2022年9月28日水曜日

IVEポップアップが残念すぎ。しっかりしてdive japan!【更新】

渋谷モディのIVE POPUP SHOP
 
IVEの日本デビューを記念して渋谷のmodiで開かれているポップアップストアに行ってきたのですが、聞いていた前評判以上に厳しい企画、控えめにいってもダメダメなイベントで、モヤモヤ以上の、イライラを抱えて会場をあとにしたので、思ったことや懸念を整理しておこうと思います。

まずはっきりさせておきたいのは、IVEちゃんは悪くないし、DIVEとして応援する気持ちは少しも陰っていないということ。そして特定の誰かを責めたいわけではないということです。

というディスクレーマーを入れつつ、どんなイベントだったかを写真とともにまずみていきたいと思います。

2022年5月5日木曜日

2022GWに映画館で見た3作「カモン カモン」「ベルファスト」「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」

© 2022 MARVEL


ゴールデンウイークは毎年、映画館でたくさん映画を観ることにしていて、2022年は3本観賞したので、その感想メモ。

「カモン カモン」 子供を一人の人間として扱うなら

GW1本目は「カモン カモン」。「JOKER」でアカデミー受賞したホアキン・フェニックス主演。NYで一人暮らし、ラジオ番組の制作をしており、子供たちに未来について聞くインタビューをしている主人公。ロスに住む妹が、夫の看病で付き添いをしなければならず、その間、妹の子供(甥、9歳)を預かることになる。独身子無しの主人公は、好奇心が旺盛な甥に振り回されるが少しづつ距離が近づいていく。

全編モノクロ。子無しのおじさんが、初めてママのもとを離れることになる、好奇心旺盛でちょっと変わった9歳の少年の相手をすれば当然、疲れるはず。劇中、男の子のママ(主人公の妹)も主人公に向かって、「自分も疲れる、嫌になることがある」というようなことを吐露していたが、それも当然だろう。理不尽で時に理性的な(と大人が思う)判断ができない。子供はそういうものだと分かってはいても、イライラとするが、その過程で気づかされることも少なくない。

ただ、何か重要な判断をするときに、子供の意見を聞くのはともかく一票投じさせるのはどうかとも思う。もし投じさせるなら、その結果を受け止める覚悟が大人には必要だろう。「どうしたい?」と聞くなら、子供が「こうしたい」と言ったことを実現させてやること。する気がないのに、大人の都合のいい答えを期待して聞いて、違ったら「それはできない」というなら、聞かなければいい。子供も一人の人間として扱うということで、尊いことではあるが、おためごかしとも言える。

また子育てにせよ対人関係にせよ、国や文化、慣習によってそれぞれ異なる。現代のアメリカでは、こういう形もあるのね、という程度にとどめればよい。アメリカの常識が世界の常識でもなんでもない。

「ベルファスト」 生まれた土地を離れること

GW2本目は続けてモノクロの「ベルファスト」。監督ケネス・ブラナーの半自伝的作品とのこと。北アイルランドのベルファストが舞台。宗教的な対立で暴動が続く街を離れて英領の新天地に移住しようと家族に提案する父と、生まれて以来住んでいる地元を離れたくない母は対立し、家庭不和に。

「生まれた土地でずっと住んでいるから」という理由でその地を離れたくない気持ちは、これまた尊い気がするし、そういう思いが地域社会・ふるさとというものを成り立たせているのだろう。その反面、センチメンタルな、感傷的な思い込みであり、変化を嫌う、回避的な行動でもあるとも言えそう。

離れた後にどういう暮らしをするのか、どう生きるのかによって、離れることの意味、成否の評価は変わりそう。

「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」 マルチバースはなんでもアリにする禁じ手では

GW3本目は「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」。 

ドクターストレンジとしては2作目だが、スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホームの続き。スパイダーマンで別のユニバースにつながってしまった世界の話。途中ホラー感あるのは監督がサム・ライミだから?

何を書いてもネタバレになりそうだけど、とにかくマルチバースで並行世界の存在を認めてしまったら、全部アリになってしまう(特にスパイダーマンは分かりやすかった)ので抵抗感を覚える。

例によってクレジット後にも映像があって、当然ながら次作へのつながりが示唆される。広がりまくったMCU、今は次のステージに移行しつつある時期だと思うので(前のステージはアイアンマン中心のアベンジャーズ期)、次はどういう感じになっていくのか、気にはなるので観続けるとは思うが……。


映画館ではなく配信で、「マイノリティ・リポート」「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結」「エージェント・マロリー」を観た。疲れててスカッとするのが観たい気分のよう。

2022年2月6日日曜日

腹は「くくる」ものであって「探り合う」ものではない――『クリエイターとクライアントはなぜ不毛な争いを繰り広げてしまうのか?』を読んで

やしろあずきさんと福原慶匡さんの『クリエイターとクライアントはなぜ不毛な争いを繰り広げてしまうのか? (星海社 e-SHINSHO)』を読了。

書籍のタイトルがまさに本書のテーマで、著者の二人がクリエイター、クライアントそれぞれの立場から「なぜそういう行動をとるか」「なぜそう言うのか」を述べる対談形式。

映像やイラストなどビジュアルに限らず、テキストを納品するライターにとっても読んでおきたい一冊。自分は受発注両サイドを経験しているのでわかりみしかない。

いくつも「なるほど」を思う箇所があったのだけれど、いくつか備忘でまとめておく。

レファレンス(参考作品)は「どのポイントを参考にしているか」もあわせて伝えるべき

クライアントとクリエイターが同じものをレファレンスにしていても、見るポイントが違うとズレが生じてしまうという話。

たしかに「新海誠作品みたいな感じで」といわれて、「雲が印象的な青空」ととらえるのか、「思春期の男の子が経験するもやもやした失恋」ととらえるのかでアウトプットは大きく異なりそう。「コーラ」といわれて、「シュワシュワした炭酸水」ととるか「甘くて黒い水」ととるのかでも違う。

言うまでもないが、レファレンスは「これをパクッてくれ」ということではない。

締め切りは日でなく時刻と理由もあわせて認識すべき

締め切りが「金曜日まで」といわれたときに、クライアントはたいてい会社員なので営業時間内(17:00とか18:00)をイメージするが、クリエイターは「金曜の23:59まで」と考えてしまうという話。

さらにいえばクリエイターは、「どうせクライアントの担当者は金曜の夜はもう帰ってるし、土日は見ないだろうから月曜の朝までに送ればいいや」となりがち。

この認識の齟齬は絶対に起こるので、自分はライターさんには、時間指定しないまでも「金曜の夕方まで」とか「金曜の午後イチに」といったふうに、幅を持たせながらもある程度狭めることをするようにしている。さらにいえば、「この日の営業時間中に確認したいので」といった理由を伝えたりもする。逆に「月曜朝にみよう」と思っている場合は、それも伝えてあげて、「金曜が締め切りだけど、遅れても大丈夫」であることも伝わるようにする。

ちょっと脱線するが、クライアントとクリエイターの関係に限らず、仕事を一緒にやっている企業同士の関係において、金曜の終業時間ギリギリに相手にボールを渡すようなメールをする人は、よほど上から目線か、想像力が足りない人だなと思うようにしている。自分だけすっきりして休みに入ろうという魂胆がみえみえだからだ(かつては自分もやってしまったかもしれないので、今は注意している)。

遅れるときの連絡は遅れる見込みになった時点ですべき

遅れることが分かったら、その時点で相手に連絡するという話。

これはとても大事。締め切り当日になって連絡してこられても困るし、さらにいえば締め切りの時刻になって「間に合いません」といわれても、何の救いもない。

仕事をする上で「褒める」ことは強制と思うべき

この通りの発言ではないものの、福原さんがこういう旨の指摘そしていて、これは仕事を円滑に進める上でとてもいい考え方だと思った。

結局、なぜ不毛な争いを繰り広げるかというと……

要はお互いの想像力不足ということではないだろうか。本書の帯にもあるように「どちらかが0か100かで悪いことというのは、普通はない」わけだから。

ただ、それは両方を経験したら容易に分かることなのだが、どちらかしか経験していないと、考えても考えても気づかない、分からないもの。

だがクライアントの担当者はまだいい。というのもクリエイターに仕事を発注するクライアントはたいてい企業で、上司や先輩がいるので、何か粗相があれば叱ってもらえるから。

一方、クリエイターはフリーのことが多く、叱ってもらえない。そうすると自分の非に気づかず、成長もできないどころか、クライアントから無言で切られて次回発注がなくなってしまうだけだからだ。

クリエイターだって作品を売っている以上ビジネスの枠組みに入るので、自分のためにもクライアントにあわせたほうがいい。それは契約書を読んだり請求書を出したりという、クリエイションではない部分のこと。

とはいえ、クライアント側も、クリエイターを下請けの作業者として考えないこと。ビジネスだから、お金を払っているから、と自分たちの都合や論理を一方的に押し付けないこと。

クリエイターとクライアントはビジネスを一緒に進めるパートナーであるはずだが、どうしてもお金を払うクライアントの側が強くなりがち。このため、上で述べた「金曜の終業時間ギリギリの連絡」についても、発注側の担当者が”知ってやってる”ということも起こり得る。

クリエイターとクライアントだろうが、企業同士だろうが、相手のことを考えて向き合うしかない。なぜなら人と人の関係があってこそ仕事は進められるのだから。

「争い」は避けられないが「不毛な争い」は避けられる


そう考えるにつけ、本書で問題視されている「不毛な争い」の多くは、実際には避けられるのではないかと思う。

いや、「争い」がなくなるということはないだろう。利害が対立することはあるし、クライアント側は、個人の意思より組織人としてのそれを通さないといけないこともある。争いというか対立はする場面がある。

ただ、なるべく「不毛な」ものはしなくて済むための事前の準備・努力はできるはず。それには関係性の見直しや、お互い守るべき線の共有と順守が必要だろう。その前段に必要なのは、可能な限りの情報共有であり、認識あわせだろう。

よい仕事をするために、腹はくくるものであって、探り合うものではない。

そのための第一歩は本書をクリエイター、クライアント双方が読むことではないだろうか。

2022年2月3日木曜日

リアクションしかできないと議論はできない。リスクをとってスタンスをとること――「自分の意見で生きていこう」(ちきりん著)


ちきりんさんの『自分の意見で生きていこう――「正解のない問題」に答えを出せる4つのステップ』読了。まさに「誰かのアクションへのリアクションばっかじゃなく自分で考えてリスク覚悟でスタンスをとれ。話はそれからだ」という話。

そういう考え方になじみがある(と思っている)人とっては「何を当たり前のことを」と思われることかもしれないが、いやいや、徹底してできてる人はそう多くないはずで、一端のビジネスパーソンであっても一度目を通す価値はある。

乱暴に主張をまとめると

あらためて、本書の主張を簡単にまとめると……

反応と意見は違う、意見に正解も不正解もない、そもそも一つの正解がないことを考え議論するためには意見を持つこと。意見を持つには考えること。

というもの。

こうした意見をしっかり一冊にまとめあげるあたり(シリーズとして最初から計画されていたとはいえ)さぞクソリプに辟易とさせられているのだろう。

クソリプとは何か 私たちが必要な情報とは何か

ところでそのクソリプについて、本書では「(聞いた人が)結論を変えないどうでもいい情報」(カッコ内・当ブログ筆者)と紹介・定義していて、「なるほど」とも思っただのが、まさにその「情報」についても整理されていて役に立ったのでまとめておく。

ちきりんさんは、世の中には「正確だが無意味な情報が存在する」と指摘し、それは専門家でもない人同士の議論(またはその前提となる「考えること」)には意味がないと述べている。

その例として、尊厳死に関するスタンスを述べたときに薬剤名を間違えていたという本人の過去の例を挙げている。そこでちきりんさんは、その薬剤名がなんであれ自分の尊厳死に対する考え方は変わらないということが大事なのであって、そこまで詳細な情報の正確性を求めるのは専門家でいいと解説している。

この表は本書からの引用。

 詳細まで正確な情報厳密には正確でない情報 
意見を変えうる情報●▽●一般の人に重要な情報
意見を変えない情報  
 ▽専門家に重要な情報  

つまり尊厳死の例でいう正しい薬剤名は、詳細まで正確だが意見を変えない情報――4つのセルで言うと左下――にあたるわけだ。

縦割り発想の弊害はどこででも生まれる

このほかにも感心させられた意見、思考が整理できた説明があったので備忘のために列記しておきたい。
  • 仲間に求められるのは意見である
  • ネガティブな反応は賢そうに見える(だけ)
  • リーダーシップの第一歩は意見を持つこと
  • 縦割り発想には弊害がある
いずれも「分かる分かる」と共感する意見・スタンス。特に「縦割り発想」については悩ましく感じることがよくある。

自分の仕事に置き換えていえば、別の部署が担当をしているメディアでも、自分が「おかしい」と思ったら言うべきだと思っているし、逆に自分の担当メディアについてよその部署のメンバーから指摘や意見・提案があってもいいと思っている。「自分の担当じゃないから僭越だ、恐縮だ、申し訳ない」と思う必要はない。

読者のため、メディアそのもののためになるのだから。そもそも部署は違っても同じ会社でもあるわけだし、意見はいうべきだ。

しかし、ここで難しいのは、のべつ幕なしに意見を言えばいいというものでもないということだ。

たとえば自分の仕事が最低限ちゃんとできてもいないのに他人の仕事に口出しをするのは順序が違うし、意見を誰かに述べるのは、相手(聞き手)の時間をとるわけなので、それなりにしっかりと調べて、考えてからモノをいうべきだろう。

だが、そう言い始めると、いつまでたって「自分なんかは……」と考えて躊躇する人ばかりになってしまいそうではある。

このあたりは、発言・提案する内容の正確性・正しさの問題だけではなく、相手との関係性やコミュニケーション、人間関係の問題もからみそうではある。

しかし、それを差し引いてなお、「言うべきは言う」そして、自分がそう思っているからこそ「言われるべきは聞き入れる」ことも大事だ。

生きづらい時代になった理由

ちきりんさんはまた「生きづらさ」が世をおおっている現状を憂い、その根源的問題として「学校的価値観」を指摘している。生きづらさの理由として橘玲さんはリベラル化とグローバル化の進展を挙げているが、ちきりんさんの「学校的価値観」といういかにもドメスティックな理由にも深く納得させられた。

どちらが正しいとか、ちきりんさんが橘さんと意見が違うということではないだろう。あくまで、問題を指摘して考えさせる上での著書でのアプローチには違いがあるというだけの話。


2022年1月30日日曜日

『金融サービスの未来』感想――「顧客が損しても儲かる」から「顧客を儲けさせてはじめて儲かる」へ


金融サービスの未来: 社会的責任を問う (岩波新書 新赤版 1904)』(新保恵志著)は著者が元銀行員(日本開発銀行→住友信託銀行、いずれも入行当時)だけあって、銀行に対する新しい在り方の提言は具体的かつ実践的に感じた。

ここが変だよ日本の銀行

特に手数料や金利について消費者、ユーザーの視点からおかしいと思われることを指摘し、「こうあるべきだ」という分かりやすい提言をしている。

特になるほどと思ったのは次のような箇所だ。

かつて銀行がよく売った元本保証型の一時払い変額年金保険は、売った時点で手数料がひかれたマイナスからのスタートとなるにもかかわらず、そうした説明が不十分であること。

投信の手数料については、銀行は販売手数料を顧客でなく投信会社など販売を委託した主体からとるべきであること、信託報酬や運用手数料は基準価額が最高を更新したときにだけ払ってもらうようにすべきこと。

たとえば銀行の普通預金金利はどこも横並び――メガとネットバンクでは異なるが、競合同士(メガ同士、地銀同士など)ではだいたい同じ――だが、信用リスクが高い銀行に預けたら高い金利をつけるべきこと。

銀行がお金を貸すときに保証を求めるなら、保証協会の費用はお金の借主に負担させるべきではないこと。

いずれも納得だった。

手数料のあり方 すなわちビジネスのあり方そのものを見直すべき時期では

特に手数料については、銀行のみならず金融業界がそのあり方を見直すべき時期なのではないかと思う。

金融商品を販売することで(売買するたびに)手数料を受け取っているから、証券会社が顧客に不要な売買を繰り返させたりする。売ってしまえば後のことはどうでもいい「売ったもん勝ち」の営業がはびこってしまう。顧客が損しても売る側は得をとっているから信用されない。

投信の運用もそうで、基準価額がクソ下がってるのに手数料とるから「おかしい」と思われるわけで、上で紹介したように「成果が出たら払ってもらえる」ということにすればいい。

だからといって、「販売手数料をなくしたらロビンフッドのような形になって、ゲームストップ株のような問題が再発する」ということでもないはず。

顧客が損したら売った側も損しろとは言わないが、得はしないようにすべきなのかもしれない。少なくとも金融機関のトップのクソ高い報酬はいつまでも許容され続けることはないような気がする。