2013年5月6日月曜日

ファンなら何が知りたいか――大おもちゃ博で感じたこと


 人気アニメのおもちゃの展示・体験やライブなどがあるイベント「大おもちゃ博」(品川プリンスホテル主催、タカラトミーなど特別協力)に行った。トランスフォーマー、リカちゃん、ポケモン、プリティーリズムなど同社のコンテンツが勢ぞろいで、子どもだけでなく大人も楽しんでいた。会場に入る前に、中で行われるイベントの整理券配布などについての説明があったのだが、これが分かりにくかった。

 説明や会場整理には、タカラトミーの社員、プリンスホテル社員、レコード会社関係者、そして多くのバイトが携わっていたのだと思う(会場に着いてすぐ内容について質問した相手がホテル関係者で、中でのことは分からないと言われてしまった)。そもそもこのイベントはウェブサイトの情報整理がいまひとつで、事前に知りたいことがよく分からなかったのだが、会場での説明も要領を得ず、分かりにくかった。

 なぜ参加者が満足のいくような説明がなされないのか。それは、説明した担当者が、自分が今説明している内容について、“深く”は理解していないからではないか。準備不足とも言えなくはないが、というよりむしろ参加者やファンほどにはその対象を愛していないからだろうと思う。

 参加者は本当にそのアニメやキャラ、テーマ曲を歌っているアーティストが好きで会場に来ている。一方、主催者側の担当者については、皆が皆、そんなテンションという訳ではない。それをプロ意識の欠如と断じるのはちょっと厳しいと思う。このイベントでも、会場整理のため、イベント運営のためのマニュアルが作られ、現場の担当者は粛々と実行しているはず。だが、こちらとしては目的を達成することができるのか(見たいものが見られるのか、欲しいものがゲットできるのか)、一向に分からない。その理由に、対象への思いの深さの違いがあるように思えてならなかった。
 結局、いちいち聞かれると担当者も大変だろうから、係員を呼び止めてあれこれ聞くのは憚られるから、迷惑にならないであろうタイミングを見計らって、どうしても聞いておきたいことは聞いた(結局聞くこともできたし、このイベント関係者を批判したいわけではない。大きな手落ちがあったわけでもないのだし)。

 開場までの待機列で暇潰しにネットを見ていて、「ジャニーズのファンが非公式グッズを買ってしまうのは、公式にはない、痒いところに手が届く、ファン心理をついたグッズ展開をしているからだ」という主旨の記事をサイゾーで見つけて、なるほどと思った。
 ジャニーズの公式グッズを作っている会社や関係者、担当者だって入念にリサーチして、ファンが欲しいと思うであろうグッズを作っているはず。彼らはプロだし、まさに当事者なのだから。
 しかし実際にはファンは非公式グッズを買ってしまう(公式を買わず、ということではない)。非公式グッズを作っている会社や関係者ももはやプロといっていいだろうが、サードパーティーが本家を越えているというのは興味深いことだ(ここでいう「越えている」は売上のことではないし、どう越えているかのデータはない。公式にはないがファンに支持されるグッズが非公式から出ているということだ)。

 こういうことはよくあると思う。ジャニーズの場合はどうか分からないが、ファンが考えたほうが、ファンが欲しがるグッズが作れるのかもしれない。ファン心理が分かるのだから、その可能性は小さくないのかもしれない。
 グッズ制作だけでなくイベント運営でも同じことがいえる。ファンならここに何を求めて来ているのか、今このタイミングでファンならどうしたいとw思うか、そのために何が知りたいのか……。担当者だってちゃんと準備はしているだろうが、「ファンならどう考えるか」というところに思いを馳せているかどうかは自問してもらいたい。さらにいえば「ファンに負けないくらい、その対象について語れるか」ということにも。

 そしてこれはイベント運営だけでなく、サイト運営など各種サービスについて応用できると思う。自分の過去の仕事、経験を振り替えって、そういう想像をすることがいかに難しいかに気づいた。それが自然にできる人が気が利く、仕事ができるということなのだろう。

 お客様の立場に立ってとか言われるが、そんな手垢のついた言い回しや考えではなく、自分がファンになるくらいに対象を愛して考えてみなければ、気づかないことがたくさんあるのだと思う。まさに言うは易し、行うは難しだと思うが、忘れず応用したい。

2013年5月5日日曜日

マスコミイクメン今昔――増えてはいると思うけど

イクメンプロジェクトウェブサイトより)

 こどもの日ということで、読売が朝刊で「『イクメン』が世間を変える」という社説を掲載している。主催イベントのPRをちゃっかりしながら、「男性の育児参加をさらに促す企業努力を各社に求めたい」「親子が気軽に集える場を増やすべきだ」などと書いている。
 育児ネタに限らないが、こうした提言を大手紙などメディアがする時に感じるのが「お前とこはどないやねん」ということだ。

 自分が読売にいた頃は、読売に限らずマスコミは育児を蔑ろにしていたと思う。辞めたのはもう十年くらい前だし、当時と今とでは社内の制度や雰囲気も大きく変わっているだろう。子育て真っ最中の同期たちのFacebookの書き込みを見る限り、彼らはフツーに子育てしている。皆が皆、育児に消極的という訳でもないとは思う。
 ただ当時、仕事のできる他社の先輩から、取材応援で長期出張していて、子どもの顔をみたのは産まれてから何ヵ月も後だったという話を武勇伝のようなエピソードを聞いた。この先輩はたしか他社だったが、自社の先輩からも似たような話を聞いたような気がする。当時(自分がいた地方の記者クラブ)はそんな雰囲気だった。
 あの先輩が本当に、何ヵ月も我が子の顔を見られなかったことを悔やんでないのかは分からない。照れ隠しだったのかもしれない。でも自分としては、そういう未来が自分に待っているかもしれないのは嫌だった。辞めた理由の一つになった。

 この記事の意図は読売をディスることではない。ただ先日、ある地方議会議員の取材で思ったのだが、国や自治体にいろんな制度をつくるよう求める前に、企業が変わらなければまともな育児環境などできないだろう。企業が変わるということはつまり、もしかしたら育児などしたことがない、お偉いさんたちが変わるということだ。

 世の中にはまだまだ、オムツを替えたことのない男性はたくさんいる。ただ自分は何も、子を持つ全員が全員、オムツを替えるべきだとは思わない。そりゃかかりきりんあるのが理想かもしれないが、そうもいかない。役割分担はあっていいと思う。なるべくやったほうがいいと思うし、一度は体験してみるべきとも思う。そうしなければ、本当の大変さはなかなか分からない。そんな人たちがつくった(社内、自治体の)
制度なんて、ツカえたもんじゃないはずだ。
 また「イクメン」という言葉は早くなくなればいいと思う。親が育児をするのは当たり前だからだ。男がしてこなかったからこんな言葉があるわけで、正常な状態とは言えない。自分など、子育てに関して「偉いですね」なんて労われると、面映ゆくて仕方ない。実は育児の多くの部分を妻に任せているということもあるが、できる範囲であれこれやっているのは当然だと思っているし、面白いから、好きだからやっているだけだからだ。こんなに面白い、楽しいことを女性だけにエンジョイさせるなんて、男性として「もったいない」と思う。
 マスコミに限らず、仕事で忙しい日々をおくっているという人が(多くは男性だろう)、勝手に頭の中から自分を育児のプレーヤーから外してしまっている。他の誰か、他の会社の取り組みを言う前に自分のことを考えなければいけない。
 読売の編集委員や社説の担当者など、お偉いさんはどうなんだろうか?

2013年5月4日土曜日

ブレーキ踏み過ぎ注意――知らず知らずに迷惑をかける恐ろしさ


 車を運転していると、“本人は気づいていないんだろうけど後続の車には迷惑な運転”をする人がいる。迷惑といえば、狭い道や交差点そばでの停車や合流しきれずのノロノロもあるが、それらは本人も気づいてるだろうからともかく、気づかれていない迷惑運転の代表格が「頻繁なブレーキング」だと思う。

 何もないところですぐにブレーキを踏む人が多い。ブレーキを踏むとランプがつくからは、後ろの運転手も踏む。するとその後ろも踏んで…と連鎖して、やがて渋滞になる場合もある。
 ATしか運転しない人、できない人、MT車を運転したことがない人にその傾向が強いのではないかと(データはないけど)思う。エンジンブレーキという発想がないからで、減速するためにはフットブレーキしか思い付かないのではないか。 ちょっとした減速はアクセルを戻すなどして対応すべきで、場合によってはギアを2速に下げてもいいのではないか(最近のAT車について、走行中のギアダウンの是非は詳しく知りませんが…)。
 少なくとも自分は、何もないところで減速するのにそうそうブレーキは踏まないし、前の車が踏んだとしても、さらにその前の状況から、単に目の前の運転手がスキル不足で踏んだだけと判断したら(できたら)踏まないで対処しようとしている。

     ほかにも幅員の決して大きくない道での左折で膨らんだりするのも、おそらく本人は気づいてないだろうけど、後ろの運転手は困る。「コンパクトに曲がれないなら小さな車に乗ればいいのに」と思うが、その思いは当然届かない。ミニバンや大きなセダンなんかやめて軽にしたほうがいいと思うおばちゃんドライバーの実に多いこと!!(ダンナと共有だろうから仕方ないけど)。

 大人になると周りが注意をしてくれなくなるし、運転の仕方を誰かがアドバイスしてくれる訳でもないから、本人は後続に迷惑をかける運転をしていることにずっと気づかない。解決は難しいだろう。

 かくいう自分も知らず知らずのうちに迷惑をかけているかもしれない。生まなくていい渋滞を生むかもしれないわけだから、善意だから許されると思わず、気をつけて運転したい。また「気づかずに迷惑をかけることに注意する」という意味では、運転だけではなく仕事でも同じことが言えると思う。後ろをふりかえりながら進んでいきたい。

2013年5月3日金曜日

「アメトーーク! 将棋たのしい芸人」で考えた“言葉の選び方”

 

実現したいことは言葉にしたほうがいい、話したほうがいいといわれる。助力してくれる誰かの耳に入るかもしれないと期待できるということもあるだろうが、言葉にするこで成功のイメージを持ち、成功に近づきやすくなると信じられているということも理由だろう。不吉なことを口にすると縁起でもないと言われるなど、言霊は広く信じられている。前向きはな言葉を使うことで前向きな気持ちになり、可能性や能力を広げられるだけではなく、逆に自分の言葉が自分をしばるということもある。これは何も日本に限ったことではない。海外のドラマでも“Say it”と相手に約束事を言わせるシーンをよく見る。

 だから同じことをいう場合でも、なるべくポジティブな言い回しをしたいと思っている(ちょっと逸れるかもしれないが、お土産を渡す時は「つまらないものですが…」などとは言わないようにしている。「気に入っていただければいいのですが」「お口にあえばいいのですが」といった言い方をする)。 

 しかし自信がないと、ネガティブな言い回しに、知らず知らずのうちになってしまう。 

 昨日、5月2日放送の「アメトーーク!」のテーマ(くくり)は「将棋たのしい芸人」だった。
 序盤、駒の説明をしているときに、香車が好きというペナルティのワッキーがその理由について、ズバッとまっすぐ前に行って戻らないところが、ウケるかどうか分からないネタを思い切ってやって終わったらサッとひく自分に似ているというような説明をしていた。彼らは、笑いが取れるとは限らない、博打を打ち続けているわけだ。なるほど、と思ったのだが気になったのは彼の言い回しだ。
 ワッキーはそのとき、「スベるかスベらないか」という言葉を使った。「ウケるかウケないか」ではなく。

 別にワッキーを批判したいわけではないけれど、そこに、彼が芸能界で置かれている状況や世間からの評価、それらに対する自身の認識というものを感じて、少し切なくなった(ちょっと失礼かもしれないが)。それに、これは自分の勝手な決めつけで、ご本人は自信満々だったのかもしれないのだが……。

  自分も、自信のないときは控えめな、ネガティブな言い方をついしてしまうので、気をつけなければいけないと思った。自分がこう思っているということは、自分のネガティブな言い回し聞いて、「あ、濱田は自信がないんだな」と思われたり(気づかれたり)してもおかしくないのだ。 

 自信をもって話せるようにするには念入りな準備も必要だろうが、思いがけない、ふとした瞬間にこそ自分の精神状態を表す言葉が口をついて出るものだろう。改めて気をつけたいと思った。

2013年5月2日木曜日

素人デザイナーとプロを分かつもの


「仕事ができる」というのは、クライアントが抱える本質的な課題を見抜くための、またはクライアントが望む状態を生み出すためのソリューションを提供できるということだと思う。

 その意味では、肩書きなど関係なく、ディレクターだろうかデザイナーだろうがプログラマだろうが、プロジェクトを成功に導く鍵、ポイントを見つけて実現できることこそが重要だ。だからこれは単なる偏見なのだが、数ある職種の中でも「デザイナー」という職種はとても奥深いと思う。
 一般にデザイナーと聞けば、「カッコいい見た目の何かをつくる仕事」というイメージを持たれるかもしれないが、その仕事の本質は、クライアントが持つ課題を「デザインする」ことで解決に導くことだ。ここでいう「デザインする」とは、単にデザイン系のソフトを使って紙やPC画面で何かを作ることではない。デザインには意味があるから(というより、なければいけない)、「何となくカッコいいから」という理由で、色や形を選んではいけない。そのチョイスの意図が伝わらないこともあるが、それはそのデザインに込めた意味が間違っているか、意味が伝わりにくい見せ方をしているからであって、「赤がはやっているから赤にする」とか「流行の形だから」とかいうのは間違っていると思う(選んだきっかけがそういう理由だったとしても、後付けであってもロジックは必要だ)。しっかりと意味を持ったデザインワークをつくることで、目的を達成させられるのがプロのデザイナーだ。

 と、この手の記事は過去にも書いたことがあるのだが、それくらい「デザインする」ということの奥深さを、デザイナーという職種をリスペクトしている。自分が携わっている「編集する」という仕事も奥深く、難しく、リスペクトに値するものだと思うが、自分がデザイナーではないだけに畏敬の念は強い(また、自分のイメージではデザイナーのほうがより「手を動かす感覚」が強く、現場に近い感じ、何と言うか「クリエイター」に近いイメージがある)。

 ところで自分は社会人学生として通った学校やデジハリでデザイン系ソフトの使い方を習い、個人的にサイトを作ったりしたので、一応Adobeの印刷系、ウェブ系のソフトは使える。なのでデザイナーのまねごとはでき、ビジネスクオリティでなければちょっとしたものはつくれるが、が、あくまで素人レベルだ。デザイナーの足下にも及ばないと思っている。

 小さな会社や組織だと、パンフレットや小冊子を予算の都合で自社で作ることがある。作った本人はそれなりに満足しているのかもしれないが、見てられないものが結構ある。学生がつくったものにも同じことがいえる。後者はまぁ、微笑ましいともいえるが、本人がどれだけ「見てられないものであること」に気づいているのか聞きたいと思うことがある(この感覚はデザインワークだけでなく、文章についても同じようなことがいえると思う)。

 プロと素人のデザインワークのもっとも大きな違い、というかセンスの分かりやすい見極めの基準がある。

 それは「フォントの使い方」だ。

 これはだいてい一見して分かる。ちょっとしたグラフィックデザインから、エディトリアル、ウェブ……なんだってそうだ。

「これは素人がつくっている」「このデザイナーはうまい」

 もちろん自分なりの「うまいー下手」の判断基準なのだが、これは「好きー嫌い」の分かれ目ではない。「ちゃんとデザインの修行を積んでいるかどうか」「センスがあるかどうか」を見極めるポイントだ。
 自分にはその「フォントのチョイス」のセンスがないので、いつも苦労するし、だいたい後悔する。直してもらえるなら直してほしいといつも思う(が、自分がデザインする時点でデザイナーに頼めないものである訳だから、叶わない)。

 どういうフォントがいいかは、アウトプットの目的や場面に寄るし、誰かを批判したい訳ではないので具体的な事例を出すことは避けるが、このことはデザイナーでなくても、デザインワークを作らないという人でも頭の片隅にとどめておいて損はないと思う。
 たとえば企画書やプレゼン資料をつくるとき、子どもの通う保育園や学校に寄せ書きをつくるとき、勉強会やサークルなどにプロフィールをつくって出すとき……デザイン系のソフトではなくても、ワードやパワポなどで何かしら他人の目に触れるもの(れっきとした「デザインワーク」だと思う)をつくることはあると思う。

(ただ、パッと見て「カッコいい」と思ったフォントでも、「よく意味を考えたらおかしい」ということもある。分かりやすい例を挙げると、クールなフォントを使った映像作品のポスターがあったとして、カッコいい仕上がりになっていたとしても、その映像作品がクールというよりハートウォーミングな内容なのだとしたら、ミスリードを生んでいるそのデザインワークはいいものとは必ずしも言えない)。

 もしこれを読んで少しでも「なるほど」と思ったら、身の回りや街角、オフィスで目に入った何か(何でもいい)を「フォントの使い方はどうか」という視点で見てもらいたい。「なぜこれを使ったんだろう」と考えると結構面白いと思う。
 

「同業者がヒクくらいにやれ」――電子書籍セミナーで学んだこと


 電子書籍のセミナーに2日続けて出席した。
  
 1日はAdobeのDigital Publishing Suite関連で、ADPユーザの企業担当者が登壇して事例を述べる内容(パネルディスカッションもあり)。無料セミナーだけに宣伝臭が強いのはさておき、“ADPユーザ”というくくりでは大きすぎと感じた。ADPでいろいろできるのは分かったが、制作の人間としては、自分が取り組んでいる業務内容に即した内容について掘り下げた内容だったらよかったなぁと感じた(このセミナーがちょっと面白かったのは、背広姿の参加者が多かったこと。いつも出るようなセミナーはラフな格好の出席者が多い)。 

 2日目は半蔵門で行われた、士業の方々に向けたセミナー。自分は税理士でもって会計士でもないが、縁あって末席に座らせてもらって聴講した。参加者に「電子書籍の筆者になりませんか」という提案含みの内容で、講師はサニー久永さん。恥ずかしながらサニーさんのことは今回知ったのだが、セミナーの内容はかなり具体的で面白かった。いつもより短い時間に凝縮したセミナーだったらしく、若干の消化不良感はあったものの(致し方ない)、無料でいいんだろうかと思うほど役に立ちそうな内容だった。 

 終了後、懇親会があるというので出席。会場近くの店で十数人で飲みながらセミナーの感想や、出席者それぞれが電子書籍を出すとしたらどういう内容がいいか、どういった目的でやるか、などを話し合った。サニーさんにも少しばかり話をうかがった(主役は士業の皆さんなので邪魔しないよう)。 

 たまたま隣り合わせになった方が最近独立したとのこと。同業者との差別化をどうすればいいか、ブランディングをどうしたらいいか考えているとという。電子書籍の活用を中心に話し合ったのだが、単に「税理士が書いた」「会計士が教える」では電子書籍のウリにはならない。出すからには売れるものにしたいし、売れなきゃブランドは確立できない。そうなると鶏が先か卵が先かという話のようだが、自分の打ち出し方、売り方の“方向性”は考えなきゃならない。

  しかし誰しも自分のことを客観視して、どの部分、どの要素ならセールスポイントになりそうか、なんて分からない。たとえ分かったとしても、どうやってアピールすればいいか、アイデアはそうそう浮かばない。そういう、いわゆるセルフブランディングの話になった時のサニーさんのアドバイスに目から鱗が落ちる思いだった。

  それは

 「同業者がヒクくらいやったほうがいい」 

というものだった。

  もちろん、「同業者がヒクようなやり方をしろ」といっているのではない。同業者はライバルの戦略、やり方を注視しているだろう。しかし、それ以外の人の視線を集めるのは難しい。「自分を売る」ということに慣れている(長けている)ならともかく、普通に自己アピールなんかやろうとしても、ついこじんまりとまとめてしまうものだ。周囲が「やり過ぎ」と思えるくらいやらないと、注目なんてしてもらえないのだ。 

 当たり前といえばそうなのだが、思い切りが必要だ。人は他人になど大して興味がない。だから関心をもってもらうには、分かりやすくして、打ち出したいポイント以外は排除したほうがいい。 

 それは記事の書き方にも通じると思う。
 本当はこんな話も聞いた、本筋じゃないけどあんな情報もある、なんてことまで書いてたら、何がいいたいのか読者の伝わらない記事になってしまう。本当にいいたいこと以外は思い切って落とす勇気、誤解を招くことを恐れない心構えが必要だ(嘘はダメだし、目立つこと最優先でやり過ぎると読者にあきれられるが…)。 

 自分の100%思い通りには相手には伝わらないし、すべてを受け止めてもらえる、期待する形で理解してもらえるなどという考えは不遜だし、幻想だ。少しでも自分の期待に近い理解を広げるための努力は必要だろうが、理解度が100%に近くなくてもいいから、関心を持ってくれる人を増やす段階というものもあるのではないか。記事にしろセルフブランディングにしろ、「これがウリです」とはっきりさせること。 

 その結果、敵が生まれるかもしれないが、むしろそれは歓迎すべきことではないだろうか。自分を偽ってはいけないが、まゆをひそめられるくらいの思い切りが必要だということは覚えておきたい。



(サニーさんの著書、遅ればせながら読んでます)

2013年3月6日水曜日

捨てること・捨てられることを恐れない


 何年か前、会社の口座に見知らぬ名前からの入金があった。

 自分が自社商品の販売サイトの制作担当者だったため、当時の総務担当者から問い合わせされたのだが、入金予定のリストに名前はなく、心当たりもない。少額だったが放置するわけにもいかないので調べることにした。詳細は覚えていないのが、振込者のメールアドレスが分かっていたので、そのアドレスから会社名を類推し、その会社のサイトを検索。代表者を突き止め、苗字などを確認して、おそらくその某企業の関係者からの振込であろうことを予想し、総務担当者から連絡をとってもらったところ、その通りだった。

 与えられた条件は同じだったが、その総務担当者は見つけられず、自分は見つけることができた。何もこんな些細なことで威張るつもりはなく、言いたいのは、「見つけたいものを見つけられるか」能力が重要であるということだ。

 たとえば、仕事で調べ物をしたいときに、Googleの検索窓にまず何と入れるか。第二検索ワードを何にして絞り込むか。そこで検索のセンスが問われる。通常、ネットで検索する時は一人で作業をするもので、上司や同僚に検索の結果分かったことや分からなかったことを報告することはあっても、「何と入力して検索したか」を伝えることはあまりない。だから皆、自己流の検索をしているのだが、実はその瞬間、瞬間に大きな差が生まれている。時間がかかっても欲しい答えにたどり着けばいいという考え方もあるが、時間というコストもなるべくかけないほうがいい。ある人が10分で見つけられる結果に至るのに30分かかっていてはダメだろう(付加価値はここでは問わない)。

  この検索のセンスは実は非常に重要だ。モノと情報があふれかえっている今、個人レベルであらゆる情報を保有し続けようとするのはナンセンスだ。欲しいモノを欲しい時に引っ張ってこれればいい。まさにそれがクラウドの世界なのだろう。必要なデータだからとPCのHDDに入れ続けていれば、限界がそう遠くないうちにやってくる。それはローカルのHDDかネットワーク上かという違いではない。

 
『その検索はやめなさい』(苫米地英人)

 ところで最近、「デスクの上になるべく物を置かない宣言」をした。
 単純にキレイなほうが仕事しやすい、仕事したくなる、カッコいいという動機もあるのだが、とにかく机の上は可能な限りきれいな状態で保っておこうと思っている。

 これまで「何かの役に立つかもしれない」とプレスリリースやフリーペーパー、チラシ、雑誌、書籍、スクラップなどはなるべく入手、保管してきたが、「持っている」というだけで安心してしまって有効活用できていないことを反省した。ちょうど会社を移転することになり、これを機会に新しいオフィスでは机上に物を置かないようにしようと考えた。保管していた資料を厳選、使わなかったものは捨て、「使うかもしれないなぁ」程度のモノも廃棄。デスク周りに置いていた私物も自宅に持って帰るなどして、引き出しの中も整理した。必要な資料は別のラックに入れるなどして、とにかく机の上には物を置かないようにしようと思っている(実は背後の棚には整理しきれていないモノがまだ積まれているのだが)。

 この「持っているだけで安心してしまう」という点は強く反省しなければいけない。持っていることが重要な、たとえば複製では意味のない資料や特に思い入れのあるモノはともかく、そうでなければ何も持っている必要はないのだ。デジタルのデータにして保管しておくこともできるし、ネットを調べればたいがいのものは見つけられる。

 そういえば会社を引っ越した日、旧オフィスで使っていた古いビジネスフォンの設定を業者にやってもらったのだが、その業者はマニュアルをスマホでネット検索して設定していた。一方で退職者の共有ファイルを整理していて、ビジネスフォンのマニュアルが丁寧に保管されているのを発見した。おそらく以前の引越しの時に入手して、そのまま保管していたのだろうが、その3.8メガのPDFはずーっと使われないまま共有フォルダのメモリを食っていたわけで、そんなもの、とっとと捨ててしまってよかったのだ。



『見てわかる、「断捨離」』(やましたひでこ監修)

 「断捨離」という言葉がはやって久しいが、持っているだけで安心してしまうことを戒め、要らないものは持たない。持っていなければいけないもの、持っておきたいもの以外は持たない。そうすれば、持っているものは必要なものだと分かるし、必要なときに必要なものを見つけ出す能力も高められるようになるだろう。

 それは人間関係も同じだ。自分で何でもできる必要はなく、欲しい能力を持っている人とつながることができればいいわけだ。また「何かの役に立つかもしれない」と薄い人間関係を保ち続けることにも、ほとんど意味はない。嫌われたくない、知り合いは多いほうがいいといった気持ちから、人間関係を断つことにも消極的だったが、これからは意識して絞り込みをしていこうと思う。もし将来「あの時関係を継続していればよかった」という時があったとしても、それは自分の選択と甘受するよりほかはない。ただ「すぐに役に立たない関係=不要な関係」ということではないし、「役に立つかどうかではなく関係を保ち続けたい」と思える人との出会いを大切にするということでもある。 逆に自分がそういう(捨てられる)対象になるということでもあるのだが、そんなの別にいい。「関係を保ち続けたい」と思っている相手から、そう思われる自分であるよう努力は一層していこう。

 今さら感もある内容だが、改めてこのタイミングでエントリにすることで、デスク上の整理整頓について有言実行のプレッシャーをかけておこう。