2012年10月20日土曜日

島村ジョーもリーダー、高橋みなみもリーダー――「009 RE:CYBORG」を観て

© 2012 「009 RE:CYBORG」製作委員会


JAPAN as a LEADER of ...

  「サイボーグ009」の連載が始まったのは1964年(昭和39)。その後、連載は85年まで断続的に続いた。2012年現在、早瀬マサトさんと石森プロによる完結編が描かれているが、石ノ森氏本人による009は80年代で止まっている。「未完の大作」と呼ばれる所以だ。石ノ森氏が連載するにあたり何を考えていたのか、そのあたりの分析は雑誌『Pen』の特集「サイボーグ009完全読本」に任せるが、こういう疑問を持つ人はいないだろうか。


 なぜ、世界各国から集められた9人のサイボーグ戦士のリーダーが日本出身なのか――。



 身も蓋もない言い方をすれば、「日本の漫画なんだから」ということになるだろう。だが果たしてそうした解釈しかできないものだろうか?

 2012年、サイボーグ009を原作にした映画が新たに公開される。「攻殻機動隊S.A.C.」シリーズの神山健治監督が脚本も手がけた「009 RE:CYBORG」だ。10月27日全国公開の本作を、私は先日、試写で観た。ちょっと難しく分かりづらいところはあったが、面白かったし、好きな作品と言える。公開前でネタバレはしたくないので、ほんの少しだけ、感じたことを書いてみる。

原作の漫画が連載されていた時期、日本は高度経済成長を遂げた。一方、本作の舞台は2013年。社会は、世界は、まったく変わった。既にソ連は崩壊し、冷戦は終わった。中国をはじめとした新興国が台頭している。EUが生まれ、その中でも経済格差が顕在化するほどの時間がたった。世界における日本のポジションも大きく変わっている。どう変わったかは言うまでもないだろう。

 本作の舞台設定は、キャラの意匠変更とともに大きなチャレンジだったはずだ。人間のつくった「国家」から独立した存在として、人間(人類)のために戦う正義の集団としてのゼロゼロナンバーサイボーグ。主題歌「誰がために」ではないが、誰の為に、何の為に、正義をなすのか――。ある時代のある社会で「正義」と言われる言動が、別の時代、別の社会では正義ではないことは往々にしてある。20世紀に追い求められた正義と、21世紀の今のそれは必ずしも同じではない。今この時代に“9人の戦鬼”がとるべき行動とは何か、しっかり設定しなおす必要がある。

 正義を求める過程には、大きな犠牲とリスクが求められる。そして、それに負けない強い心、強い組織が必要だ。反対や対立、邪魔といった障害を超え、一人では成しえないことを成すための強い組織が。ここで冒頭の疑問に立ち返る。現代において、世界の為に戦う組織のリーダーに、日本人が立つことの意味とは何か。

 本作で神山監督は、「なぜ009が、日本の島村ジョーが、世界各国から集まったサイボーグ戦士のリーダーなのか」について説明している。

 9人の出身国・地域(ロシア、アメリカ、フランス、ドイツ、アメリカ、中国、イギリス、アフリカ、日本)をみると、「なぜアメリカじゃいけないのか」という疑問は生じる。9人のうち2人はアメリカ大陸出身。経済的にもアメリカがリーダーシップをとってしかるべき、と考えることはできる。
 だが逆に、アメリカがリーダーになった場合に生じる問題点も少なからずあるはずだ。それは今の社会を見れば分かるだろう。だからこそ、日本なりのリーダー像があり得る。

 そう思いながら現実を見ると、暗澹たる気持ちになる。日本の外交、世界におけるポジショニング。決して、理想的な姿とは言えない。今の日本が、正義を追い求める上で世界のリーダーなれるかと問われれば、現時点では(残念ながら)消極的な回答しかできそうにない。

 しかし、そもそもリーダーとして他国をけん引する存在が求められるのは政治・外交の世界だけではないし、何もリーダーが必ずしも、“今のアメリカのようなリーダー”である必要はないだろう。この時代、今の世界の中で、日本がリーダーシップをとれるフィールド、とるべき形があるはずだ。

 失われた20年。不況と円高。そして3.11――。こうした苦難を経たいま、日本は明らかに活力を失っている。日本株式会社を支えた各種産業は輝きを失い、世界2位まで登りつめた経済分野での地位も失った。かつてのような経済大国として、世界1位という意味でのリーダーになるのは考えづらい。
 だからといって「これから日本はもうダメになるだけ」でいいのだろうか。日本ができること、すべきことがなくなったわけではないはずだ。20世紀の成功体験をそのまま再現できないからといって、「もう日本はダメだ」というのは、過去にとらわれ過ぎた考えだ。20世紀型のリーダーではない、今なり、日本なりの道を模索すべきだ。組織の構成員のまとめ方、リーダーのあり方だっていろいろのはずだ。

 本作は、「求めるべき正義とは何か」を考える良いきっかけになる。そして009、島村ジョーの姿は、「そのために自らがどうあるべきか」を考える良い材料になるだろう。

 たしかに彼のように万能の、絶対的エースとしてのリーダーになることは容易ではない。だが、突出した才能があるとは言えない高橋みなみも、AKB48の唯一無二のリーダーだ。そういう形もあるのだ。
 
 そう考えながら本作を鑑賞すれば、ジョーの立ち姿にすら感じるものがあるはずだ。組織の中でのリーダーとしての地位に固執することなく、自らが信じる「成すべきこと」をまっすぐに、自信を持って追い求める彼の姿を見れば、自信を失った日本がまず何をすべきか、そのヒントが感じられるはずだ。

* * *

 ところで本作は果たしてヒットするだろうか?
 私は原作漫画の熱烈なファンではないし、神山監督のファンなので、どうにも客観的な評価ができないのだが、原作漫画を読んでいた世代は、石ノ森ファン、009ファンかどうかは別としても、少なからず抵抗があるようだ。たとえば富野由悠季監督は試写後、「59.999…60点はつけたくない」といっていた。彼は原作のファンではないと言いつつも、「知っている」だけに「60点はつけたくない」といっていた。彼に限らず、そこの抵抗感は小さくないだろう。好き―嫌い、違和感覚える―覚えない、というのは世代で大きな差があるはずだ。そこを乗り越えられるかどうか。

私は10月27日に公開されたらまた観に行くつもりだが、それは「前売り券を買ってしまったから」ではない。

2012年10月18日木曜日

読むヒマないなら聴いちゃえば?――「耳読」っていいかも?




 最近マンガ以外でこんな本を買った。 



 このうち町山智浩さんの『教科書に載ってないUSA語録』(文芸春秋)は面白くてすぐに読み終わった。週刊文春の連載をまとめたものだが、やっぱりアメリカは面白い国だ。
 松谷創一郎さんの『ギャルと不思議ちゃん論: 女の子たちの三十年戦争』(原書房)も興味深く読み進めているのだが、ハードカバーで重いので持ち歩くのに躊躇してしまい、少しずつといったところ。
 福井健策さんの『「ネットの自由」vs.著作権: TPPは、終わりの始まりなのか 』(光文社新書)は読み始めたばかり。企画を考えていることもあって、買ってみた。
 清水良典さんの『2週間で小説を書く! 』(幻冬舎新書)は書店で面白そうだなと思って手に取ったのだが、“積ん読”状態……。

 このほかに、依然百合漫画を買い進めており、ついにアンソロに手を出し始めた。買ったまま読めていない本も少しずつ増えている。忙しくて本が読めないとか言いたくないが、なかなかゆっくりと本を読む時間が取れない。電車ではTwitterのTLとまとめサイトをサッと確認して、なるべく本を読むことにしているのだが、通勤・退勤の電車に乗っている時間はそう長くない。ほかにもTEDも観たいし、NHKの英会話も聴きたいが、このところできていない。帰り際に本を読むためにマックに1時間程度寄るなどということをするのだが、やはり追いつかず、もっと本を多く読みたい。読む速度はそうそう上がらないし、だからといって速読をしたいとは思わない。
 こういうのは本好きにとって永遠の悩みなのだろうなぁ、などと思っていたら、以前取材でお世話になったオトバンク会長の上田渉さんから新刊『「耳読(ミミドク)」で、もっと読めるようになる!』が届いた。
 正直、「朗読少女」は女の子のキャラが読んでくれるという点に抵抗があって使っていなかったが、新刊のサブタイトル「読書時間を3倍に増やす方法」には目を引かれた。



 要はオーディオブックで耳から内容を入れてしまおうというものだ。オーディオブックとは、音楽以外の聴くコンテンツのこと。それなら歩きながらでも内容に触れることができるので、便利かもしれない。
 そういえば自分も以前はPodcastでラジオ番組やネットで配信されている対談などを聴いていた。最近ごぶさただったが、たしかにそれも音楽以外の耳から入れるコンテンツではある。本書では勝間和代さんはじめ、耳読を実践している著名人のことも紹介されているが、彼女は昔、著書でオーディオブックを勧めていたことを思い出した。

 ためしにオトバンクのFebe!(フィービー)というサイトを見ると、「倍速版無料!!」とも書かれている。なるほど、読む(聴く)時間を短縮できるらしい。ベストセラーとして紹介されているコンテンツでは、『もしドラ』『夢をかなえるゾウ』『7つの習慣』などおなじみの(紙でも売れている)コンテンツが並んでいる。ジャンルもビジネス、自己啓発だけでなく、語学、文芸(落語など含む)などいろいろあるようだ。これは面白いかも。
 スマホやタブレットも普及してきており、オーディオブックを楽しむためのデバイスはたくさんある。まだ試していないのだが、試しにどれか聴いてみようと思っている(本書の購入特典として、人気オーディオブック12本の音源が一部が聴けるとのこと)。読むのと違って、頭への入り方がどうなのか心配もあるが、試してみないと分からないこともあるだろう。

 ただオーディオブックの制作は手間がかかるため致し方ないのだろうが、価格がもう少し安くなるといいな……などと思っていたら、ときどきCDを買っているNHKラジオの実践ビジネス英語は、FeBe!で買うほうが100円くらい安いようだ(パッケージ代の分安いのだろう)。今後はこちらで買うことにしよう。

2012年10月5日金曜日

人生に必要なのはパートナーであり、出会いは獲得し育てていくものだ――映画「最強のふたり」を観て

© 2011 SPLENDIDO/GAUMONT/TF1 FILMS PRODUCTION/TEN FILMS/CHAOCORP


差別たらしめるもの

 映画「最強のふたり」を観た。

 実話を下敷きにした作品だそうで、既に大ヒットしているのでご覧になった方も多いと思う。最初ポスタービジュアルを見て食指が伸びなかったのだが、Twitterで複数の人が勧めていたので観ることにした。今となっては観てよかったと思う。とても面白い、いい作品だった。

 話の筋はこうだ。

 大富豪のフィリップはパラグライダーの事故で首から下が麻痺しており、動かない。その介護役として採用されたのが、服役経験のある黒人青年のドリス。彼は失業手当をもらうため、就職活動をした証拠として、不採用になるために介護役の面接を受けたが、なぜか採用されてしまう。採用は不本意だったドリスだが、フィリップの挑発に乗り、自宅に居場所がないこともあって介護役を引き受ける。奔放なドリスはフィリップの障害にもお構いなしだが、フィリップはドリスを気に入ったようで、彼に影響されてどんどん変わっていく……。

(以下多少ネタバレします)

 本作は、主人公の2人の構図からして差別というものを意識せずにはいられない。金持ちで良識のある白人と、貧乏で粗野な黒人。辟易する人もいるであろう、ステレオタイプな設定ではある。そのフィリップは重度の障害を持っており、同性愛者も登場する。ナチスさえジョークで扱われる。差別イシューのオンパレードだ。

 言うまでもなく、差別は難しい問題だ(ことさら難しく考えよう、取り扱おうとする意識と行動こそが問題を難しくしているという指摘もあろうが)。問題として受け止めるほどに、自覚的になればなるほどに腰が引け、かえって(無自覚に)差別する結果となる。人との違い、自分との違いを単なる“違い”として、個性として受け止めるべし――などと言われるが、言うは易く行うは難し。ある言動を差別と考えるかどうか線引きは人によって異なるし、不快に感じる程度も人による。差別と認めながらも許す人もいる。一概にこうとは言い切れない部分が多すぎ、多くの場合、untouchableなマターとして取り扱われる。さわらぬ神にたたりなし、というやつだ。

 本作の魅力はドリスの人間としての魅力に尽きるのだが、彼は差別の対象となりえるものを特別扱いしない。いわゆる差別的な言葉を吐き、行動をとるのだが、彼はフィリップを特別扱いせず、自然に接している。常識的な大人であれば眉をひそめるような言動をしても、なぜかフィリップはそれを悪く思わない。その理由をフィリップは述べている。

 「彼は私に同情していない」――。

 同情と共感の明確な違いは知らないが、それは「可哀想」という感情の有無ではないかと思う。「可哀想」とは何なのか。自分を“上”に、相手を“下”にみて、それを押し付けることではないか。いくら自分が相手を「可哀相」だと思っても、相手は自分のことが可哀相だと思っているとは限らないわけで、勝手に優越感(罪悪感)にひたるのが同情だとは言えないだろうか。そしてドリスはフィリップや、その他、差別されるような境遇にある人に対して、そんな勝手な感情を持たないのである。

人間関係には様々な形がある。デリカシーが求められる、緊張感あふれる関係もあれば、気の置けない関係もある。お互いが相手に何を求めるかはそれぞれだから、人の組み合わせの数だけ、関係のあり方が存在する。
 その点ドリスは、相手に合わせて、相手の顔色をうかがって自分の対応を決めるようなことをしていない。自分のありのままを相手にぶつけている。相手がどういう状況、どういう考えであれ、また相手が自分を受け入れようが入れまいが、彼は変わらない。相手に受け入れられようとすることが必ずしも良い結果につながるとは限らないのだから、どうせなら気などつかわず、思うように振る舞えばよいのだが、そうできないのも人間の性、弱いところだ。
 
 私はドリスの素直さをとってもうらやましいと思った。おそらく自分なら、フィリップに気をつかい過ぎて、窮屈に思われ、すぐに解雇されてしまうだろう。何かにマジメに取り組むことを卑下するつもりはないが、それが必ずしも正解とは限らないのだ。彼はとても素直に、人と接することができる。彼には自分をカッコよく見せようとか、いい人と思われようとか、背伸びしようとする気持ちがない。その強さに憧れる。

出会いがないなんて嘘だ

 ところで本作のような“バディもの”は古今東西多数存在する。たとえば「48時間」、日本のTVドラマ「相棒」、女性なら「テルマ&ルイーズ」、アニメなら「TIGER&BUNNY」などがそうだろう。いみじくも今「夢売るふたり」という映画も公開されている。「ふたり」はアリだが、「さんにん」ではダメなのだろう(そういえばMARVELのヒーローにはバディものはない…アメリカ人の好みじゃない訳でもないだろうが……)。
 このように古くから「2人」の関係性をフィーチャーした作品は多い。その理由は、人は常に、信頼できる、運命のパートナーともいうべき存在を求めているからではないだろうか。

 いま結婚をする人が少なくなっているという。別にそれを咎めるつもりはないし、法律上の結婚という形式にこだわらないカップルが増えているだけかもしれない。婚姻数がどれくらい減っているか、なぜ減っているかは分からないが、もし減少が事実だとすれば、みな結婚していないからこそ、心のどこかでそうしたパートナーを求める気持ちがより強くなり、本作のような作品が一種の憧れ、うらやみの対象としてみられ、支持されるのかもしれない。

 「パートナー」が同性か異性かの違いは大きいだろうが、誤解を恐れずいえば、結婚した男女がいつまでも異性として相手を意識続けるわけでもなかろう。その意味では、同性であれ異性であれ、人は「運命のパートナー」を求めていると言える。積極的に探しているかどうかは別だ。心の奥底では、そういうつながりを、そういう関係を築ける人を求めている。それは結婚相手かもしれないし、本作のように介護者・被介護者という関係かもしれない。

 「さんにん」ではいけない。なぜなら3人になった瞬間に、自分が思う相手が、自分よりもう一人を選ぶかもしれないからだ。お互いに、相手は自分だけという状況になるには、「ふたり」でなければいけない。

 なぜ結婚する人が減っているのか、その理由はいろいろあるだろう。社会の変化に照らし合わせ婚姻制度に無理が生じている。コストがかかりすぎる。内縁関係がとやかく言われることがなくなった……。とはいえ、誰もが、「どうしても一人で生きていきたい」と思っている訳ではない。心のどこかでふれあい、寄り添うことを求めている。
 そうしたパートナーとの出会いは、自ら獲得しなければいけない。そして育てていかなければいけない。本作では偶然の出会いが2人をつないでいる。しかし、そこに至るまでに、フィリップは長年自分に注がれ続けた同情の目線に辟易しており、その状態が続くことに嫌気がさしていた。フィリップはドリスに出会う以前に、何人ものパートナー候補と会い、時間を過ごし、見切りをつけてきた。そして、冒険してみようと思った彼の一歩(ドリスの採用)が、図らずも最良のパートナーを見つけるきっかけとなった。ドリスを選んだのはちょっとした気まぐれだったのかもしれないが、その行為があってこそ、二人は出会えた。

 何も3.11以降の絆うんぬんをここで言いたい訳ではない。そもそも本作は日本でだけ支持されているわけではない。ただそうした関係を誰かと築きたいのであれば、出会いを獲得することをあきらめてはいけない。それに、「新たな出会い」にだけパートナー探しの機会を求めてもいけないのではないだろうか。既に出会っている誰か、すぐそばにいる誰かとの関係を見直し、大切にし、育てていくこと。それも運命のパートナーを見つけるために有効な手立てではないだろうか。
 「出会いがない」なんて嘘だ。「どうせ出会えない」と思っていれば、せっかくの出会いにも気づけない。既に出会えているのかもしれない。明日出会うかもしれない。その相手の存在に気づくためには、準備を怠ってはいけない。止めてはいけない。自分の心があきらめているのに、それでもビビッとくるような出会いがあるかも……なんて、あるはずがない。

 そういうことを考えさせられた作品だった。


* * *


 ところでこの邦題はどうにからなかったものだろうか。原題は『Intouchables』。英語でいえば「UNTOUCHABLE」。 ストレートな訳にするとちょっと重かったろうが、もう少し別の何かはなかったのかと思う。
 演出面では、一旦ドリスがフィリップのもとを離れるところの理由が分かりづらかった。描写がもっとあっても良かったのではないか。あとラスト。唐突にベースとなった実話の2人の画が出てくるが、肝心の本編のほうがブツリと切られた感じがした。本作で二人はどうなっていくのだろうか。やはりフィリップが言ったように、彼の介護はドリスの一生の仕事ではない、ということなのだろうか。であるなら、本作の下敷きとなった2人が今も一緒に居ることをどう評価すればいいのだろうか。たしかにドリスは介護の分野で仕事をしてきたわけではないが、作品としてのけじめのつけ方としては不満が残った。

 いずれにせよ、間違いなくEW&Fの曲が聴きたくなる。ダンスシーンでは涙がこぼれそうになった。