2013年10月11日金曜日

「円谷」の名の責任――円谷英明『ウルトラマンが泣いている 円谷プロの失敗』を読んで



制作費の相場は200万。局から破格の550万もらいながら1000万もかけて番組を作っていた

 特撮の神様・円谷英二氏の孫、円谷英明氏の『ウルトラマンが泣いている――円谷プロの失敗 (講談社現代新書)』を読んだ。帯にも「なぜ創業者一族は追放されたのか」とあるように、要は円谷プロにおける一族の内紛の裏側が、筆者の立場から描かれたものだ。自分は熱心な特撮ファンというわけではないので、「あのスーパーヒーロー・ウルトラマンをめぐり、円谷プロの内部や周囲ではこんなにもいろんなことがあったのか」と大変興味深く、一気に読み終えた。
 章タイトルを読むだけでも興味をそそられると思う。

 第一章 円谷プロの「不幸」
 模型作りが大好きだった祖父/四一歳で早世した二代社長 ほか
 第二章 テレビから「消えた」理由
 東宝主導のリストラ/「ウルトラマン先生」の無謀/TBSとの関係悪化 ほか
 第三章 厚かった「海外進出」の壁
 問題は「同族経営」ではない ほか
 第四章 円谷プロ「最大の失敗」
 遅すぎたウルトラマンランド閉園/偉大なるマンネリではいけなかったのか ほか
 第五章 難敵は「玩具優先主義」
 デザインは玩具優先に/圧倒的だったバンダイの影響力 ほか
 第六章 円谷商法「破綻の恐怖」
 番組予算のからくり/ハワイやラスベガスで豪遊 ほか
 第七章 ウルトラマンが泣いている
 三度目のお家騒動/急転直下の買収劇/円谷一族追放 ほか

 1974年生まれの僕にとってのウルトラマンの記憶といえば、幼稚園のころ、エースやレオが好きで、仮面ライダーごっこではなく、ウルトラマンのお面を先生につくってもらって遊んだこと。あとは小学生になってから80や、アニメのザ・ウルトラマンを観ていたことくらいだ。特にお面を作ってもらったときすごく嬉しかったことを覚えている。円谷つながりの記憶では、これも幼稚園のころ、ゴジラの大ぶりな人形が雑誌の懸賞で当たったことを覚えている。

 また、これは数年前のことだが、編集長を務めていた雑誌FJのリニューアル2号でウルトラQを取り上げたことがある。その時はスタジオを借りてカネゴンに来てもらった。Qのファンを公言しておられた宮台真司さんに登場いただき、表紙にも出てもらったカネゴンと宮台さんの2ショットを中吊りで使わせてもらった。特集では、円谷プロの造型師である品田冬樹さんと宮台さんの対談、桜井浩子さん、イラストレーターの開田裕治さん、モリタクさんらのインタビューを掲載した。



 その当時も、円谷プロの窮状については噂では聞いていた。ちょうどフィールズの傘下に入った関係で渋谷に引っ越したころだったように思う。

 本書を読んで思ったことは、「これでは経営がうまくいくはずがない」ということだ。
 もちろん、そうした評価を後からするのは簡単だし、放逐された創業者一族が書いた一面的な見方であることも忘れてはいけない。しかし、その分を差し引いても……と思わずにはいられないほど杜撰なものだった。

 途中、「問題は同族経営ではない」という見出しがあり、「おいおい」とツッコミながら読み進めると、筆者はこういう見解を示していた。


円谷プロの経営の問題は、同族経営ではなく、ワンマン経営にあったのです(p.88)。

  たしかにそうなのかもしれない。そう思ってしまうほど、過去の社長に対する評価は厳しい。本書の言い分が正しいとすれば、「そりゃ破たんするわ」というようなありえない経営、どんぶり勘定ぶりだ。特に経費の無駄遣いはひどかったようだ。

 しかし、それだけで経営が傾いたわけでは決してない。

 制作にコストをかけすぎなのだ。ともすれば作り手の満足のために、コストを考えずにものづくりに没頭できる環境ができてしまっている。
 制作者の「手を抜いて作るのは視聴者に失礼だから手なんか抜けない」という気持ちは分かる。「作り手として自分が満足できるものを作りたい、でないと伝わらない」という言い分も分かる。しかしサークル活動じゃないんだから、そんな状態で続けていていいはずがない。たとえば「1000万もらって3000万使うけど、あとで儲かるから大丈夫……」なんてことがずっと続くわけがないのだ。

 見出しにも書いたが、30分の子ども番組の制作費が200万円が相場で、大人向けのドラマが500万円という時代に、円谷や550万ももらっていた。それだけ期待がかかっていたというわけだが、1000万近くかけて作っていたというから、そりゃもう大変なことである(p.33)。
 筆者はまたこうもいう。

円谷プロの経営陣は、伝統的に実業界の集団ではなく技術者集団で、経営感覚はあまりなかったと思います。

 そう、だからこそ外部の経営者が必要だったはずだ。
 筆者が「問題は同族経営ではない」とした理由は経営問題の背景について、筆者はこう説明している。


 その原因は同族経営にあると言われているのですが、私はこれに異論があります。一九七三年に叔父の皐さんが三代社長に就任し、皐さんの死後、四代社長には息子の一夫さんがなっています。その間、我々円谷一の家族は、円谷プロの経営の中枢には関与できなかったのです(p.87)。

 たしかに円谷英二氏の長男である一氏(二代社長)の子ども(二男である筆者ら3人)が中枢にいられなかったのは事実なのだろう。しかし一氏の家族が経営の中枢にいたからといって成功していたかどうかは疑問だ。

 円谷英二は特撮の神様だった。それは間違いない。
 しかし名経営者だったわけではない。
 そして、特撮の神様の子どもや孫が同じ分野で秀でているとは限らない。経営にたけているとも限らない。
 円谷英二という不世出の天才を活躍させる場としての円谷特殊技術研究所は不可欠な舞台だったのかもしれないが、その組織の持続と成長を、子孫に任せることには何の意味もない(というといいすぎか。大した意味はない)としか思えない。どうだろうか。
 それは何も円谷、映像ビジネスということに限らず、企業の事業承継において言えることなのだろうけれど。

 筆者は同じp.88にこうも書いている。


私は円谷エンタープライズや円谷コミュニケーションズに出ていた間、いずれ必ず円谷プロに戻って、かつての円谷プロのものづくりスピリットを取り戻したいと思っていたので(後略)

 この「ものづくりスピリット」は曲者だ。
 気持ちの問題に置き換えると麗しく聞こえてくるのだが、熱い気持ちがあるからといって成功するとは限らない。また「ものづくり」という言葉が出ると、聞こえがよく、専心することが麗しい、美しいことのように思えてしまう。
 だが芸術でもないのに、コストを湯水のようにかけ続けてはいけない。やる気と情熱は、必要条件だが十分条件ではない。熱い気持ちと冷静な判断力がなければ、いいものを作っても届けることができなくなり、やがては作れなくなってしまう。

 といいつつも、同情してしまう側面もある。
 筆者によれば1971年のキャラクタービジネスの売り上げは20億円で、円谷プロには収入として6000万入ってきたという。本書には「著作権ビジネスという麻薬」という小見出しもあるが、まさに感覚を麻痺させるには十分な大金といえる。「いま作るのにお金がかかっても必ず回収できる」と思ってしまっても仕方ないのかもしれない。
 それに日本は今と違って成長期にあった。消費が増えていくことも予想されていたのだとすれば、イケイケになってしまった当時を今から責めるのはさすがに気が咎める。

 たらればの話をしてもせんないのだが、筆者ら一族の一部が中枢にいたからといって成功したのだろうか……。
 筆者が書いた以下の文は残念ながら認めざるを得ない。
 
ウルトラマンが泣いているーー今にして思えば、現実の世界でウルトラマンを悲劇のヒーローにしてしまったのは、我々円谷一族の独善か、驕りだったのでしょう。


* * *

 本書の引用で面白いものがあったので合わせて紹介したい。庵野さんが特撮の将来を憂いて(?)語ったものだが、その通りだと思った。


特撮物はテレビでの空白期間が長すぎて、現状では若者に定着しづらいんじゃないですかね。(中略)空白期間が15m年近くあるわけで、これはなかなか取り返しがつかないと思います、今の30歳から20歳くらいまでの人は、特撮には何の興味もないですからね。(中略)僕等のせいだはアニメと特撮という共通体験があるんですけど、今の若い人はアニメとゲームなんですね、共通言語が。特撮をほとんど見ていない、というか興味もない人がほとんどです」
庵野秀明(2001年、 『円谷英二 生誕100年』、河出書房新社)

 特撮ファンではないといったが、特撮は好きだし、もの作りに従事している人たちには頑張ってほしいと思うし、日本の特撮業界、そして円谷プロには再び輝いてほしいと思った。