2022年2月6日日曜日

腹は「くくる」ものであって「探り合う」ものではない――『クリエイターとクライアントはなぜ不毛な争いを繰り広げてしまうのか?』を読んで

やしろあずきさんと福原慶匡さんの『クリエイターとクライアントはなぜ不毛な争いを繰り広げてしまうのか? (星海社 e-SHINSHO)』を読了。

書籍のタイトルがまさに本書のテーマで、著者の二人がクリエイター、クライアントそれぞれの立場から「なぜそういう行動をとるか」「なぜそう言うのか」を述べる対談形式。

映像やイラストなどビジュアルに限らず、テキストを納品するライターにとっても読んでおきたい一冊。自分は受発注両サイドを経験しているのでわかりみしかない。

いくつも「なるほど」を思う箇所があったのだけれど、いくつか備忘でまとめておく。

レファレンス(参考作品)は「どのポイントを参考にしているか」もあわせて伝えるべき

クライアントとクリエイターが同じものをレファレンスにしていても、見るポイントが違うとズレが生じてしまうという話。

たしかに「新海誠作品みたいな感じで」といわれて、「雲が印象的な青空」ととらえるのか、「思春期の男の子が経験するもやもやした失恋」ととらえるのかでアウトプットは大きく異なりそう。「コーラ」といわれて、「シュワシュワした炭酸水」ととるか「甘くて黒い水」ととるのかでも違う。

言うまでもないが、レファレンスは「これをパクッてくれ」ということではない。

締め切りは日でなく時刻と理由もあわせて認識すべき

締め切りが「金曜日まで」といわれたときに、クライアントはたいてい会社員なので営業時間内(17:00とか18:00)をイメージするが、クリエイターは「金曜の23:59まで」と考えてしまうという話。

さらにいえばクリエイターは、「どうせクライアントの担当者は金曜の夜はもう帰ってるし、土日は見ないだろうから月曜の朝までに送ればいいや」となりがち。

この認識の齟齬は絶対に起こるので、自分はライターさんには、時間指定しないまでも「金曜の夕方まで」とか「金曜の午後イチに」といったふうに、幅を持たせながらもある程度狭めることをするようにしている。さらにいえば、「この日の営業時間中に確認したいので」といった理由を伝えたりもする。逆に「月曜朝にみよう」と思っている場合は、それも伝えてあげて、「金曜が締め切りだけど、遅れても大丈夫」であることも伝わるようにする。

ちょっと脱線するが、クライアントとクリエイターの関係に限らず、仕事を一緒にやっている企業同士の関係において、金曜の終業時間ギリギリに相手にボールを渡すようなメールをする人は、よほど上から目線か、想像力が足りない人だなと思うようにしている。自分だけすっきりして休みに入ろうという魂胆がみえみえだからだ(かつては自分もやってしまったかもしれないので、今は注意している)。

遅れるときの連絡は遅れる見込みになった時点ですべき

遅れることが分かったら、その時点で相手に連絡するという話。

これはとても大事。締め切り当日になって連絡してこられても困るし、さらにいえば締め切りの時刻になって「間に合いません」といわれても、何の救いもない。

仕事をする上で「褒める」ことは強制と思うべき

この通りの発言ではないものの、福原さんがこういう旨の指摘そしていて、これは仕事を円滑に進める上でとてもいい考え方だと思った。

結局、なぜ不毛な争いを繰り広げるかというと……

要はお互いの想像力不足ということではないだろうか。本書の帯にもあるように「どちらかが0か100かで悪いことというのは、普通はない」わけだから。

ただ、それは両方を経験したら容易に分かることなのだが、どちらかしか経験していないと、考えても考えても気づかない、分からないもの。

だがクライアントの担当者はまだいい。というのもクリエイターに仕事を発注するクライアントはたいてい企業で、上司や先輩がいるので、何か粗相があれば叱ってもらえるから。

一方、クリエイターはフリーのことが多く、叱ってもらえない。そうすると自分の非に気づかず、成長もできないどころか、クライアントから無言で切られて次回発注がなくなってしまうだけだからだ。

クリエイターだって作品を売っている以上ビジネスの枠組みに入るので、自分のためにもクライアントにあわせたほうがいい。それは契約書を読んだり請求書を出したりという、クリエイションではない部分のこと。

とはいえ、クライアント側も、クリエイターを下請けの作業者として考えないこと。ビジネスだから、お金を払っているから、と自分たちの都合や論理を一方的に押し付けないこと。

クリエイターとクライアントはビジネスを一緒に進めるパートナーであるはずだが、どうしてもお金を払うクライアントの側が強くなりがち。このため、上で述べた「金曜の終業時間ギリギリの連絡」についても、発注側の担当者が”知ってやってる”ということも起こり得る。

クリエイターとクライアントだろうが、企業同士だろうが、相手のことを考えて向き合うしかない。なぜなら人と人の関係があってこそ仕事は進められるのだから。

「争い」は避けられないが「不毛な争い」は避けられる


そう考えるにつけ、本書で問題視されている「不毛な争い」の多くは、実際には避けられるのではないかと思う。

いや、「争い」がなくなるということはないだろう。利害が対立することはあるし、クライアント側は、個人の意思より組織人としてのそれを通さないといけないこともある。争いというか対立はする場面がある。

ただ、なるべく「不毛な」ものはしなくて済むための事前の準備・努力はできるはず。それには関係性の見直しや、お互い守るべき線の共有と順守が必要だろう。その前段に必要なのは、可能な限りの情報共有であり、認識あわせだろう。

よい仕事をするために、腹はくくるものであって、探り合うものではない。

そのための第一歩は本書をクリエイター、クライアント双方が読むことではないだろうか。

2022年2月3日木曜日

リアクションしかできないと議論はできない。リスクをとってスタンスをとること――「自分の意見で生きていこう」(ちきりん著)


ちきりんさんの『自分の意見で生きていこう――「正解のない問題」に答えを出せる4つのステップ』読了。まさに「誰かのアクションへのリアクションばっかじゃなく自分で考えてリスク覚悟でスタンスをとれ。話はそれからだ」という話。

そういう考え方になじみがある(と思っている)人とっては「何を当たり前のことを」と思われることかもしれないが、いやいや、徹底してできてる人はそう多くないはずで、一端のビジネスパーソンであっても一度目を通す価値はある。

乱暴に主張をまとめると

あらためて、本書の主張を簡単にまとめると……

反応と意見は違う、意見に正解も不正解もない、そもそも一つの正解がないことを考え議論するためには意見を持つこと。意見を持つには考えること。

というもの。

こうした意見をしっかり一冊にまとめあげるあたり(シリーズとして最初から計画されていたとはいえ)さぞクソリプに辟易とさせられているのだろう。

クソリプとは何か 私たちが必要な情報とは何か

ところでそのクソリプについて、本書では「(聞いた人が)結論を変えないどうでもいい情報」(カッコ内・当ブログ筆者)と紹介・定義していて、「なるほど」とも思っただのが、まさにその「情報」についても整理されていて役に立ったのでまとめておく。

ちきりんさんは、世の中には「正確だが無意味な情報が存在する」と指摘し、それは専門家でもない人同士の議論(またはその前提となる「考えること」)には意味がないと述べている。

その例として、尊厳死に関するスタンスを述べたときに薬剤名を間違えていたという本人の過去の例を挙げている。そこでちきりんさんは、その薬剤名がなんであれ自分の尊厳死に対する考え方は変わらないということが大事なのであって、そこまで詳細な情報の正確性を求めるのは専門家でいいと解説している。

この表は本書からの引用。

 詳細まで正確な情報厳密には正確でない情報 
意見を変えうる情報●▽●一般の人に重要な情報
意見を変えない情報  
 ▽専門家に重要な情報  

つまり尊厳死の例でいう正しい薬剤名は、詳細まで正確だが意見を変えない情報――4つのセルで言うと左下――にあたるわけだ。

縦割り発想の弊害はどこででも生まれる

このほかにも感心させられた意見、思考が整理できた説明があったので備忘のために列記しておきたい。
  • 仲間に求められるのは意見である
  • ネガティブな反応は賢そうに見える(だけ)
  • リーダーシップの第一歩は意見を持つこと
  • 縦割り発想には弊害がある
いずれも「分かる分かる」と共感する意見・スタンス。特に「縦割り発想」については悩ましく感じることがよくある。

自分の仕事に置き換えていえば、別の部署が担当をしているメディアでも、自分が「おかしい」と思ったら言うべきだと思っているし、逆に自分の担当メディアについてよその部署のメンバーから指摘や意見・提案があってもいいと思っている。「自分の担当じゃないから僭越だ、恐縮だ、申し訳ない」と思う必要はない。

読者のため、メディアそのもののためになるのだから。そもそも部署は違っても同じ会社でもあるわけだし、意見はいうべきだ。

しかし、ここで難しいのは、のべつ幕なしに意見を言えばいいというものでもないということだ。

たとえば自分の仕事が最低限ちゃんとできてもいないのに他人の仕事に口出しをするのは順序が違うし、意見を誰かに述べるのは、相手(聞き手)の時間をとるわけなので、それなりにしっかりと調べて、考えてからモノをいうべきだろう。

だが、そう言い始めると、いつまでたって「自分なんかは……」と考えて躊躇する人ばかりになってしまいそうではある。

このあたりは、発言・提案する内容の正確性・正しさの問題だけではなく、相手との関係性やコミュニケーション、人間関係の問題もからみそうではある。

しかし、それを差し引いてなお、「言うべきは言う」そして、自分がそう思っているからこそ「言われるべきは聞き入れる」ことも大事だ。

生きづらい時代になった理由

ちきりんさんはまた「生きづらさ」が世をおおっている現状を憂い、その根源的問題として「学校的価値観」を指摘している。生きづらさの理由として橘玲さんはリベラル化とグローバル化の進展を挙げているが、ちきりんさんの「学校的価値観」といういかにもドメスティックな理由にも深く納得させられた。

どちらが正しいとか、ちきりんさんが橘さんと意見が違うということではないだろう。あくまで、問題を指摘して考えさせる上での著書でのアプローチには違いがあるというだけの話。