいい)を「フォントの使い方はどうか」という視点で見てもらいたい。「なぜこれを使ったんだろう」と考えると結構面白いと思う。
 

「同業者がヒクくらいにやれ」――電子書籍セミナーで学んだこと


 電子書籍のセミナーに2日続けて出席した。
  
 1日はAdobeのDigital Publishing Suite関連で、ADPユーザの企業担当者が登壇して事例を述べる内容(パネルディスカッションもあり)。無料セミナーだけに宣伝臭が強いのはさておき、“ADPユーザ”というくくりでは大きすぎと感じた。ADPでいろいろできるのは分かったが、制作の人間としては、自分が取り組んでいる業務内容に即した内容について掘り下げた内容だったらよかったなぁと感じた(このセミナーがちょっと面白かったのは、背広姿の参加者が多かったこと。いつも出るようなセミナーはラフな格好の出席者が多い)。 

 2日目は半蔵門で行われた、士業の方々に向けたセミナー。自分は税理士でもって会計士でもないが、縁あって末席に座らせてもらって聴講した。参加者に「電子書籍の筆者になりませんか」という提案含みの内容で、講師はサニー久永さん。恥ずかしながらサニーさんのことは今回知ったのだが、セミナーの内容はかなり具体的で面白かった。いつもより短い時間に凝縮したセミナーだったらしく、若干の消化不良感はあったものの(致し方ない)、無料でいいんだろうかと思うほど役に立ちそうな内容だった。 

 終了後、懇親会があるというので出席。会場近くの店で十数人で飲みながらセミナーの感想や、出席者それぞれが電子書籍を出すとしたらどういう内容がいいか、どういった目的でやるか、などを話し合った。サニーさんにも少しばかり話をうかがった(主役は士業の皆さんなので邪魔しないよう)。 

 たまたま隣り合わせになった方が最近独立したとのこと。同業者との差別化をどうすればいいか、ブランディングをどうしたらいいか考えているとという。電子書籍の活用を中心に話し合ったのだが、単に「税理士が書いた」「会計士が教える」では電子書籍のウリにはならない。出すからには売れるものにしたいし、売れなきゃブランドは確立できない。そうなると鶏が先か卵が先かという話のようだが、自分の打ち出し方、売り方の“方向性”は考えなきゃならない。

  しかし誰しも自分のことを客観視して、どの部分、どの要素ならセールスポイントになりそうか、なんて分からない。たとえ分かったとしても、どうやってアピールすればいいか、アイデアはそうそう浮かばない。そういう、いわゆるセルフブランディングの話になった時のサニーさんのアドバイスに目から鱗が落ちる思いだった。

  それは

 「同業者がヒクくらいやったほうがいい」 

というものだった。

  もちろん、「同業者がヒクようなやり方をしろ」といっているのではない。同業者はライバルの戦略、やり方を注視しているだろう。しかし、それ以外の人の視線を集めるのは難しい。「自分を売る」ということに慣れている(長けている)ならともかく、普通に自己アピールなんかやろうとしても、ついこじんまりとまとめてしまうものだ。周囲が「やり過ぎ」と思えるくらいやらないと、注目なんてしてもらえないのだ。 

 当たり前といえばそうなのだが、思い切りが必要だ。人は他人になど大して興味がない。だから関心をもってもらうには、分かりやすくして、打ち出したいポイント以外は排除したほうがいい。 

 それは記事の書き方にも通じると思う。
 本当はこんな話も聞いた、本筋じゃないけどあんな情報もある、なんてことまで書いてたら、何がいいたいのか読者の伝わらない記事になってしまう。本当にいいたいこと以外は思い切って落とす勇気、誤解を招くことを恐れない心構えが必要だ(嘘はダメだし、目立つこと最優先でやり過ぎると読者にあきれられるが…)。 

 自分の100%思い通りには相手には伝わらないし、すべてを受け止めてもらえる、期待する形で理解してもらえるなどという考えは不遜だし、幻想だ。少しでも自分の期待に近い理解を広げるための努力は必要だろうが、理解度が100%に近くなくてもいいから、関心を持ってくれる人を増やす段階というものもあるのではないか。記事にしろセルフブランディングにしろ、「これがウリです」とはっきりさせること。 

 その結果、敵が生まれるかもしれないが、むしろそれは歓迎すべきことではないだろうか。自分を偽ってはいけないが、まゆをひそめられるくらいの思い切りが必要だということは覚えておきたい。



(サニーさんの著書、遅ればせながら読んでます)