2014年12月14日日曜日

「事情」を言い訳にするのやめる!――『佐藤可士和の打ち合わせ』を読んで


佐藤可士和さんと野地秩嘉さん。

新刊を書店で見かけたらとりあえずチェックする名前。その両名が時をほぼ同じくして著した本のテーマが「打ち合わせ」だ(佐藤さんが11月、野地さんが10月)。今回は刊行直後に読んでそのままにしていた佐藤さんの新刊の感想をまとめておく。

2014年10月8日水曜日

練習なし、試合だけでは「うまくなりたい」素人は楽しめない――人が集まる社会人スポーツサークルの秘訣

素人の「上達したい」気持ちに、明るく前向きな雰囲気でこたえる




社会人がスポーツをするとしたら、ジムや教室に入会するか、どこかのチームに入るのが一般的だと思う。前者はそれなりにお金もかかるので、気軽に始めるなら後者だろう。社会人が集まってやるスポーツは往々にして、「集まって試合をやって終わり」という形になりやすい気がする。だいたい時間がない中で集まるのだから、「そんなに時間はかけられないよ」いう言い分も分かる。たしかに仕方ないのだけれど、素人は基礎練習をしないと、いつまでも大して上達しない。いくら楽しめればいいと思っても、やはりうまくなったほうが、いいプレイができたほうが楽しめるはずだ。

2014年9月8日月曜日

新潟のかっこいい11歳が一人でつくる新聞『別府新聞』



先日偶然、フジテレビの深夜で放送された第23回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品 『小さな新聞社 社長は11才』を録画して観た。新潟総合テレビ制作の番組で、新潟県十日町に住む別府倫太郎君(11)が一人でつくっているウェブ新聞の話だ。番組紹介をみたとき、「どうせ街のほのぼのネタかなぁ」くらいに思って気軽に録画したのだが、とんでもなかった。驚き、感心し、考えさせられ、そしてとても大切なことを思い出させられた気がした。嫉妬のような複雑な感情を抱いた。

リンク 別府新聞

倫太郎君は病気を抱えていて、薬の副作用などからいじめがきっかけで学校には行っていない。僧侶に自分の疑問をぶつけて「死と生」について語り合い、ジャズが好きでコラムを書き、吉本隆明・糸井重里共著の『悪人正機』が面白いといい、『暮しの手帖』や『ブッダ』を読み、「本質」について、「限界」について語り、病気は自分だから戦わない、戦うのは病魔だという彼。「学校に行っていない思想家」という別名を持つというが、まさに言い得た別名だと思う。

彼はまた「大人っぽい」とよく言われるようだが、それもうなずける。

今の彼をつくりあげた要素に病気があるのは間違いない。だから彼がいま作り出しているものや、周りを魅了する性格や生き方だけをみて「すごいなぁ」「いいなぁ」というのはあまりに無邪気だ。だから嫉妬などという言葉を使っていいものか……とは思いつつ、それでも唯一、無比であることにはやはりため息をつくほど感心してしまうのだ。

彼は知りたいと思ったことがあれば、取材に行く。大変だといいながら自分の言葉で感じたこと、考えたことを発信する。与えられた疑問や問題を解消し、乗り越えるのではなく、自分が生きていて感じた疑問や問題を、自分で解決しに出かけて行き、考え、答えを出し、また時には答えが出ないまま、文章にし、発信している。これはメディアのあるべき、理想的な姿の一つではないかと思う。

「こんなことやったらいいな」「面白そう」「あんなことが知りたい」「これはどうなっているんだろう」……日々暮らしていていろいろな疑問や気づきに出合うが、思って終わりにしてしまうことが多い。妥協せずしっかりと向き合い、形にすることを面倒がらない。簡単そうで難しいことだ。

彼の姿をみて生じた疑問の一つが、「教育はこうあるべき」という画一的な考えがあまりに広がっていはいないだろうかということだ。そもそも教育は何の為にしている(与えている)ことなのだろうか。

知りたいという欲求が生まれれば取材に出かけ、発信する行動力がある彼の日常をみると、学校すら必要ないのではないかと思えた。誰もが彼のように感じ、考え、行動することはできないだろうから、学校がなくなってもいいというわけではない。かく自分も、子どものころ同じことができたかといえば、絶対に無理だった。

いや、「子どものころ」と限定するのはカッコつけだ。今だってできていないと思う。

子どもに教育を与えるのが親の義務だとして、学校に行かないという彼の選択を受け入れ、かつ学校に行っていない彼が“しっかりと”生きている今を生み出している家族は、その義務を果たしていないと言えるのだろうか。また、自分が親として同じ立場に立ったとき、果たして本人の望む生き方を支えてあげられるだろうか。

番組を観て、思い出すにつけ、また別府新聞を読むにつけ、考えるべきこと、おざなりにしていた大切なことを思い出させられる。録画を観てすぐに別府新聞にアクセスし、TWやFBでフォローし、記事もいくつか読んだが、すべては読み切れていない。ザッと目を通して終わりではなく、読みながら考え、考えながら読みたいと思う。ポレポレと。



2014年9月2日火曜日

なぜ日本の家にはプールがないのか?

© ヒグラシホームプール

この夏、泳ぎの練習のため区のプールに何度か通ってふと思った。

「なぜ日本には自宅にプールがないんだろうか?」

2014年8月22日金曜日

ゾンビが走るという発想/bi●chを好きになってしまったら――最近観たビデオ「ドーン・オブ・ザ・デッド」「(500)日のサマー」

(C) 2004 Strike Entertainment Inc.

TVシリーズ「THE WALKING DEAD」もシーズン4まですべて観ているゾンビ映画好きなのですが、まだ観てない作品は多く、映画「ドーン・オブ・ザ・デッド」をようやく観た。

本作は1978年の「ゾンビ」のリメークだからか、リアリティに欠けるところが多い、ツッコミどころの多いB級感たっぷりな映画だった「そもそもリアリティって何だよ」という指摘はさておき。

2014年8月19日火曜日

思春期からの距離を測る――「思い出のマーニー」を観て

© GNDHDDTK

「ジブリっぽい」という言葉の定義をたとえば「ラピュタやナウシカ、千と千尋、ポニョなどのファンタジックでアドベンチャー感のある作品」とするとしたら、本作は「ジブリっぽく」はない。だから、「ジブリっぽい」ものを期待していって「裏切られた」という人が多そうな作品だった。うん、これは評価が分かれるだろうなと思った。

2014年7月31日木曜日

甲子園の過酷を汗と涙と美談で覆い隠すのはやめるべき

Webメディア「こむすぽ」に寄せる記事のネタとして、高校野球のことを書けないかと考えた。

© DX Broadrec


最近では、タイブレーク制の導入などの話が持ち上がり、ダルビッシュ有選手が学年ごとに投球回の制限をつけることを提案したことが報じられたが、少なくともそれくらいは必要だと思う。そもそも、春夏の甲子園は抜本的な改革が必要だ。

あの炎天下、連日試合をさせられ、勝ち残れば17−18歳の若者が100球も200球も投げた翌日にまた投げる……。それを汗と涙と美談というフタで覆い隠すのは時代錯誤も甚だしいと思う。

こういうことを書くと、「高校球児の夢を壊すのか」とでも言われそうだけれど、何も甲子園なんかやめてしまえと言っているのではない。一高校スポーツにしてはマスコミで取り上げられ過ぎな気もするが、そこで活躍した選手はプロ野球選手になることも多いし、プロ野球は依然大きなビジネスなわけだから、大きく取り上げられるは仕方ないだろう。人気や注目のネタは大きく取り上げられるものだ。いくらマイナースポーツが不平等を訴えたところで、そもそも平等である必要もない。

だが、それこそ「肩を壊してでも投げる」というようなことを美談にしていてはいけない。子どもを教育し、指揮管理する責任のある大人まで一緒になって、汗と涙で目を曇らせてはいけないと思う。甲子園大会の期日をのばせば、球場や阪神タイガースの興行に影響があるのだろうが、それは結局大人の都合だろう。

延長回数の制限やタイブレーク制の導入という話がでたのもいい機会だから、高校野球ファンこそ考えて、ファンとして声をあげてもいいのではないだろうか。

ところで、この話を考えていてちょっと気になって高校球児の数を調べてみたら、意外なことが分かった。少子化で子どもは減っているのに、高校球児は増えているのだ。

文部科学省の公表による高校の生徒数は、H25年度(2013年度)で332万人。一番多いときで平成元年度(1989年度)の564万4000人。その次に多いのが昭和40年度(65年度)の507万4000人だ。一番多い時の6割くらいにまで減っている計算になる。

出所:文部科学省

しかし日本高野連の硬式野球部員数統計によると、最新の2014年5月現在で17万人、ウェブサイトで公表されている最も古いデータで昭和57年(82年)の11万7000人だ。この間、右肩上がりで増えたわけではないが、増減を繰り返しながらも緩やかに増えている。また、高野連の加盟校も3488校(82年)から4030校(2014年)に増えている。

出所:日本高野連ウェブサイトデータより作成

文部科学省のデータは昭和23年度からと古いので、高野連が公表している昭和57年以降のものだけカットしてみるとこうなる。
高校生は減っているなかで、球児が少しずつ増えていることは分かる。

高校生の数がすなわち15-18歳の男女の数とは限らないまでも、これはなぜなのだろうか? 識者や専門家の意見を調べてみたい。