2013年3月6日水曜日

捨てること・捨てられることを恐れない


 何年か前、会社の口座に見知らぬ名前からの入金があった。

 自分が自社商品の販売サイトの制作担当者だったため、当時の総務担当者から問い合わせされたのだが、入金予定のリストに名前はなく、心当たりもない。少額だったが放置するわけにもいかないので調べることにした。詳細は覚えていないのが、振込者のメールアドレスが分かっていたので、そのアドレスから会社名を類推し、その会社のサイトを検索。代表者を突き止め、苗字などを確認して、おそらくその某企業の関係者からの振込であろうことを予想し、総務担当者から連絡をとってもらったところ、その通りだった。

 与えられた条件は同じだったが、その総務担当者は見つけられず、自分は見つけることができた。何もこんな些細なことで威張るつもりはなく、言いたいのは、「見つけたいものを見つけられるか」能力が重要であるということだ。

 たとえば、仕事で調べ物をしたいときに、Googleの検索窓にまず何と入れるか。第二検索ワードを何にして絞り込むか。そこで検索のセンスが問われる。通常、ネットで検索する時は一人で作業をするもので、上司や同僚に検索の結果分かったことや分からなかったことを報告することはあっても、「何と入力して検索したか」を伝えることはあまりない。だから皆、自己流の検索をしているのだが、実はその瞬間、瞬間に大きな差が生まれている。時間がかかっても欲しい答えにたどり着けばいいという考え方もあるが、時間というコストもなるべくかけないほうがいい。ある人が10分で見つけられる結果に至るのに30分かかっていてはダメだろう(付加価値はここでは問わない)。

  この検索のセンスは実は非常に重要だ。モノと情報があふれかえっている今、個人レベルであらゆる情報を保有し続けようとするのはナンセンスだ。欲しいモノを欲しい時に引っ張ってこれればいい。まさにそれがクラウドの世界なのだろう。必要なデータだからとPCのHDDに入れ続けていれば、限界がそう遠くないうちにやってくる。それはローカルのHDDかネットワーク上かという違いではない。

 
『その検索はやめなさい』(苫米地英人)

 ところで最近、「デスクの上になるべく物を置かない宣言」をした。
 単純にキレイなほうが仕事しやすい、仕事したくなる、カッコいいという動機もあるのだが、とにかく机の上は可能な限りきれいな状態で保っておこうと思っている。

 これまで「何かの役に立つかもしれない」とプレスリリースやフリーペーパー、チラシ、雑誌、書籍、スクラップなどはなるべく入手、保管してきたが、「持っている」というだけで安心してしまって有効活用できていないことを反省した。ちょうど会社を移転することになり、これを機会に新しいオフィスでは机上に物を置かないようにしようと考えた。保管していた資料を厳選、使わなかったものは捨て、「使うかもしれないなぁ」程度のモノも廃棄。デスク周りに置いていた私物も自宅に持って帰るなどして、引き出しの中も整理した。必要な資料は別のラックに入れるなどして、とにかく机の上には物を置かないようにしようと思っている(実は背後の棚には整理しきれていないモノがまだ積まれているのだが)。

 この「持っているだけで安心してしまう」という点は強く反省しなければいけない。持っていることが重要な、たとえば複製では意味のない資料や特に思い入れのあるモノはともかく、そうでなければ何も持っている必要はないのだ。デジタルのデータにして保管しておくこともできるし、ネットを調べればたいがいのものは見つけられる。

 そういえば会社を引っ越した日、旧オフィスで使っていた古いビジネスフォンの設定を業者にやってもらったのだが、その業者はマニュアルをスマホでネット検索して設定していた。一方で退職者の共有ファイルを整理していて、ビジネスフォンのマニュアルが丁寧に保管されているのを発見した。おそらく以前の引越しの時に入手して、そのまま保管していたのだろうが、その3.8メガのPDFはずーっと使われないまま共有フォルダのメモリを食っていたわけで、そんなもの、とっとと捨ててしまってよかったのだ。



『見てわかる、「断捨離」』(やましたひでこ監修)

 「断捨離」という言葉がはやって久しいが、持っているだけで安心してしまうことを戒め、要らないものは持たない。持っていなければいけないもの、持っておきたいもの以外は持たない。そうすれば、持っているものは必要なものだと分かるし、必要なときに必要なものを見つけ出す能力も高められるようになるだろう。

 それは人間関係も同じだ。自分で何でもできる必要はなく、欲しい能力を持っている人とつながることができればいいわけだ。また「何かの役に立つかもしれない」と薄い人間関係を保ち続けることにも、ほとんど意味はない。嫌われたくない、知り合いは多いほうがいいといった気持ちから、人間関係を断つことにも消極的だったが、これからは意識して絞り込みをしていこうと思う。もし将来「あの時関係を継続していればよかった」という時があったとしても、それは自分の選択と甘受するよりほかはない。ただ「すぐに役に立たない関係=不要な関係」ということではないし、「役に立つかどうかではなく関係を保ち続けたい」と思える人との出会いを大切にするということでもある。 逆に自分がそういう(捨てられる)対象になるということでもあるのだが、そんなの別にいい。「関係を保ち続けたい」と思っている相手から、そう思われる自分であるよう努力は一層していこう。

 今さら感もある内容だが、改めてこのタイミングでエントリにすることで、デスク上の整理整頓について有言実行のプレッシャーをかけておこう。


 

2013年2月25日月曜日

将来はアニメ・映画をつくるかプログラマーになりたい田舎の12歳男児(彼女ナシ)だったーー映画「ムーンライズ・キングダム」を観て


消しゴムに赤いペンで好きな子の名前を書いた


 小学6年生の時、卒論を書かされた。
 
 担任の女性教師の発案だったので自分のクラスだけで、自分はたしか徳川家康について調べて書いたと記憶している。表紙には葵の御紋を描き、その影響で卒業アルバムの寄せ書きに「天下泰平」と書いた(いやはや遠い目、薄目でしか見られない思い出だ……)。当時好きだった子がいて、時々だったか頻繁にだったか覚えていないが、男女数人で一緒に下校していた。こう書くとリア充ぽいが、別にそんなことはなくて、特に付き合ったりデートしたりしていたわけでは決してない。消しゴムにこっそりその子の苗字を赤字で書いて、バレずに最後まで使い切ったら思いが実るというおまじないをやってた、ウブな男児だった。その子に成人式の時に再会して「会うんじゃなかった」というのも今になってみればいい思い出なのだけれど、とにかく当時は普通の田舎の男の子だった。
 
 小学6年生は、田舎の子どもが将来について考える最初のタイミングだったと思う。5年くらいから社会科の授業で歴史や政治についてちょっとかじり、社会の仕組みについて触れるようになった。もうすぐ入学するはずの中学では、定期試験で順位がつけられることになる。高校入試も数年後に控えている。小学高学年の頃のテストの結果で、何となく地元の進学校に進むであろう友達も分かった。ずっと一緒だった友達とももうすぐ別れ、学校はバラバラになってしまう。僕が行った中学校は複数の小学校から生徒が集まるところだったこともあって、中学進学を前に「いよいよ人生が動き出すんだ」という予感が何となくあったように思う(そんな大げさな表現は頭のなかにはなかったけれど)。

 将来なりたいものもいくつかあった。昭和49年の早生まれである自分が、ちょうど6年生の時に「アリオン」が公開された。幼年時代に観た「ドラえもん のび太の恐竜」などを除いて、初めて 「アニメ」というものを意識してみた作品だったと思う。「ウイングマン」もアニメ化された。それらの影響か、アニメをつくる仕事に憧れていた。絵が得意でイラストを描くクラブだかに入っていて、アリオンの絵を描いた記憶もある。また映画「グーニーズ」も人気で、「映画をつくりたい」と漠然と考えたりもしたし、PC-8800シリーズやMSXやファミコンも人気で(僕は持っていなかったけど)、プログラマーにも憧れていた。


 大人になると、「子どもの頃は悩みなんてなかったなぁ」と思ってしまう。だけど『Papa told me』で知世ちゃんも言ってたと思うが、そんなことは決してない。子どもは子どもなりに真剣に悩み、真剣にもがいている。大人からみれば大したことないかもしれないが、子どもは子どもなりに真剣だ。自分の小学生時代を思い起こせば、大した悩みなんかなかったように思うが、当時は真剣にいろいろ悩んでいたのだろうと思う。

逃げる2人が12歳である理由


 映画「ムーンライズ・キングダム」の主人公は12歳の男女だ。2人が運命的な出会いをし、二人で逃避行をするハートウォーミングなコメディ・ドラマだ。いい映画だと思うので、是非映画館で観てほしい。

 少年少女の逃避行といえば「小さな恋のメロディ」 だが、これも主人公たちは11歳くらいだろう。この時期が選ばれる理由はいくつかあるだろうが、11ー12歳くらいの女の子が持つある種独特の魅力もその一つではないかと思う。

 断っておくが、僕はこれくらいの世代の女の子に性的な意味での関心はない。
 しかし第二次性徴が始まる頃、ティーンになる直前くらいの女の子が持つ魅力というものはあると思う。そのタイミングでしかない、はかない美の魅力があり、被写体として取り上げたくなるのはよく分かる。例えば僕は奥菜恵さんが好きだけれど、彼女の代表作はやはり「if もしも〜打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」だと思う。岩井俊二監督が演出したこのTVドラマ当時、彼女は11歳くらいのはずだ。

 こうした世代の、大人への階段を登り始めたもののの独り立ちはできない子どもたちが、大人から与えられた世界に息苦しさを感じて逃げ出したくなるのは、ロジックとしても理解できる。もう数年たってしまうと、今度はもう大人といってもおかしくないので、生々しくなってしまうということも、この世代が選ばれる理由としてあるだろう。

  本作のヒロイン、スージー(カーラ・ビショップ)は、例えばトレイシー・ハイドとくらべて大人っぽすぎる感じはするし、「ちょっとHだなぁ」と思えるシーンもなくはないのだが、彼女のコケティッシュな魅力がそれをギリギリカバーして、観られるものにしているようにも感じた。

 こうやって書いたものの、何も彼女の魅力だけがこの作品の良さだということを言いたいわけではない。彼女が逃避行の相手に選んだ男の子は、冴えないメガネのいじめられっ子だった。本作を観た世の多くの男性は、彼に自分を重ね合わせて「12歳のときにあんな出会いがあったらなぁ」と思うのではないだろうか(主人公は冴えない感じとはいっても、スカウトだからキャンピングの能力が一応ある。抜けたところもあるけれど全然頼りにならないわけでもない)。

 ただ子どもの駆け落ちがうまくいくことなんてほとんどなく、本作でも2人も逃げ出せない。リアリティのある映画やドラマで若い2人が駆け落ちしようとすると、「ワクワクして逃げ出すけど、そう遠くないうちに連れ戻されるか、どちらかが逃避行に疲れて戻りたくなってしまうんだろう」という醒めた見方をしてしまう。

 本作でも2人は最終的に逃避行を成功させられないが、恋まで終わる訳ではない。どういう結末になるかは書かないが、ふつうに考えればハッピーエンドといえる終わり方だ。

 だが僕は、果たして2人の将来が幸せに満ちあふれているのだろうか?と思ってしまった。2人が逃げ出したのは、お互い惹かれ合って一緒にいたいと思ったからで、そのためには逃げるしかなかったのだ。だがむしろ「今の場所から逃げ出したい」という理由も大きかったはずだ。もしかしたら人生を変えるきっかけを、相手に、出会いに求めていただけではないだろうか。それに、おそらく数年後には、周りに気兼ねなく2人で関係を築くことができるはずだが、その間に2人は大人になっていく。登場人物の限られた、島が舞台の本作ではライバルなど出現しないかもしれないが、それでも考えは変わっていくはずだ。いろいろ経験するはずだ。その頃まで2人が、確認し合った気持ちを持ち続けられるのだろうか……。

 本作の場合は、”箱庭の中での出来事”(作り話)であることをつよく演出で打ち出している。だから、そんなことを問うのは無粋・ナンセンスなのかもしれない。そんなこと考えずにただヒタればいいのかもしれない。深夜アニメには主人公が学生の作品が多いが、それらを楽しむのと同じように、「自分の学生時代もこうだったら良かったなぁ」とちょっと切なくなりながらも、まぁとにかく楽しめばいい。

 それでも、”消耗品である”男の立場からすれば、好きな女の子とずっとその関係が続けられるのか、彼女を幸せにできるのか、2人で幸せになれるのかと不安にならずにはいられない(「男が女を守る」なんて時代錯誤、女性蔑視だといわれるかもしれないが)。主人公に自分を重ねればなおさらだ。

 大人になるにつれ、昔は持っていたはずの考えや、感じていたもの、気持ちは次第に忘れてしまう。人間は忘れるからこそ生きていけるともいうが、そうはいっても忘れたくないものもある。だが形のない思い出や気持ちは、いつまでも同じというわけにはいかない。相手があることなら、なおさら関係が「変わってしまう」リスクは小さくない。

 ハッピーエンドを迎えた彼らの将来を不安に思うことが、自分が大人になってしまった理由だろうかと思うと、ちょっと寂しい気がするが、本作の2人は、たとえ出会った時と同じ気持ちを持ち続けられないことが分かっていても、この先何が起きようとも、出会ったことを、そして2人で逃げようとしたことを後悔しないだろう。そうあってほしい。

「自分が12歳の頃にあんな出会いがあったら……」と思わずにいられない、切ない作品だった。

 

2013年2月20日水曜日

「やるやる詐欺」は被疑者も被害者も自分だ

アウトプットの機会を自ら作ることの意義


「やればできるのに」は 「やらずに先送りしていれば、本当はできないかもしれない現実を突き詰められなくて済むということなんだよな」−−。

 先日、セルフブランディングに関する取材をして、こんなことを思って反省した。

 話を聞かせてくださった方が、「アウトプットの機会は無理にでも作ったほうがいい。機会があると強制的にインプットするようになるし、意見をもらえるようになったり知り合いも増えたりする」とおっしゃっていて、しごくもっともだと思い、同時にギクリともしたのだ(記事が未公開なので取材の詳細は伏せる)。

 ここでいうアウトプットは、何も本や雑誌の記事を書いたり講演したりという大げさなものでなくてもいい。ブログを書くのだっていい。何かをインプットしたら、せっかくだからアウトプットしたほうがいいというのはもっともだと思う。しかしそれは「言うは易く行うは難し」で、続けることは難しい。自分もそのハードルの高さを感じている。、このブログのエントリの頻度が下がっていることがそれを証明している。

 だが自分にも書きたいテーマ、調べたい、詳しくなりたいテーマがいくつかある。以前からあるテーマもあれば、最近思いついたものもある。特に思いついたばかりのあるテーマは、大変そうだがやりがいも意義もあると思っている。ならすぐにでも書き始めればいいのだが、つい「このブログ(書きながら考える、考えながら書く)にはテーマがあわないので別ブログにしたほうがいいだろうなぁ」「ちゃんとインプットをある程度して恥をかかないようにしてから始めたほうがいいよなぁ」と思い、始めるのをためらっていた。

 そこで気づいたのは、これではやるやる詐欺ではないかということだ。この詐欺は被疑者も被害者も自分だから、余計にたちが悪い。四の五のいわずに書けばいいわけだから、まずは始めよう。このブログの更新頻度を上げつつ、書きたいテーマについては別のどこかで早々に書き始めたいと思う。

2013年2月18日月曜日

経済・金融の専門家ではない立場からの書評『日本人はなぜ貧乏になったか?』(村上尚己著)

経験はないが、いい記者が持っているモノ

 


 記者は専門家ではない。

 テーマによっては専門家に負けない知識が求められることもあるし、専門家ではないことを準備不足の言い訳にしてはいけない。だが基本的には「専門家ではない」からこそ、専門家に取材して記事を書く。記者は、時間を割いてくれる相手に失礼のないよう、そして聞くべきことをしっかり引き出すために事前勉強はするにしても、それはあくまで聞くための準備であって、読者に伝えるべき情報は専門家が持っている。どの専門家を選ぶかという点には記者(編集者)の考えが反映されるのだが、伝えるべきメッセージを持っているのはあくまで専門家だ。大手メディア所属の記者であるとか、フリーのブロガーであるとか、そうした所属や肩書きはともかく、いわゆる記者・ライターにとって必要なのは、専門家に負けない知識ではない。冒頭にも書いたように、記者は専門家ではないからだ。

 では何が必要なのか。

 数ある中でも最も必要なのは「理解する力」ではないか。

 理解する力があれば、取材で難しい専門用語に惑わされず騙されず、「何がポイントなのか」「どこを伝えるべきなのか」を見つけ出すことができる。のらりくらり逃げようとするインタビューイを前に、だまされずに突っ込むことができる。

 「理解する力」があれば過去の経験は関係ない。例えば教育関係の仕事をしたことがないというライターでも、教育関連のインタビューをしっかり構成できる。投資経験がない記者が、金融機関での取材をこなすこともできる(こう書いていて気づいたが、「理解する力」には、「専門家の話を理解する力」だけでなく、「そのインタビュー・取材をすることの意味」「その媒体で、そのタイミングで発表することの意義」を理解する力も含まれると思う)。

 経験はアドバンテージにはなるが絶対ではない。新聞社の経済部にいた記者がいい経済誌記者になるとは限らない。アニメ誌の編集をやっていたからといって、いいアニメライターになるとは限らない。スタート時点では、経歴のない人と比べればリードしたポジションに立てるが、「アキレスと亀」じゃあるまいし、リードはいくらでも詰められる(とはいえ、記者やライターの採用、起用を検討する際の指標として、過去の経歴・ポートフォリオ 以外のものってそうそうないのだが……)。

 などと書くと、自分が経済紙誌の記者経験がなくFJという経済誌の編集をやっていたことの言い訳のように聞こえてきたが、それは本意ではない。

 いい記者・ライターであるために必要な要素はいくつもある。
 そして私は自分がいい記者・ライターであるとは思っていない。

 しかし、専門ではない話のポイントを掴むのは比較的得意だと思っている。「偉そうに」と思われるかもしれないが、記者なんて誰でも「ここは負けない」「これは得意」ってのがないとやっていけない(中には「営業は負けない」という記者・ライターもいるだろうが)。

「ロジックを立てるのがうまい」人はたくさんいるが


 経済誌の編集部時代には、金融機関で何人ものエコノミストやアナリストを取材した。その誰もが、ロジカルな話を聞かせてくれた。彼らは(嫌味のつもりでなく言うのだが)頭がいいし、自分の意見や考えをサポートする材料を見つけ、ロジックを組み立てるのはうまい。だから、ある命題に対して賛成、反対両サイドの意見を聞くと、それぞれに納得できる話が聞けてしまう。
 例えば自分が賛成に立場に立つ政策について、反対の立場に立つエコノミスト(政治家や学識経験者もそう)に話をいても、「なるほど」と思ってしまう。別に騙されているということではなく、「ロジックを組み立てるのがうまいな」という評価をしているのだが、ともかく金融機関に勤める人たちはこうしたことに長けていると思う。
  当時、取材をさせてもらった多くのエコノミスト、専門家の中でも、つくづく「なるほど」と思わされ、自分なりに納得できる話を聞かせれくれたのが、マネックス証券のチーフ・エコノミスト村上尚己氏だ。

 何だかこの流れで紹介すると、かえって失礼に聞こえてしまうかもしれないが、それはまったくの誤解だ。氏の取材で受けた印象は、「話が分かりやすい」というだけではなかった。話が分かりやすいだけの人なら結構いる。そうではなくて、「信頼できる議論を展開している」という印象といえばいいだろうか。自分のもともとの意見に近いからそう感じるのだろうと言われるかもしれないし、それは否定できない。だが村上氏は、すでに経済誌の編集記者ではなくなった私が今なおレポートや発言をウオッチしている数少ない専門家の一人だ。経済や金融の分野で何かコトが起きる度に、「村上さんは何といっているだろうか」と気になるし、「この事象をどうみればいいのか村上さんの見方を拝見しよう」と時折レポートも確認している。

 その村上氏が単著としては初めてという『日本人はなぜ貧乏になったか?』(中経出版)を上梓した。発売翌日に購入して早速読んだが、これは分かりやすい、いい本だと思う。知らず知らずに信じこんでしまっていたいくつかの事柄、説明のできない事柄に対して、明快な否定と説明をしてもらえた感じだ。
 既に”村上推し”というバイアスがあることを明らかにした、経済・金融の専門家でも現役記者でもない私が薦めても説得力はないのかもしれないが、実際売れているようで、担当編集者のツイートによるとすでに3万部を突破したという。

 
 一見、装丁がおどろおどろしい感じだったので、トンデモ本と間違えられやしないかと偉そうにも思ったが、杞憂だったようだ(失礼しました)。

 本書は21の通説に対して真相を明示し、その説明をしていくという形をとっている(これは同じ中経出版から山内太地さんが出された『東大秋入学の衝撃 』と同じような構成だ)。その通説の一部を見ると、

「かつての『がんばり』を忘れたから、日本人は没落した」
「90年台バブルの崩壊は仕方がなかった」
「人口が減少する日本が成長できないのは、構造的な宿命だ」
「日本のデフレは、安価な中国製品が流入したせいだ」
「日銀の金融政策では、物価を動かすことなどできない」
「日本はインフレ目標政策をすでに導入している」
「お金を刷るだけでいいはずがない。構造の抜本改革を優先せよ」
「『右肩上がりの日本』は幻想。低成長の成熟社会を目指せ」

−−などが並んでいる。筆者はこの21の通説を21のウソと断じ、誤解を解いていく。

 少なくともここに挙げたいくつかの通説を読んで、「え?そうなんじゃないの?」「そう信じてた」という方は、まず読んでみてほしい。その上で自分はどう思うのか、考えてみてはどうだろうか。筆者は証券会社のエコノミストだから、「ポジショントークだ」と思う人もいるかもしれないが、読まずにそう決めつけるのはよくない。

 本書ではまた「おわりに」でちょっと驚かされた。村上氏の同僚でもあるマネックス証券の広木隆さんがZAi ONLINEの記事で紹介されているが、筆者の熱い思いがつづられているからだ。インタビューイからこうした熱い思いを聞けることはなかなかないから、氏の熱い思いを目の当たりにして、驚き、感銘を受けた。

 円安・株高を期待する反面、ここまでデフレが長く続くと、「いくらアベノミクスとか言っても所詮春くらいまででしょ」「持って参院選まででは」と弱気な見方をしてしまうもの。デフレには辟易していた自分も、後者の見方のほうが強くなっていた。
 しかし本書を読んでみて、不安と懐疑的な見方のほうが強かったアベノミクスに対して、多少は期待が持てるようになった。


……「多少かよ」というツッコミは、読んだ方からのみ受け付けたいが、私も本書を読んで、すべて鵜呑みにしているというわけではない。筆者とは違う見方をしている部分も(マイナだが)ある。また例えば、『60歳までに1億円つくる「実践」マネー戦略』で村上氏とともに著者に名を連ねている内藤忍氏は、アベノミクスにはかなり否定的とのこと。村上氏とは見方は違うわけだが、私は内藤氏の見方も信頼している。こうして異なる立場の見立てを吸収し、自分なりの理解や見通しを組み立てているつもりだ。


「アベノミクス」の行方は私たちの将来に大きな影響を与えるはずだ。もし積極的に情報を得ようとせずにいろいろな判断をしているなら、先行きの見立ての正誤や可能性を心配する前にやることがあると思う。


2012年11月22日木曜日

なぜ「嫌い・ダメ」なのか――「悪の教典」はたしかに気持ち悪い映画だけど


© 2012「悪の教典」製作委員会

“つまり今回の大島号泣の一件も、仕込みではあったが、関係者のほとんどが何も知らされていなかったため、結果的に大混乱を招いてしまったということなのだろう。”
サイゾーウーマンでこう解説されている、「『悪の教典』AKB48特別上映会」での大島優子号泣、中座事件。このニュースが流れる前に本作を観ていた私としては、「話題作りかもしれないなぁ」とも、「本当に気持ち悪くなって中座したのが本当かもしれないなぁ」とも思った。
 
 本作は、生徒にも同僚にもウケのいい高校の英語教師・蓮見が実はサイコパスで、自分の悪事を隠すために、学園祭の準備で泊まり込んでいたクラスの生徒たちを朝までに全員殺そうとする話だ。海猿のさわやかマッチョイメージを覆そうと伊藤英明君ががんばって主演している。
 私は原作は読んでいないのだが、とても気持ち悪い、後味のよくない映画だった。

 そりゃそうだ。高校生が次々にショットガンで殺されていくんだから、気持ちがいいはずがない。

 この中座事件の日、大島優子はこういうコメントを残している。
「わたしはこの映画が嫌いです。命が簡単に奪われていくたびに、涙が止まりませんでした。映画なんだからという方もいるかもしれませんが、わたしはダメでした。ごめんなさい」
こんなふうに「“私は”ダメ」と言われてしまうと、「そんなのおかしい」と言えなくなるが、ただエンターテインメントに関わる身であることを考えれば、これをマジで言ってるのなら問題ありだろう。(当日、配給の東宝が「真実は映画を見て判断してほしい」とコメントしているあたり、話題作りの色合いも濃い気はするのだが、その真偽は分からないのでこれ以上は触れない)。
 生徒が次々に殺されていく様を観ていて気持ちいいはずはない。だが、そもそも人が死ぬ映画なんていっぱいある。現実に人は死んでいる。殺されている。ではなぜ“この映画はダメ”ということになるのだろうか。

 現代の日本が舞台で、若い高校生が殺されるからなのか。
 じゃあ日本人じゃなければどうなんだろう? 高校生じゃなければ? さらに言えば、殺されるのが人間じゃない生物ならどうなんだろう?

 そういうことではないのだろうか。

 嫌なことから目を背ける権利も、観ない権利もある。
 でも、たとえそれがフィクションであっても「観たくない」なんて、女優が言ってていいのだろうか。フィクションの力、演技の力、映画の力というものを信じてないのだろうか。女優としてのプライド、矜持は上映終了まで自身を席にとどめるほどではなかったのだろうか。
 メンタルからイヤだと言うのは簡単。プレイヤーなんだから、ロジカルに、クリティカルに考えて発言してほしいと思う。

 それと、最後の「ごめんなさい」は制作陣に対してなのだろうか。「なんで謝るの?」「何に対して謝るの?」という謝罪をテレビでよく聞くので、ちょっと疑問に思った。


 私の感想としては、結構面白かったと思う。何度も書くように、気持ちのいいものではないが、あやしげな、不吉な雰囲気はよく出ている。気味が悪い。最後の校内の殺戮は三池節というのか何なのか、イケイケの軽い感じはしたが、勢いもあいまってカタルシスを覚えてしまう人もいるだろうと思う。倒れた宇宙飛行士の人形を戻すところとか、細部の演出にこだわりは見られたのだけれど、もっと蓮見の人物像や、形成された過程、現在の心の中の風景を、音楽とあやしげな画による雰囲気だけではなく、演出・描写で観たかった気はした(そもそもサイコパスの心の中をロジカルに理解できるのか?とも思うが)。あと伊藤君は頑張っていたけれど、もう一つ何か足りなかった気がする。それが何か、演技の善し悪しをうまく説明できないので分析できないけれど。

 続編は観てみたいと思う。

 


その他最近、試写で観た映画。

「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」
 インドからアメリカへの航海中、大嵐で投げ出され、1匹のトラと救命艇で生き延びた男の話。トラはほとんどCGというからすごい。話のあらすじがトンデモな感じだが、そのトンデモな設定の勝利でもある。原作がどうなのかは知らないが、主人公が不思議な体験をして生き延びる話だからか、神や宗教についてのセリフや描写が多いし、海での様子がとてもスピリチュアルに描かれていて、それが強過ぎる気がする。もうちょっとサバイバルのための工夫を丁寧に描いても良かったのではないか。3Dの必要性はない気がした。ただドキドキハラハラしながら、楽しんで観ることはできます。「観るんじゃなかった」とは思わないでしょう。

パイの物語(上) (竹書房文庫)  パイの物語(下) (竹書房文庫)

「ねらわれた学園」
 ご存じ眉村卓の名作ジュブナイル[『ねらわれた学園 』 を現代に置き換えたアニメ映画。まゆゆが声優をつとめたことや主題歌をsupercellが作ったことなどで話題になりました。現在、公開中です。原作は結構昔のものなので、現代に置き換えるにあたって携帯電話を使い、コミュニケーションのあり方について一石を投じている。その点について、もっと考えさせる描き方をしてほしかった。絵づくりの面では、逆光やレンズフレアが過剰すぎる気がした。もちろん狙ってやっているのだろうけど、なぜだろう。新海誠さんの作品が好きな方はいいのかもしれないと思った。

 

「塀の中のジュリアス・シーザー」
 ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したタヴィアーニ兄弟が監督・脚本を務め、アカデミー賞外国語映画賞・イタリア代表作品に決定した本作。ローマ郊外のレビッビア刑務所で、受刑者たちが、一般人に見せるために演劇「ジュリアス・シーザー」を上演することになり、稽古が進むうち、囚人たちは次第に役と同化。刑務所がローマ帝国のようになっていく。日本でありがちな、素人が頑張って一つのことに打ち込んで、涙あり笑いありで苦難を乗り越えて最後は団結して終わり、みたいなコメディじゃない点は評価できるが、ちょっとおカタすぎる。エンターテインメントというよりアート、いやエクスペリメンタル、実験的な映画という感じ。シェイクスピアはおさえとかないといけないなと思わされた。








2012年11月15日木曜日

ガンダムは日本製とは限らない――『僕ジム』を読んで

 常見陽平さんの『僕たちはガンダムのジムである』(ヴィレッジブックス)を読んだ。


 ガンダム世代には釈迦に説法だが、ジムとは、「機動戦士ガンダム」に出てくる地球連邦軍の量産型モビルスーツだ。


 見ての通り、ガンダムっぽいけどガンダムでは決してない、”その他大勢キャラ”だ。

 キャリアに関して多数の著書のある常見さんの書籍だけに、そのタイトルを聞いた時、なんとなく内容に予想はついた。コントでいえば“出オチ”というか、見た瞬間に狙いの方向性が分かった。だから自分もファーストガンダムは好きではあるものの、「多分こういう内容だろうから買わなくてもいいかなぁ」と思った。

 しかし以前いただいた『キャリアアップのバカヤロー』はためになったし、『親は知らない就活の法則』も仕事の上で参考になった。それに「常見さんだからきっと、そんな容易に想像できる内容で終わってるはずはない」と思い、買ってみた。

 


 結論からいうと、最初に抱いた心配は杞憂に過ぎなかった。

 私は仕事で学生や留学生の就職難、転職難の情報に触れていることもあって、ある部分では「分かる分かる」と思いながら、一気に読み終えた。もちろん著者のように専門的にキャリアについて研究しているわけでもないので、新たな発見もたくさんあったし、「いい言葉だなぁ」と付箋をつけたページもたくさんあった。

今さらな部分もあるかもしれないが、たとえば……

  • 頼まれた仕事は天職だ
  • やらされた仕事があなたを強くする
  • 「居場所×担当業務×ポジション」
  • 創造的ルーチンワーク
  • 「いいじゃないか、やりたいことが見つからなくたって」

 などなど。
 ほかにもあるのだが、ちょっとでも気になったら手に取って損はないと思う。特にこれから就活をする学生、あと就職したばかりの20代の社会人は、これを読んで自分のポジションを確認し、進む道、戦略を考えるといいのではないだろうか。そして「できること」の先にある「すべきこと」を考え、見つけようと行動することだろう。

 いい本を読むと、「自分もやらなきゃなぁ」「このままじゃイカンなぁ」と思う。
 誰もが思う。 けれども行動にはなかなか移せない。移しても、続かない。

 本書が説いているのは、「自分はジムであり、ガンダムにはなれないが、他のジムとどうやって差別化しようかと考えるべき」ということだ。ガンダムになれないことは認めても、そこで「ジムのままでいい」と思っていいという訳ではない(これは何もジムであることを否定しているわけではない)。
  
 日本は既にGDPで中国に追い抜かれた。それでもまだ、貯金で逃げ切れる世代が支配している。若い人たちは、将来が明るいとは思っていない。日本が経済的にもっと豊かになるとは思っていない。豊かになるためにいろいろなものを犠牲にするくらいなら、ならなくていいと思っている(そもそもそれは成熟の一つの段階なのかもしれない。いいのか悪いのか、分からない)。

 そんな状況の中で、何をどう頑張ったらいいのか分からない。途方に暮れて、あきらめてしまいそうになる。諦めてしまっている人たちもいる。だから筆者は「はじめに」で本書について「ついつい自信をなくしてしまいつつある、地道に働く会社員たちに対するエール」と書いている。『僕ジム』は時代が求める処方箋であると思う。

 「どうせ自分なんてジムだし」と思うことはないし、思っていても始まらない。現状を認識する、己を知るということは、自分がどう伸びたいかを考えるために必要だ。「ガンダムになれる」とは思わなくても、「ジム・カスタムになろう」とか「ガンタンクを目指しちゃうぞ」だっていいはずだ。

 また「僕らはジムだ」と言い切ることには、“意識の高い学生”の話ではないが、多くの人が陥っている勘違いを正す意味もある。
 若い時は誰しもが、自分がひとかどの人間になれると思いがちだが、多くは幻想だ。そして今はソーシャルメディアのため(せい?)か、ジムの多くがガンダムと気軽に接することができるようなった。ジムがガンダムを身近に感じられる時代、CDを買えばアイドルと握手ができる時代でもある。教育現場でも平等であることが重視され、区別することをよしとしない風潮がある。「あの子はガンダムだから。でも君はジムだから」なんて言えない。だからジムの多くが根拠もなく「おれもガンダムになれんじゃね?」と思う。その思い込みが自分の能力を高めることもあるが、ほとんどのジムに対して、「いやいやおめぇは違うから。ガンダムにはなれねぇから」と教えてやるのは、余計なお世話ではない。ジムのためにもなるのだ。

 最近、私は日本人の学生よりも外国人留学生と接することが多い。バイトもいるし、正社員もいるのだが、彼らの貪欲率はかなりのものだ。日本という外国に留学に来ている時点でそれなりに行動的ではあるわけだが、日本の会社に出入りして、選ばれていることもあって、能力も高い学生が結構いる。彼らを見るにつけ、外国人を採用で差別している企業はホントにアホだと思うし、日本の若者は、競争相手が彼らだということを認識しているんだろうかと心配になる(とか書くと、おめぇもだと言われそうだけど)。

 これからジムは、外国製のガンダムのために働くことだってあることを認識しておかなければいけない。外国企業の日本買いが、青い目をしたハゲタカファンドによるそればかりでないことは、ご案内のとおりだ。今まで自分のことをガンダムになれる存在と思っていて、かつ根拠もなく新興国の若者をジムだと思っていた日本のジムが、新興国からやってきたモビルスーツ(もしくは指揮官)の下で働くことになる。自分がガンダムではない事実を認めたうえ。よそから来た主人公のために。たとえ自分がジムであることを認めても、ガンダムが日本製(日本人)とは限らないということも忘れてはいけない。

 「だから何?」と思える人はいい。まだ社会人になってないような若い世代がどうかは知らないが、すでに働き始めてかなりの年月がたった中年世代は困るだろう。誰も「おめぇはガンダムじゃねぇ」と言ってもらえない、でも逃げ切ることもできない世代。きっと外国製のガンダムの下で働くことをすんなりと受け入れられないのではないかと思う。

 きっと、そんな時代はすぐそこまで来ている。逃げ切れると思っている世代の多くが、逃げ切れないだろう。逃げ切ることを考えるのはよしたほうがいい。「逃げよう」と思っている時点でもう旗色はかなり悪い。ほうほうのていで逃げたところで、その先に楽園はない。

 ところで本書の帯には「量産型人材として生き抜いてきた著者による」とはある。だが、「常見さんはジムじゃないじゃんよ」というツッコミはされてるんじゃないかなぁと思う(私の勝手なイメージではギャン…いやゲルググ……)。あと、今の若者にどれくらい「ジム」が響くのかなぁ?とも思った。



ほかに最近読んで面白かった本。


  



 『東大秋入学の衝撃』(中経出版)。東大に関してのいろいろな噂をあげ、それに対して事実を回答として示していく形。高等教育について問題意識を持っている人にとっては興味深い、現場をみて回った上での分かりやすいまとめ。

 『創造力なき日本――アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」』(角川oneテーマ21)。村上隆さんはアンチも多いですが、仕事に対する考え方や物言い、僕は好きです。アーティストになろうとしている人に限らず、仕事をするすべての人に参考になると思います。なんだってアートといえばアートだし。特に面白かったのは、カイカイキキの運営方法を震災後に変えた話や、ドワンゴ川上さんとの対談などでしょうか。

 もう1冊『日本をダメにしたB層の研究』(講談社)はネタ本みたいですが、意外に「なるほどねぇ」と思わされました。著者の適菜氏は過去にも「B層」本を出しているようですが、氏の著作を読むのは私は初めて。哲学者という肩書のようですが、分析が分かりやすすぎないかという気もしましたが、一つの見方としてはアリではないだろうかと。今度の選挙でこのB層がどういう(投票)行動を取るのか、気になりました。

 そして今読んでいるのは田端さんの『MEDIA MAKERS』(宣伝会議)。なかなかなくてあちこちで探して、渋谷のブックファーストでようやく見つけて購入。田端さんの初めての著書ということにちょっと驚き。氏の話が分かりやすくて面白いのはブログやいろんなインタビューで知っていましたが、これも分かりやすくていい。読んでためになるのはメディアを仕事にしている人だけではないと思う。視聴者、読者として誰もがメディアに接する訳ですし。
 ちょうど今、仕事でウェブメディアの再構築にかかっているところなので、参考にさせてもらおうと思いました。

2012年10月20日土曜日

島村ジョーもリーダー、高橋みなみもリーダー――「009 RE:CYBORG」を観て

© 2012 「009 RE:CYBORG」製作委員会


JAPAN as a LEADER of ...

  「サイボーグ009」の連載が始まったのは1964年(昭和39)。その後、連載は85年まで断続的に続いた。2012年現在、早瀬マサトさんと石森プロによる完結編が描かれているが、石ノ森氏本人による009は80年代で止まっている。「未完の大作」と呼ばれる所以だ。石ノ森氏が連載するにあたり何を考えていたのか、そのあたりの分析は雑誌『Pen』の特集「サイボーグ009完全読本」に任せるが、こういう疑問を持つ人はいないだろうか。


 なぜ、世界各国から集められた9人のサイボーグ戦士のリーダーが日本出身なのか――。



 身も蓋もない言い方をすれば、「日本の漫画なんだから」ということになるだろう。だが果たしてそうした解釈しかできないものだろうか?

 2012年、サイボーグ009を原作にした映画が新たに公開される。「攻殻機動隊S.A.C.」シリーズの神山健治監督が脚本も手がけた「009 RE:CYBORG」だ。10月27日全国公開の本作を、私は先日、試写で観た。ちょっと難しく分かりづらいところはあったが、面白かったし、好きな作品と言える。公開前でネタバレはしたくないので、ほんの少しだけ、感じたことを書いてみる。

原作の漫画が連載されていた時期、日本は高度経済成長を遂げた。一方、本作の舞台は2013年。社会は、世界は、まったく変わった。既にソ連は崩壊し、冷戦は終わった。中国をはじめとした新興国が台頭している。EUが生まれ、その中でも経済格差が顕在化するほどの時間がたった。世界における日本のポジションも大きく変わっている。どう変わったかは言うまでもないだろう。

 本作の舞台設定は、キャラの意匠変更とともに大きなチャレンジだったはずだ。人間のつくった「国家」から独立した存在として、人間(人類)のために戦う正義の集団としてのゼロゼロナンバーサイボーグ。主題歌「誰がために」ではないが、誰の為に、何の為に、正義をなすのか――。ある時代のある社会で「正義」と言われる言動が、別の時代、別の社会では正義ではないことは往々にしてある。20世紀に追い求められた正義と、21世紀の今のそれは必ずしも同じではない。今この時代に“9人の戦鬼”がとるべき行動とは何か、しっかり設定しなおす必要がある。

 正義を求める過程には、大きな犠牲とリスクが求められる。そして、それに負けない強い心、強い組織が必要だ。反対や対立、邪魔といった障害を超え、一人では成しえないことを成すための強い組織が。ここで冒頭の疑問に立ち返る。現代において、世界の為に戦う組織のリーダーに、日本人が立つことの意味とは何か。

 本作で神山監督は、「なぜ009が、日本の島村ジョーが、世界各国から集まったサイボーグ戦士のリーダーなのか」について説明している。

 9人の出身国・地域(ロシア、アメリカ、フランス、ドイツ、アメリカ、中国、イギリス、アフリカ、日本)をみると、「なぜアメリカじゃいけないのか」という疑問は生じる。9人のうち2人はアメリカ大陸出身。経済的にもアメリカがリーダーシップをとってしかるべき、と考えることはできる。
 だが逆に、アメリカがリーダーになった場合に生じる問題点も少なからずあるはずだ。それは今の社会を見れば分かるだろう。だからこそ、日本なりのリーダー像があり得る。

 そう思いながら現実を見ると、暗澹たる気持ちになる。日本の外交、世界におけるポジショニング。決して、理想的な姿とは言えない。今の日本が、正義を追い求める上で世界のリーダーなれるかと問われれば、現時点では(残念ながら)消極的な回答しかできそうにない。

 しかし、そもそもリーダーとして他国をけん引する存在が求められるのは政治・外交の世界だけではないし、何もリーダーが必ずしも、“今のアメリカのようなリーダー”である必要はないだろう。この時代、今の世界の中で、日本がリーダーシップをとれるフィールド、とるべき形があるはずだ。

 失われた20年。不況と円高。そして3.11――。こうした苦難を経たいま、日本は明らかに活力を失っている。日本株式会社を支えた各種産業は輝きを失い、世界2位まで登りつめた経済分野での地位も失った。かつてのような経済大国として、世界1位という意味でのリーダーになるのは考えづらい。
 だからといって「これから日本はもうダメになるだけ」でいいのだろうか。日本ができること、すべきことがなくなったわけではないはずだ。20世紀の成功体験をそのまま再現できないからといって、「もう日本はダメだ」というのは、過去にとらわれ過ぎた考えだ。20世紀型のリーダーではない、今なり、日本なりの道を模索すべきだ。組織の構成員のまとめ方、リーダーのあり方だっていろいろのはずだ。

 本作は、「求めるべき正義とは何か」を考える良いきっかけになる。そして009、島村ジョーの姿は、「そのために自らがどうあるべきか」を考える良い材料になるだろう。

 たしかに彼のように万能の、絶対的エースとしてのリーダーになることは容易ではない。だが、突出した才能があるとは言えない高橋みなみも、AKB48の唯一無二のリーダーだ。そういう形もあるのだ。
 
 そう考えながら本作を鑑賞すれば、ジョーの立ち姿にすら感じるものがあるはずだ。組織の中でのリーダーとしての地位に固執することなく、自らが信じる「成すべきこと」をまっすぐに、自信を持って追い求める彼の姿を見れば、自信を失った日本がまず何をすべきか、そのヒントが感じられるはずだ。

* * *

 ところで本作は果たしてヒットするだろうか?
 私は原作漫画の熱烈なファンではないし、神山監督のファンなので、どうにも客観的な評価ができないのだが、原作漫画を読んでいた世代は、石ノ森ファン、009ファンかどうかは別としても、少なからず抵抗があるようだ。たとえば富野由悠季監督は試写後、「59.999…60点はつけたくない」といっていた。彼は原作のファンではないと言いつつも、「知っている」だけに「60点はつけたくない」といっていた。彼に限らず、そこの抵抗感は小さくないだろう。好き―嫌い、違和感覚える―覚えない、というのは世代で大きな差があるはずだ。そこを乗り越えられるかどうか。

私は10月27日に公開されたらまた観に行くつもりだが、それは「前売り券を買ってしまったから」ではない。