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2014年8月19日火曜日

思春期からの距離を測る――「思い出のマーニー」を観て

© GNDHDDTK

「ジブリっぽい」という言葉の定義をたとえば「ラピュタやナウシカ、千と千尋、ポニョなどのファンタジックでアドベンチャー感のある作品」とするとしたら、本作は「ジブリっぽく」はない。だから、「ジブリっぽい」ものを期待していって「裏切られた」という人が多そうな作品だった。うん、これは評価が分かれるだろうなと思った。

2013年5月18日土曜日

異なる常識に触れたときに――「図書館戦争」と「真夜中のパン屋さん」を観て


 アニメ「図書館戦争」とドラマ「真夜中のパン屋さん」を観ていて、「自分の世界とは違う常識で生きている人たち、世界に触れたとき、果たして自分は受け入れられるのだろうかということを考えた。

 「図書館戦争」の第6話「図書隊ハ発砲セズ」。原作にはないアニメオリジナルのエピソードだそうで、ググるとあらすじの矛盾を指摘するブログもあるようだが、この中で登場人物がこんなことを言う。

 「俺たちの社会は、政治的な駆け引きが複雑に絡み合ってこんなことになっちゃったけど。もしメディア良化法も図書館の自由法もない世界の人が見たら、さぞや滑稽で不思議に見えるだろうね」

 この台詞は視聴者の心情を代弁、説明した言い訳のように聞こえる。ちょうど5話まで観てきて、その設定、世界にちょっと無理を感じていただけに余計にだ。僕は原作を読んでいないし、実写映画も観ていないので、そちらがどれだけリアリティがあるか分からないが、少なくともノイタミナ枠で放映されたこのアニメにはあまりリアリティが感じられなかった(それは必ずしも面白くない、つまらないということではない)。
 そこで、アニメシリーズの演出の問題という見方もできるが、表現の自由や図書を争って戦闘が繰り広げられるという、現実には考えられない設定、社会、常識であることに対して、自分が気づかないうちに否定してしまっていたのではないかと考えた。フィクションだからこそ、リアリティ、「さもありなん」な感じはほしい。けれど、理由を制作者側、作品に求め過ぎていなかっただろうか。「もし本当にあったとしたら」と考えられないなら、自分の思考の幅がいかに狭いかを嘆くべきではないか。
 現実の世界で「信じられない」常識に生きる人たちに会ったときに、果たして自分は受け入れられるだろうか。受け入れる、溶け込む必要はなくても、「尊重する」ことができるだろうか。

 ちょうどそんなことを考えていて、「真夜中のパン屋さん」第3回(「普通じゃない人々」)を視聴した。母と二人暮らしの小学生こだま。母が出ていってしまい一人ぼっちになった彼をパン屋の暮さん(タッキー)たちが世話するのだが、希実(土屋太凰)がこだまの母を「カッコウ」にたとえる。自身も母の知り合いなどあちこちに預けられた経験があり、母のことをカッコウのようだと思っていた希実らしい台詞だ(そもそもこの物語は、不思議な魅力のある暮さんとその亡き奥さん、ブランジェの弘基たちのパン屋さん=ブランジェリークレバヤシ=に、いろんな人たちが集まってきて、暮さんが託された卵を孵化させるような役割をしている)。

 なるほどと思いながらネットを見ていたら、たまたま「カッコウは自分の体温で卵を孵すことはできない」という掲示板の書き込みを見つけた。体温が低いからカッコウは卵を温められないというのだ。

 そこで「自分の卵が温められないからだのつくりってありえないんじゃないか。そんな動物がな存在するんだ」と思い、すぐに反省した。これもまた自分の常識を当てはめようとしているだけじゃないかと。自分でできなくても、他人に孵化してもらえれば目的は達成されるんだから、それはそれでいいんじゃないかと。

 母をカッコウにたとえる希実の台詞を聞いた直後に書き込みを見つけて、「こんな偶然もあるのか」とちょっと驚きながら、「自分の常識がみんなの常識とは限らない」ということを肝に銘じた。

2013年5月13日月曜日

萎えるアニメ 萎えないドラマ――OP&ED考

 

 NHKアニメ「はなかっぱ」のOPがスパガ、EDがDream5とそれぞれ別のアイドルグループの曲になっている。特にEDはアイドルたちと着ぐるみのはなかっぱ、ももかっぱちゃんが一緒に踊っていてちょっと驚いた。キャラの着ぐるみは他のアニメにもあるが、主題歌を歌うアイドル、歌手と一緒に登場しているのは初めて見た。多分ほかにも同様の事例はあるのだろうが。この「はなかっぱ」の選曲の是非というより、アニメのOPやEDの曲選定はいつも考えさせられる、ということについて書いてみたい。

 まずタイアップどうかはともかく一番大事なのは、世界観とあっているかどうかだ。一時期、人気アーティストの楽曲をただ主題歌にしただけと思えるケースが結構あった。また人気が若干落ち目になったアーティストがどんな理由か知らないが()採用されることもあった。そういうのが一番萎える。

 人気アーティストの楽曲を使うことは、アニメファン、原作ファン以外の、そのアーティストのファンも取り込むことが期待できるメリットはある。

 しかし、それは邪道だろう。

 主題歌を選ぶのは監督や演出ではないのだろうから、押し付けられた制作陣とて忸怩たる思いはあろう。だが大人の事情で選ぶ余地がなかったとしても、視聴者全員が忖度してくれる訳ではない。そんな義務はない。ファンにしてみれば、OPやED含めた世界観を楽しみ、浸りたい。その統一感やいい意味での裏切りを期待しているし、値踏みしている。

 だからアニメの楽曲は世界観に合わせたオリジナル制作が一番いいように思う。ただ既存の曲にピッタリのものがあれば使ってもいいだろうし、アーティストに発注して作ってもらってもいい。


 最近のアニメはあまり観ていないが、それでもジョジョはOP、EDともによかった(一期、二期とも。神風動画の映像がさらに引き立ててた)。「宇宙兄弟」も楽曲やアーティストの選択にセンスがある気がする(進撃の巨人は悪くないけど、騒ぎすぎな気も)。

 OPやEDも含めて作品と考えるか、その部分をPRと考えるか、ということだろうか。


 と、ここまで考えて思ったのは、ドラマはどうだろうかということ。ドラマはタイアップじゃない楽曲はなかなか考えづらいから、よくよく考えるとドラマの筋や世界観とあってない楽曲ってかなり多いんじゃないだろうか。

 でも「ドラマはそんなもんだ」と思っているからか、楽曲の良し悪しは気にするものの、ドラマとの親和性、統一感みたいなものはあまり気にならない。これはなぜだろうか……。もしかして自分だけだろうか。よく考えてみれば、海外ドラマなんてテーマ曲は無いか、ジングルの長いやつみたいな、ちょっとしたインストだけってことも結構ある。


 楽曲は覚えてるけど本編はあまり…という作品もある(アニメ、ドラマとも)。本編が後々まで記憶されるほどの良作であれば、楽曲だって合わせて記憶されるのだろうが、ファンとしてはやはり、「なるほど」と想えない選曲はしてほしくないものだ。

2013年5月6日月曜日

ファンなら何が知りたいか――大おもちゃ博で感じたこと


 人気アニメのおもちゃの展示・体験やライブなどがあるイベント「大おもちゃ博」(品川プリンスホテル主催、タカラトミーなど特別協力)に行った。トランスフォーマー、リカちゃん、ポケモン、プリティーリズムなど同社のコンテンツが勢ぞろいで、子どもだけでなく大人も楽しんでいた。会場に入る前に、中で行われるイベントの整理券配布などについての説明があったのだが、これが分かりにくかった。

 説明や会場整理には、タカラトミーの社員、プリンスホテル社員、レコード会社関係者、そして多くのバイトが携わっていたのだと思う(会場に着いてすぐ内容について質問した相手がホテル関係者で、中でのことは分からないと言われてしまった)。そもそもこのイベントはウェブサイトの情報整理がいまひとつで、事前に知りたいことがよく分からなかったのだが、会場での説明も要領を得ず、分かりにくかった。

 なぜ参加者が満足のいくような説明がなされないのか。それは、説明した担当者が、自分が今説明している内容について、“深く”は理解していないからではないか。準備不足とも言えなくはないが、というよりむしろ参加者やファンほどにはその対象を愛していないからだろうと思う。

 参加者は本当にそのアニメやキャラ、テーマ曲を歌っているアーティストが好きで会場に来ている。一方、主催者側の担当者については、皆が皆、そんなテンションという訳ではない。それをプロ意識の欠如と断じるのはちょっと厳しいと思う。このイベントでも、会場整理のため、イベント運営のためのマニュアルが作られ、現場の担当者は粛々と実行しているはず。だが、こちらとしては目的を達成することができるのか(見たいものが見られるのか、欲しいものがゲットできるのか)、一向に分からない。その理由に、対象への思いの深さの違いがあるように思えてならなかった。
 結局、いちいち聞かれると担当者も大変だろうから、係員を呼び止めてあれこれ聞くのは憚られるから、迷惑にならないであろうタイミングを見計らって、どうしても聞いておきたいことは聞いた(結局聞くこともできたし、このイベント関係者を批判したいわけではない。大きな手落ちがあったわけでもないのだし)。

 開場までの待機列で暇潰しにネットを見ていて、「ジャニーズのファンが非公式グッズを買ってしまうのは、公式にはない、痒いところに手が届く、ファン心理をついたグッズ展開をしているからだ」という主旨の記事をサイゾーで見つけて、なるほどと思った。
 ジャニーズの公式グッズを作っている会社や関係者、担当者だって入念にリサーチして、ファンが欲しいと思うであろうグッズを作っているはず。彼らはプロだし、まさに当事者なのだから。
 しかし実際にはファンは非公式グッズを買ってしまう(公式を買わず、ということではない)。非公式グッズを作っている会社や関係者ももはやプロといっていいだろうが、サードパーティーが本家を越えているというのは興味深いことだ(ここでいう「越えている」は売上のことではないし、どう越えているかのデータはない。公式にはないがファンに支持されるグッズが非公式から出ているということだ)。

 こういうことはよくあると思う。ジャニーズの場合はどうか分からないが、ファンが考えたほうが、ファンが欲しがるグッズが作れるのかもしれない。ファン心理が分かるのだから、その可能性は小さくないのかもしれない。
 グッズ制作だけでなくイベント運営でも同じことがいえる。ファンならここに何を求めて来ているのか、今このタイミングでファンならどうしたいとw思うか、そのために何が知りたいのか……。担当者だってちゃんと準備はしているだろうが、「ファンならどう考えるか」というところに思いを馳せているかどうかは自問してもらいたい。さらにいえば「ファンに負けないくらい、その対象について語れるか」ということにも。

 そしてこれはイベント運営だけでなく、サイト運営など各種サービスについて応用できると思う。自分の過去の仕事、経験を振り替えって、そういう想像をすることがいかに難しいかに気づいた。それが自然にできる人が気が利く、仕事ができるということなのだろう。

 お客様の立場に立ってとか言われるが、そんな手垢のついた言い回しや考えではなく、自分がファンになるくらいに対象を愛して考えてみなければ、気づかないことがたくさんあるのだと思う。まさに言うは易し、行うは難しだと思うが、忘れず応用したい。