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2019年7月26日金曜日

ヨッピー『明日クビになっても大丈夫!』は”わかりみ”しかない──クリエイター、フリー志望者必読の書

2017年発売のヨッピーさん『明日クビになっても大丈夫!』(幻冬舎)を今さらながら読んだ。よくヨッピーさんのことを知らない人が持っているであろう彼へのイメージが、いい形で覆される、納得感あふれる、わかりみにあふれる一冊だった。

2017年4月24日月曜日

Webメディア全盛、出版不況時代にライターが食っていくため、コラム・エッセイを書けるようになるために必要なこと

近著『電通と博報堂は何をしているのか (星海社新書)』や現代メディアの記事「「これまでの記事を撤回したい…」沖縄で私はモノカキ廃業を覚悟した」など、最近の活動も高く評価されている中川淳一郎さんがB&Bでトークイベントに登壇されるというので行ってきた。有料イベントなので全部書いちゃまずいだろうし、ぶっちゃけトークすぎてて書けないこともあるが、とてもいい内容だったので、備忘も兼ねてレポート。

2017年1月16日月曜日

メディアをつくるということに関するメモ


「メディア」という、ざっくりとしたテーマでちょっとしたスピーチを頼まれたので、あらためて考えていることなどを整理した。田端さんの『MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体 (宣伝会議)』からコンテンツの軸については引用させてもらいつつ、過去に複数のメディア関係者から聞いて自分なりに納得できた視点を思い出しながら、まとめた。十数枚のスライドに数時間でまとめたものを、簡単に振り返っておく。

2016年2月14日日曜日

クオンタムリープとディスラプト 爆発的な進化を遂げるための小さな成長


m-flo[Planet Shining]

m-floに「Quantum Leap」という楽曲がある。2000年発表のアルバム「Planet Shining」に収録されている。m-floにはもっと好きな曲がたくさんあるので、特別この曲が好きというわけでもないが、m-floは楽曲を聴くだけでなく記事やブログを読んだり、インタビュー映像などを見たりしていることもあって、この単語は印象に残っている(VerbalさんかTakuさんが解説していたような記憶がある)。

「クオンタムリープ」。

非連続の飛躍といわれるものだ。簡単にいえば、ある一定の条件が整ったときに、爆発的な進化が遂げられる、という理解でよいだろうか。

2016年1月11日月曜日

2016年の目標 気軽なテーマで週1くらいでブログを書く




昨年は年初に毎週1本記事を書くことを目標に掲げていましたが、終わってみれば結局1年を通して24本のエントリーしか書けませんでした。仕事を変わって原稿を触ることが多くなったため、プライベートのブログまで手と気が回らなくなったというのが正直なところです。
日々ちょっとした気付きや思うことはあるのですが、どうしてもブログに書くとなるとそれなりに調べて考えを整理してから書こうと構えてしまうので、もうちょっと気軽に書いていきたいと思います。
今年は週1本ペースでいければいいなと、すでに本年2週目に入りましたが、思っています。

2015年10月10日土曜日

地図の作り方・貼る向きに見える想像力の欠如


 日本橋で地下鉄出口の壁に貼ってある地図を見たら、貼り方が不親切でちょっとため息をついたた(上の地図ではありません)。

 地上の出口、外側の壁に貼ってある、出口周辺、一帯を示す地図。簡単にいえば、地図を見る自分が南側を向いているのに、地図は北が上になっているのだ。

2015年8月6日木曜日

「ニューズピックス」か「ニュースピックス」か。あるいは「TOKAKUKA」気になる


NewsPicksのイベントに参加すると、「ニューズピックス」という人と「ニュースピックス」と呼ぶ人がいて気になって仕方がない。

2015年6月7日日曜日

「活躍したいなら越境を。10年間何かをやり続けて人脈と知識で世界を広げよう」ーー【対談】ムラカミカイエ×軍地彩弓

軍地彩弓さんとムラカミカイエさんの対談をクリーク・アンド・リバーの企画「東京会談」で拝聴した。テーマは「ファッションとテクノロジーの未来」だ。前回、1月に軍地さんと千原徹也さんの対談が面白かったので期待して行ったが、今回も示唆に富む内容だった。



2015年5月13日水曜日

メディアが届けるものは読者が「読みたいもの」だけでいいのか――Webと新聞から考える 新時代のニュースとメディアに参加した



Webと新聞から考える 新時代のニュースとメディア~朝日新聞メディアラボで語り合う夜~に参加した。3人のパネリストのうち2人が朝日新聞の方(うち1人はハフに出向中)ということもあって、新聞出身の自分としては、もう1人のパネリスト、ログミーの川原崎晋裕さんの話のほうがササったので、振り返っておきたい。

2015年4月30日木曜日

原稿・記事を書く前に考えておきたい3つのこと

「こういうことが言いたいんですよね?」



こむすぽというウェブメディアでは、原稿はデスクとしてすべて手を入れていて、場合によっては、大半を書き換えることがあります。

素材のいいところを引き出すために、同じ素材で別メニューに再調理するイメージです。

2015年1月25日日曜日

dマガジンに登録。読めない記事も意外に多いがおおむね満足。



「月400円で雑誌が100誌以上が読み放題」というdマガジンに登録しました。雑誌のすべての記事が読めるわけではなく、読めない記事もあるし、一つのページのなかでもグレーにつぶされて読めなくなっている部分もありますが、400円でこれなら十分満足しています。雑誌を2冊以上買う人、買いたい人(読みたい人)にはオススメのサービスです。

2014年9月8日月曜日

新潟のかっこいい11歳が一人でつくる新聞『別府新聞』



先日偶然、フジテレビの深夜で放送された第23回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『小さな新聞社 社長は11才』を録画して観た。新潟総合テレビ制作の番組で、新潟県十日町に住む別府倫太郎君(11)が一人でつくっているウェブ新聞の話だ。番組紹介をみたとき、「どうせ街のほのぼのネタかなぁ」くらいに思って気軽に録画したのだが、とんでもなかった。驚き、感心し、考えさせられ、そしてとても大切なことを思い出させられた気がした。嫉妬のような複雑な感情を抱いた。

リンク 別府新聞

倫太郎君は病気を抱えていて、薬の副作用などからいじめがきっかけで学校には行っていない。僧侶に自分の疑問をぶつけて「死と生」について語り合い、ジャズが好きでコラムを書き、吉本隆明・糸井重里共著の『悪人正機』が面白いといい、『暮しの手帖』や『ブッダ』を読み、「本質」について、「限界」について語り、病気は自分だから戦わない、戦うのは病魔だという彼。「学校に行っていない思想家」という別名を持つというが、まさに言い得た別名だと思う。

彼はまた「大人っぽい」とよく言われるようだが、それもうなずける。

今の彼をつくりあげた要素に病気があるのは間違いない。だから彼がいま作り出しているものや、周りを魅了する性格や生き方だけをみて「すごいなぁ」「いいなぁ」というのはあまりに無邪気だ。だから嫉妬などという言葉を使っていいものか……とは思いつつ、それでも唯一、無比であることにはやはりため息をつくほど感心してしまうのだ。

彼は知りたいと思ったことがあれば、取材に行く。大変だといいながら自分の言葉で感じたこと、考えたことを発信する。与えられた疑問や問題を解消し、乗り越えるのではなく、自分が生きていて感じた疑問や問題を、自分で解決しに出かけて行き、考え、答えを出し、また時には答えが出ないまま、文章にし、発信している。これはメディアのあるべき、理想的な姿の一つではないかと思う。

「こんなことやったらいいな」「面白そう」「あんなことが知りたい」「これはどうなっているんだろう」……日々暮らしていていろいろな疑問や気づきに出合うが、思って終わりにしてしまうことが多い。妥協せずしっかりと向き合い、形にすることを面倒がらない。簡単そうで難しいことだ。

彼の姿をみて生じた疑問の一つが、「教育はこうあるべき」という画一的な考えがあまりに広がっていはいないだろうかということだ。そもそも教育は何の為にしている(与えている)ことなのだろうか。

知りたいという欲求が生まれれば取材に出かけ、発信する行動力がある彼の日常をみると、学校すら必要ないのではないかと思えた。誰もが彼のように感じ、考え、行動することはできないだろうから、学校がなくなってもいいというわけではない。かく自分も、子どものころ同じことができたかといえば、絶対に無理だった。

いや、「子どものころ」と限定するのはカッコつけだ。今だってできていないと思う。

子どもに教育を与えるのが親の義務だとして、学校に行かないという彼の選択を受け入れ、かつ学校に行っていない彼が“しっかりと”生きている今を生み出している家族は、その義務を果たしていないと言えるのだろうか。また、自分が親として同じ立場に立ったとき、果たして本人の望む生き方を支えてあげられるだろうか。

番組を観て、思い出すにつけ、また別府新聞を読むにつけ、考えるべきこと、おざなりにしていた大切なことを思い出させられる。録画を観てすぐに別府新聞にアクセスし、TWやFBでフォローし、記事もいくつか読んだが、すべては読み切れていない。ザッと目を通して終わりではなく、読みながら考え、考えながら読みたいと思う。ポレポレと。



2014年4月25日金曜日

スポーツに関するwebメディア「こむすぽ」立ち上げ。ライター募集中!

きゅぽらスポーツコミュニティサイトより

 スポーツジムに通うとか、特定のスポーツチームに入るといったことをしないかぎり、気軽にスポーツを楽しむというのは、簡単なようだが実際には難しい。「今週末空いたから、ちょっと身体動かしたいなぁ」と思っても、一人で走ったり泳いだりする以外に選択肢は思い浮かばないのではないだろうか?

2014年2月13日木曜日

iOSとKindleの微妙な関係



「電子書籍を作っている」と言うと、「電子書籍ってどうやって作るんですか?」と聞かれることがままある。

 Web業界の人から聞かれたときは、

「ウェブサイトと似てますよ。ページをxhtml(HTML5)で書いて、CSSで見え方を決めて、画像はimageフォルダに格納して、パッケージにしたものを圧縮するんです。だから拡張子.epubは.zipに書き換えて解凍するとフォルダの中身が見られますよ」

と答える。
そうすると、だいたいイメージがつくようだ。


2013年12月12日木曜日

カップ麺に入っていた粉末スープ・かやくの袋の表記ゆれが気になった

カップ麺に入っていた「粉末スープ」と「あとのせかやく」、両方ともお湯を入れて数分待って、食べる直前に入れるよう指示があったんだけど、

粉末スープ には   「食べる直前に入れて下さい」とあり、
あとのせかやく には 「召しあがる直前に入れてください。」とあった。


同じ商品に入っていながらこんなに表記がブレるのはなぜなんだ。

それぞれ違うところでデザインをした、担当者が違うとかそういう理由だろうが、なんだか気持ち悪い。
しかも、「食べる/召し上がる」だけじゃなく「下さい/ください」「。つける/。つけない」と「ここまで違うか?」と思えるほど違っている。

「そんなのどうでもいいじゃん」と思うかもしれないけど、「自分が担当者だったら」って考えると、なんだか手を抜いてる感が伝わってきて嫌だ。

そう指摘してなお、「そこ手抜いてもいいとこでしょ」っていう人もいるだろうけど、やっぱり編集者、ライターとしては表記の揺れは避けたいと思うものです。
(それに、英文表記とかあってもいい気もします)

2013年11月21日木曜日

答えになっていない答え、もしくはサービスが不十分な答え



R25の「今週の彼女」で佐々木希さんのインタビュー記事が出ていて、見出しが「好きなタイプは落ち着く人」とあって、「またそのパターンか」と思ってしまいました。そこは見出しなので本文を読んでみると、


2013年5月31日金曜日

ブログを毎日書いてみて ネットのクソ情報に溺れるわ

 5月は一カ月間、毎日ブログ記事を更新した。アップロードが12時を過ぎた日もあったが、毎日何かしら記事を書くことにし、何とか今日この記事で31本目だ。一カ月やってみて思ったのは、「まぁ一カ月くらいなら難しくも何ともないな」ということだったのでだが、それでも節目は節目なので、ちょっと振り返ってみる。
 「何でもいいんならできるだろ」というツッコミをされるかもしれないが、自分なりに「面白い」と思ったことしかネタにはしないとか、TwitterやFacebookで投稿するような長さでお茶を濁すようなことはしないと決め、無理しすぎず、楽もしすぎず、とりあえずやってみた。

 このブログを始めたのは、TwitterやFacebookでは書きたいことがあっても短くなってしまうし、雑誌では発表の機会がそうないし、必ずしも好きなテーマ、長さで書けるとは限らないこと(また雑誌を休刊したこと)などが理由だった。過去には、業務(またはその延長戦上)でブログをやったりもしたが、会社の都合や業務とのかかわり合いとの兼ね合いでいずれもやめてしまった。業務がどうあれ会社がどうあれ、自分個人として続けてみようと思って、URLにも自分の名前をいれて、このブログを始めた。

 昔から、日々生活していて、「あれ?なんだこれ」とか「ほほぅ、これは面白い」と思うことが結構あって、「何かのときに書こう」とは思うのだが、その何かは自分でつくらないと訪れない機会だから、自分でその機会をつくろうと考えた。
 そして書くテーマについては「それなりに長い文章としてまとめておきたいもの」と考えていたのだが、そうすると今度はなかなか書かなくなってしまう。書きたいから書くのではあるが、つい忙しさにかまけて、一カ月や二カ月平気で書かなくなってしまう。だからこの際、とにかく短くてもいいから書いてみようと思い、続けてみた。
 とにかく書こうと思ったのは、取材をしてこんなことを思っていたことが直接の理由だ。2月からしばらく経っているが、会社の移転や諸々あって、GWに若干落ち着いたタイミングで始めた。その記事にも書いたように、アウトプットの機会を無理矢理つくったからこそ、インプットを積極的にするようになる。インプットしたところで出す機会がなければ宝の持ち腐れ。インプットも必要だがアウトプットはもっと重要だ。

 ところでこの「インプット」、種類にもよるが、自分が望んでいる類いのアウトプットをするためには、質の高いインプットが欠かせない。僕は(あまり好ましいことではないが)人見知りするので、情報を得るのは人からというより、物やサービスからということが多い。そして、本や雑誌、劇場、テレビ、ネットなんでもいいのだが、面白いもの新しいものは、それなりにお金を払って吸収するもののほうが、情報としての価値は高い。ついお金をけちって情報収集を怠ったり、無料の情報ばかりで過ごしたりすると、目には見えないけれどの後々のアウトプットに如実に影響してくる。それを実感した。
 もともと「本代はけちるな」と教えられたこともあって、面白そうな記事があれば雑誌や本はあまり躊躇せずに買っていた。だがいろいろお金がかかるようにもなり、会社も順調とは言えなかったために報酬を下げたりしたため、しばらく雑誌や書籍をあまり買わずに過ごした。映画もよほどのことがなければ劇場には行かなかった。古書店やレンタルは時折利用していたが、頻度はそう高くなかった。
 すると、それがボディブローのように効き始めた(と感じたことがあった)。なんと言うか、インプットを盛んにしていたときに感じていた、自分の中の引き出しのバラエティーさが失われていた。アウトプットするときにネタの傾向が似てしまう。何か新しいニュースを見たり聞いたりしたときに、インプットを盛んにしていたころは「あ、これはこないだ見たアレと似ている」とか「またこんなサービスが出ているな、はやっているのかも」とか(あまりいい例じゃないけど)、そういう気づきがそれなりにあったのだが、この時期は、時々意識してインプットすると、「あ、こんなのがあるのか」「これは知らなかった」と驚くばかりだった。
 ちきりん女史はインプットよりもアウトプットのほうが重要という考えを著書で示していて、それもよく分かるのだが、「インプット」「アウトプット」といってもそれぞれ目指すものや手法が違うので、単純に比べられないということだろうと思う。

 ネットがないと生活できなくなってしまった現代、情報は無数にある。けれど、無料の情報は一過性の、消費するためだけのネタでしかない。それをないがしろにしていい訳ではないが、吸収する物がそんなのばかりでは、やはり自分の中のフィルターに残るものがなくなってしまう。フィルターもさびついてしまう。

 だから今は、厳しいなりにも厳選して、多少は無理してでもインプットするようにしている。そしてさらに、今以上にインプットをするよう、このブログでの記事更新(アウトプット)の回数を増やしてみた。

 今思うのは、ネットで得られる情報、特に簡単にアクセスできる、アクセス数を稼ぐためのニュースやポータル、まとめサイトなどの情報は、(いいものもあるが)クソが増えすぎているということだ。ネット巡回していて、気分が悪くなることがあった(そんなに突飛なサイトやサービスをみて回っているわけでもないだろうが)。見出しはそれなりにフックになっているが、クリックしたら全然ミスリードだったり、大したことでもないのにクリックさせるために大げさな見出しをつけたりしている。

 「無料だから」といわれればそれまでだけれど、さすがに線引きをしなければいけない時期にきているなと気づいた。あぁ、だからキュレーションとかまとめとかが流行るのか(クソまとめも多いけど)……そういう意味では個人メルマガがはやるのも理解できる。


 とりとめがなくなってしまったが、とにかく一カ月やってみて、自分なりに些細ながら分かったこと気づいたことがあり、やってよかったと思う。せっかくなので今後もできる限り書き続けていき、日々記事の小ネタを後々しっかり料理しなおすというスタンスでやってみようと思った。


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2013年5月19日日曜日

悲恋の話の広告に笑顔で出ることはアリかナシか


 女優岸恵子さんの小説『わりなき恋』(幻冬舎)が売れているそうです。5月18日付け読売新聞朝刊に掲載された全5段広告では17万部突破とのこと。
 その広告にはコピーとして、「女盛り、70歳。最後の恋、最高の恋ーー。」とあります。また、あらすじの説明によると、国際的ドキュメンタリー作家の女性主人公(69)と、大企業のトップ(58)がパリ行きのファーストクラスで知り合ってから始まる物語だそうです。さらにこんな紹介もあります。「愛憎、献身、束縛、執念、エゴ……。男女間のあらゆる感情を呑み込みながら、燃え上がる鮮烈な愛と性。生と死を見つめる感涙の終着駅。」……。

 これらから何となく予想はつきますが、素敵な、そして切ないラブストーリーなのでしょう。別に茶化す気も笑う気もありません。気になったのは、その広告で岸さんがニッコリと笑っている写真が出ていること。悲恋を想像させるお話の著者が、PRでニッコリいていることに違和感を覚えました。

 そういえば先日、映画「リンカーン」を観たのですが、冒頭に監督のスティーヴン・スピルバーグが出てきて、時代背景を説明します。
 そんなの要らないんじゃないかと思いましたが、それも含めて演出であり、PRの戦略なのでしょう。日本以外でも同様の映像が流れているのか気になりますが(スピルバーグ監督は日本の視聴者に呼び掛けていた)、それはさておき。もちろんシリアスな感じで、淡々と説明をしていました。

 もしそこで監督がニコニコしていたらおかしいでしょう。しかしそれは冒頭の広告についても言えるのではないでしょうか。この小説を読んだ訳ではないので勘違いもあるかもしれませんが……。

 ただし、作品の中身と広告がすべて同じ雰囲気で統一されてないといけないのだとすると、映画公開前のキャンペーンでずっとしかめ面してたりしなきゃいけないことになるので、さすがにそれは無理でしょう。

 どこまで統一されていれば違和感がなくなるのか分かりませんが、やはりいくらフィクションの作品でも、著作物と著者のイメージに解離があると残念に思うものではないでしょうか。それは別に本当のところがどうかは関係なくて、視聴者、読者の前に出てくる時のプレゼンのあり方の話です。そこは統一されていてほしいものです。