2015年5月4日月曜日

「独りで考える=オリジナル」ではない。新しいものを生み出し続ける方法とは――川上量生著『コンテンツの秘密』を読んで

アリストテレスがいう「異なるコンテンツ」と認められる要素

「メディアの輪郭」で紹介されていた川上量生さんの『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』(NHK出版新書)を読んだ。川上さんのジブリプロデューサー見習いとしての卒論とのこと。丁寧な検証がよくまとまった構成になっていて分かりやすく、川上さんだからこそ聞けたこと、視点があって、参考になる箇所がいくつもあった。




全編を通して検証しているのは、「コンテンツ」とは何か、それを生み出すクリエイターのアプローチ・方法、オリジナリティがどうして生まれるのか、といったこと。
これらを検証するために第1章で「コンテンツ」の定義をしている。そこではアリストテレスの『詩学』から引用している。

叙事詩と悲劇の詩作、それに喜劇とディーテュラムボスの詩作、アウロス笛とキタラー琴の音楽の大部分、これらすべては、まとめて再現といえる。しかしこれらは三つの点、すなわち、(1)異なった媒体によって、(2)異なった対象を、(3)異なった方法で再現し、同じ方法で再現しないという点において、互いに異なる。 (アリストテレース『詩学』岩波文庫) 
これは、コンテンツ(再現)について、(1)メディア(2)対象(3)方法のどれかひとつでも異なれば、別々のコンテンツだといっているのです。 (p38)

不遜を承知でいうと、先日、記事を書くうえで、何を、どこに、どう書くかを考えておくべきだというエントリーをアップしたばかりだったので、まずこれがとてもいい整理、出発点になった。

いいものがウケるのか ウケるものがいいのか


いわゆるクリエイティブな業界にいると、「いいものをつくっても受け入れられない」という言説が必ず聞かれる。「売れるものがいいものだ」「売れなくても、いいものを作り続けることが大事だ」という論争には終わりがない。

そこで本書において一つの視座になったのが、「音」にまつわる話だ。

ドワンゴが着メロで成長した話は知っていたが、なぜドワンゴの着メロが支持されたのかという話は初めて読んだ。 簡単に説明すると、ドワンゴは主なユーザー層の一つである高校生にとっての「いい着メロ」の定義が「音の大きさ」ということをつきとめ、まず音を大きくした。「音が割れるぐらいに音圧を挙げて主旋律を鳴らし、伴奏の音の数は絞った」(p130)という。ただそれだけではほかのサイトも真似するので、これ以上音量が上げられないところまでいったところで差別化した方法は、「違う楽器の音を同じ音程で同時に鳴らして、音を重ねることによって音に厚みを持たせるというテクニック」(p129)だった。

ただ音の専門家にとっては質の高い着メロとは受け止められず、「音が割れていませんか?」と必ず最初に指摘されたそうだ。それでも、ユーザーが支持するものをよいものだと考えて提供し、結果的に会社を急成長させている。もしかしたら社長がクリエイター気質ならその決定はできなかったかもしれない。

この話の前に、ビーイングの長戸大幸さんから聞いたという話が紹介されている。それはボーカルの一番重要な要素が「歌詞がはっきりと聴き取りやすい声質」ということ。そして、ビーイングのアーティストがミリオンヒットを連発した秘密のひとつが、「曲に比べてボーカルの音量を大きめのバランスに設定したこと」(p125)だったとのことだ。

これらドワンゴの着メロとビーイングのアーティストの話を受けたうえで、こうまとめる。

コンテンツのつくり手側の人たちは、プロであればあるほど、とかく「本物」を届けることにこだわりがちです。しかし、長戸大幸さんがボーカルの声の聴き取りやすさを重視した例や、ぼくらの着メロサイトが音圧を上げることで支持された例のように、一般の消費者のなかでも感度の高い人たちこそ、プロやマニアが軽視しがちなコンテンツの原初的な特徴の「分かりやすさ」を求める傾向があるというのは、真面目に受け止めるべき事実であるようにぼくは思います。(p131)

これはまさにその通りだ。
こだわりを持つなというわけではないし、どの層にどの程度受け入れられる必要があるのかにもよるのだが、あまねく広く受け入れられたいのなら、自分の矜持がつまらないこだわりではないか、よくよく検証してみるべきなのかもしれない。

一方で、まったく逆の「コンテンツは分かりそうでわからないものがいい」という点に触れている。そこで紹介されているのは、宮崎駿監督がスタッフに指示した「上手な線を描くな」「なめらかな線を描くな」という話、エイベックス松浦勝人さんが曲の制作をディレクションするときに、わざと「ノイズ」を入れるよう指示して、ありきたりなパターンに変化をつけるという話。そして、中島梓(栗本薫さん)の、わざと読みにくい文章、悪文を入れるという話などだ。

分かりやすさが求められる一方で、ただそれだけではいけない。それもまた同様にうなずける。
これは以前テレビ番組で、GLAYのTAKUROさんがマキタスポーツさんと対談したときに、皆がいいというものを作ったら売れるならアンケートをとって作ればヒットができるけど、決してそうはならない、という話をしていて、ちょうどこの本を読んでいる最中に録画を見たので、重なる話だなと思った。

分かりやすいベースをつくり、そのどの部分に、どのくらい、どういったわかりにくさを入れるかということは、オリジナリティであり、コアなファンをつくる要因なのかもしれない。

そして本書の終盤、クリエイターが新しいものを生み出し続けるための方法も紹介している。これは、「あぁ、それでいいんだ」とホッとした話でもある。

人間の脳は新しいものをつくるのは基本的に苦手ですが、新しいものを見て、良いか悪いかを判断するだけであれば得意です。なので実際には、ランダムに試行錯誤した結果を自分の脳で判断して良いか悪いかを決めているのだと思います。 そうすると、その試行錯誤のプロセスだけを、誰か別の人にゆだねるという戦略が生まれます。 最初のアイデアを誰かに考えてもらうのです。自分で試行錯誤をするよりも他人に試行錯誤をしてもらったほうが、自分にはつくれないヴィジョンのパーツが手に入りやすい、つまりインスピレーションが湧いてくるのです。 
こういった作品のつくり方は、ぼくが知る限り、かなり一流のクリエイターでも使っている、というよりむしろ、一流のクリエイターほど使っている手法のように思います。 ゼロからコンテンツを生み出すのは大変なのです。そのきっかけをつくる方法として、他人のアイデアを否定して、使えそうな部分だけを取り込み、自分のヴィジョンを固めていくという作業をおこなっている人は多いように見えます。 (p213)

数々の一流クリエイターと接してきた川上さんがいうのだから間違いなさそうだ。「オリジナル」「クリエイティブ」であるために、一人で考えようとしがちだが、その必要はないのだ。

もちろん、それはインスピレーションを湧かせられるアイデアを出してくれる仲間が必要だし、そうした仲間から認められなければいけないということでもある。

「コンテンツ業界」に身を置く者として、具体的に仕事に役立てたいと思える学びもいくつかあった。だが「クリエイティブ」な働き方は、アニメや映像、雑誌やウェブメディアでつくる仕事をしている人でなくてもできる。そうした意味で「コンテンツ業界」に身を置く人以外でも参考にできる一冊だと思う。