2012年10月5日金曜日

人生に必要なのはパートナーであり、出会いは獲得し育てていくものだ――映画「最強のふたり」を観て

© 2011 SPLENDIDO/GAUMONT/TF1 FILMS PRODUCTION/TEN FILMS/CHAOCORP


差別たらしめるもの

 映画「最強のふたり」を観た。

 実話を下敷きにした作品だそうで、既に大ヒットしているのでご覧になった方も多いと思う。最初ポスタービジュアルを見て食指が伸びなかったのだが、Twitterで複数の人が勧めていたので観ることにした。今となっては観てよかったと思う。とても面白い、いい作品だった。

 話の筋はこうだ。

 大富豪のフィリップはパラグライダーの事故で首から下が麻痺しており、動かない。その介護役として採用されたのが、服役経験のある黒人青年のドリス。彼は失業手当をもらうため、就職活動をした証拠として、不採用になるために介護役の面接を受けたが、なぜか採用されてしまう。採用は不本意だったドリスだが、フィリップの挑発に乗り、自宅に居場所がないこともあって介護役を引き受ける。奔放なドリスはフィリップの障害にもお構いなしだが、フィリップはドリスを気に入ったようで、彼に影響されてどんどん変わっていく……。

(以下多少ネタバレします)

 本作は、主人公の2人の構図からして差別というものを意識せずにはいられない。金持ちで良識のある白人と、貧乏で粗野な黒人。辟易する人もいるであろう、ステレオタイプな設定ではある。そのフィリップは重度の障害を持っており、同性愛者も登場する。ナチスさえジョークで扱われる。差別イシューのオンパレードだ。

 言うまでもなく、差別は難しい問題だ(ことさら難しく考えよう、取り扱おうとする意識と行動こそが問題を難しくしているという指摘もあろうが)。問題として受け止めるほどに、自覚的になればなるほどに腰が引け、かえって(無自覚に)差別する結果となる。人との違い、自分との違いを単なる“違い”として、個性として受け止めるべし――などと言われるが、言うは易く行うは難し。ある言動を差別と考えるかどうか線引きは人によって異なるし、不快に感じる程度も人による。差別と認めながらも許す人もいる。一概にこうとは言い切れない部分が多すぎ、多くの場合、untouchableなマターとして取り扱われる。さわらぬ神にたたりなし、というやつだ。

 本作の魅力はドリスの人間としての魅力に尽きるのだが、彼は差別の対象となりえるものを特別扱いしない。いわゆる差別的な言葉を吐き、行動をとるのだが、彼はフィリップを特別扱いせず、自然に接している。常識的な大人であれば眉をひそめるような言動をしても、なぜかフィリップはそれを悪く思わない。その理由をフィリップは述べている。

 「彼は私に同情していない」――。

 同情と共感の明確な違いは知らないが、それは「可哀想」という感情の有無ではないかと思う。「可哀想」とは何なのか。自分を“上”に、相手を“下”にみて、それを押し付けることではないか。いくら自分が相手を「可哀相」だと思っても、相手は自分のことが可哀相だと思っているとは限らないわけで、勝手に優越感(罪悪感)にひたるのが同情だとは言えないだろうか。そしてドリスはフィリップや、その他、差別されるような境遇にある人に対して、そんな勝手な感情を持たないのである。

人間関係には様々な形がある。デリカシーが求められる、緊張感あふれる関係もあれば、気の置けない関係もある。お互いが相手に何を求めるかはそれぞれだから、人の組み合わせの数だけ、関係のあり方が存在する。
 その点ドリスは、相手に合わせて、相手の顔色をうかがって自分の対応を決めるようなことをしていない。自分のありのままを相手にぶつけている。相手がどういう状況、どういう考えであれ、また相手が自分を受け入れようが入れまいが、彼は変わらない。相手に受け入れられようとすることが必ずしも良い結果につながるとは限らないのだから、どうせなら気などつかわず、思うように振る舞えばよいのだが、そうできないのも人間の性、弱いところだ。
 
 私はドリスの素直さをとってもうらやましいと思った。おそらく自分なら、フィリップに気をつかい過ぎて、窮屈に思われ、すぐに解雇されてしまうだろう。何かにマジメに取り組むことを卑下するつもりはないが、それが必ずしも正解とは限らないのだ。彼はとても素直に、人と接することができる。彼には自分をカッコよく見せようとか、いい人と思われようとか、背伸びしようとする気持ちがない。その強さに憧れる。

出会いがないなんて嘘だ

 ところで本作のような“バディもの”は古今東西多数存在する。たとえば「48時間」、日本のTVドラマ「相棒」、女性なら「テルマ&ルイーズ」、アニメなら「TIGER&BUNNY」などがそうだろう。いみじくも今「夢売るふたり」という映画も公開されている。「ふたり」はアリだが、「さんにん」ではダメなのだろう(そういえばMARVELのヒーローにはバディものはない…アメリカ人の好みじゃない訳でもないだろうが……)。
 このように古くから「2人」の関係性をフィーチャーした作品は多い。その理由は、人は常に、信頼できる、運命のパートナーともいうべき存在を求めているからではないだろうか。

 いま結婚をする人が少なくなっているという。別にそれを咎めるつもりはないし、法律上の結婚という形式にこだわらないカップルが増えているだけかもしれない。婚姻数がどれくらい減っているか、なぜ減っているかは分からないが、もし減少が事実だとすれば、みな結婚していないからこそ、心のどこかでそうしたパートナーを求める気持ちがより強くなり、本作のような作品が一種の憧れ、うらやみの対象としてみられ、支持されるのかもしれない。

 「パートナー」が同性か異性かの違いは大きいだろうが、誤解を恐れずいえば、結婚した男女がいつまでも異性として相手を意識続けるわけでもなかろう。その意味では、同性であれ異性であれ、人は「運命のパートナー」を求めていると言える。積極的に探しているかどうかは別だ。心の奥底では、そういうつながりを、そういう関係を築ける人を求めている。それは結婚相手かもしれないし、本作のように介護者・被介護者という関係かもしれない。

 「さんにん」ではいけない。なぜなら3人になった瞬間に、自分が思う相手が、自分よりもう一人を選ぶかもしれないからだ。お互いに、相手は自分だけという状況になるには、「ふたり」でなければいけない。

 なぜ結婚する人が減っているのか、その理由はいろいろあるだろう。社会の変化に照らし合わせ婚姻制度に無理が生じている。コストがかかりすぎる。内縁関係がとやかく言われることがなくなった……。とはいえ、誰もが、「どうしても一人で生きていきたい」と思っている訳ではない。心のどこかでふれあい、寄り添うことを求めている。
 そうしたパートナーとの出会いは、自ら獲得しなければいけない。そして育てていかなければいけない。本作では偶然の出会いが2人をつないでいる。しかし、そこに至るまでに、フィリップは長年自分に注がれ続けた同情の目線に辟易しており、その状態が続くことに嫌気がさしていた。フィリップはドリスに出会う以前に、何人ものパートナー候補と会い、時間を過ごし、見切りをつけてきた。そして、冒険してみようと思った彼の一歩(ドリスの採用)が、図らずも最良のパートナーを見つけるきっかけとなった。ドリスを選んだのはちょっとした気まぐれだったのかもしれないが、その行為があってこそ、二人は出会えた。

 何も3.11以降の絆うんぬんをここで言いたい訳ではない。そもそも本作は日本でだけ支持されているわけではない。ただそうした関係を誰かと築きたいのであれば、出会いを獲得することをあきらめてはいけない。それに、「新たな出会い」にだけパートナー探しの機会を求めてもいけないのではないだろうか。既に出会っている誰か、すぐそばにいる誰かとの関係を見直し、大切にし、育てていくこと。それも運命のパートナーを見つけるために有効な手立てではないだろうか。
 「出会いがない」なんて嘘だ。「どうせ出会えない」と思っていれば、せっかくの出会いにも気づけない。既に出会えているのかもしれない。明日出会うかもしれない。その相手の存在に気づくためには、準備を怠ってはいけない。止めてはいけない。自分の心があきらめているのに、それでもビビッとくるような出会いがあるかも……なんて、あるはずがない。

 そういうことを考えさせられた作品だった。


* * *


 ところでこの邦題はどうにからなかったものだろうか。原題は『Intouchables』。英語でいえば「UNTOUCHABLE」。 ストレートな訳にするとちょっと重かったろうが、もう少し別の何かはなかったのかと思う。
 演出面では、一旦ドリスがフィリップのもとを離れるところの理由が分かりづらかった。描写がもっとあっても良かったのではないか。あとラスト。唐突にベースとなった実話の2人の画が出てくるが、肝心の本編のほうがブツリと切られた感じがした。本作で二人はどうなっていくのだろうか。やはりフィリップが言ったように、彼の介護はドリスの一生の仕事ではない、ということなのだろうか。であるなら、本作の下敷きとなった2人が今も一緒に居ることをどう評価すればいいのだろうか。たしかにドリスは介護の分野で仕事をしてきたわけではないが、作品としてのけじめのつけ方としては不満が残った。

 いずれにせよ、間違いなくEW&Fの曲が聴きたくなる。ダンスシーンでは涙がこぼれそうになった。

2012年9月10日月曜日

ガチになって見えるもの・分かること――『AKB48白熱論争』を読んで



まず推しメンを見つけては 

 話題になっている『AKB48白熱論争 (幻冬舎新書)』を読んだ。

 単にAKB48についてファンが「俺はここが好きだ」「推しメンのここがいい」とか話してるわけではもちろんなく、現代日本社会を鋭く分析した一冊だ。だから「AKB48なんて……」と思っている人、バカにしている人にも一度読んでみてほしい。

 おそらく多くの非AKBファンは、

「秋元康がまたおにゃん子と同じことやってるんでしょ」とか
「そんなに可愛くもない素人の女の子が歌って踊ってるだけでしょ」とか

 決めつけているのではないかと思う。
 それを別に咎めるつもりも権利もないけれど、ここまでのブームになったことに対する分析から見えるものは、決しておろそかにできないはずだ。

 ただ48グループやメンバーのキャラについても詳しい言及がされているので、何も知らずに読むよりは、ちょっと下調べしてからをオススメしたい。やはり基礎知識はあったほうが理解は深まるはずだ。

 しかし、そうは言われても「何をどうやって調べればいいのか分からない」という人もいるだろう。現状、興味が持てないという人には、まず推しメンを見つけることを勧めたい。二百数十人もいれば、好みのメンバーの一人や二人いるはずだ。よく「経済に興味を持つためには少額でも自腹で投資をしてみるといい」といわれるが、それと似たようなもの。CDを買うなどの投資をしろといっているのではなく、気になる存在(ウオッチする銘柄)を見つければ、自然とアンテナをたてることになるで、少しずつ興味は深まり、広がっていくはずだ。

 本書で一つ残念なのは、AKBヲタ4人でのみ語られていることだ。「白熱論争」とうたっていて、確かに白熱はしているが、対立するところがあまりないので盛り上がりが一方的な感じはする。おそらくこの4人の論客は、この新書以外のところでそうした論争をやっているのだろうけど。

 一気に読み進める中で、「なるほど」「そういう見方があるのか」と思ったページに折り目をつけていった。その数が結構多くなってしまったのだが、その一部を紹介すると、例えば宇野さんの「カラオケは主旋律を演奏する音ゲー」、「推す」ということに対する考え方、商業主義を追求した結果として生まれてくる多様な民主的表現といった分析、中森さんの「恋愛能力」「セックスよりたちが悪い」といった指摘――などに注目した(宇野さんの指摘については、最後のほうに出てくる「多神教的な世界観と資本主義の結託」についてはちょっと分からなかったけれど……)。

 私自身は、先日ブログで東京ドーム公演で発表された組閣のことを書いたり、プロフィールに「こじはる推し」「さやか推し」と書いたりしてはいるものの、正直大したファンではない。公演だってドームが初めてだし、握手会に行ったり投票したりもしていない。「AKBが好きというより、こじはるが好きだから」とくどい説明をするのだが、それは自分をファンだというのはおこがましいと思っているからだ。
 思うに私は、どちらかというと最近まで「敢えてハマっていた」と思う。そんな私のような“にわか”は、いきなり「まえがき」でガツンとやられる。小林よしのり氏によるまえがきのタイトルがまさに

「あえて」ではなく、「マジ」で嵌る我々

なのだ。そこでは、敢えてハマっているのではなくマジであって、主観にどっぷり埋没しつつも、客観的に観察し、分析する力も持っている、と宣言している。まえがきに続く本編も、まさにそう評価できる内容だった。

 本書を通して驚かされたのは濱野さんのガチヲタぶりだが、あとがきのチームK沖縄公演の話がとてもよかった。感動した。それは一人の男性の情念が、冷めていた雰囲気を変えてしまったというエピソードだった。
 AKBといえば、「努力は必ず報われる」と述べ、懸命に努力する姿が印象的なたかみなが代名詞的存在だ(総監督だし)。AKBにはファンにもそうしたアツい人がいるのだ。

 アツい人、アツい発言を「何アツくなっちゃってんの」とシニカルに笑うのは簡単だ。
 でもそれでは何も生まれない。
 何事もやるからには、アツく、マジで、ガチでやらなきゃイカンと改めて思った。それは何も仕事や勉強といった、自分の将来に関わることだけに限らない。自分が大切だと思っていることであれば、周囲が考える「事の大小」ではなく、マジでやらなきゃイカン。マジで考えなきゃイカン(でなきゃ「好き」とは言えないのかもしれない)。




 AKB48はこれからも変化し、進化し続けると思う。今のAKB48と半年後、1年後のそれは大きく違うはず。つまり彼らには語るべきことがこれからも生まれてくるということ。節目節目にこの座談を聞いてみたいと思った。

2012年8月31日金曜日

あきちゃ、さえ、はるごん、まりやんぬを推す――その移籍は左遷じゃない





「左遷」って何だ「左遷」って

 AKB48初の東京ドーム公演で、メンバーのチーム移籍など異動(組閣)が内示されました。推しメンのこじはるがAからBに移るというのもちょっと驚きでしたが、それ以上にあきちゃのJKT移籍(兼任ではなく移籍。仲川遥香と)、さえのSNH移籍(同じく。鈴木まりやと)にはかなり驚かされました。彼女たちのブログを見ると「自分で決めた」などとまことしやかに書かれていますが、本当のところは分かりません。

 それよりも、本件についてここで書きたいのは、移籍を「左遷」と表現することに対して違和感を覚えたことです。「笑えんのかな僕達は」ということ。

 そういう言い方をしたほうがネタとして面白いのは分かります。芸能界の住人ならネタにされてナンボでしょうから、「頑張ってきて」というエールばかりでなく、「左遷されてやんのw」という揶揄もあっていいでしょう。しかし、私がそう感じた理由は、「左遷」という言葉を使っている人の中に、「東京しか認めない」という狭量な考え方があるのではないかと思ったことです。そして、そこには「東京にいれば大丈夫」という根拠のない安心感が見て取れる気がして、とても危うく感じるのです。

 アジアでは日本の芸能界は注目されていますし、日本の芸能界は東京中心であることは間違いありません。ただ忘れてはいけないのは、もはや「アジア=日本」ではないし、一昔前ほどには、日本や東京に対する求心力はアジア各国においてなくなりつつあるということです。それは芸能界に限らず、です。

 現状において、東京の芸能界から上海やジャカルタに行くことは、ギャラや待遇の面でもランクが落ちてしまうのは間違いないでしょう。いくら中国が景気がいいとはいえ、東京での活動ほどは収入は得られないと思います。その意味において「左遷」という表現は間違っていない。
 ただし日本の、東京の経済力や影響力がこれからも続くとは限りません。
 その国の芸能界の規模や経済力はおそらく、国全体のそれと比例しているのではないでしょうか。だとするならば、経済規模が縮小している日本の芸能界、東京の影響力は小さくなってきているし、これから大きくなるとは考えにくい。

もし機会が与えられたとして、お前はジャカルタで勝負できんのか

 本件についてネットでわいわい騒いでいる僕たちにとって、日本は物心ついたときから豊かな国でした。74年生まれの僕はバブルを知りませんが、ちょっと上の世代はそういう時期を知っていてます。下の世代はバブルは知らないとはいえ、食う心配なんてしなくていい、まったり豊か(贅沢はできないけど)みたいな環境で生まれ育ってきたと思います。


 しかし状況は変わりました。失われたウン十年という言葉を出すまでもなく、今の日本は過去の貯金で何とか食えている状況といっていい。一人当たりGDPはもう数年前にシンガポールにも抜かれています。ここ数年、韓国人はもう日本なんて見てないし、中国人だって日本よりアメリカか母国を選ぶようになっています。日本しか知らない自分たちには思いもつかないほど、日本や東京のプレゼンスは下がっています。

 そんな中で、大学進学と言えば東大とか六大学、就職といえばはJTBだ邦銀だというドメスティックな視点しかない人たちが、JKTやSNHへの移籍を「左遷w」と笑っているのだとしたら、笑止千万、片腹痛し。余計な世話であることは承知していますが、笑えません。

 ジャカルタや上海は、確かに現時点では東京より「下」なのかもしれません。しかし「上」になっていく大きな可能性があります。「上」にならずとも、相当プレゼンスを高める可能性を秘めています。そもそもインドネシアの人口がどれくらいいるのか、経済規模がどれくらいなのかを知った上での「左遷」発言なのかということも言いたい。

 ジャカルタや上海に行っても食っていける、勝負できる人間でない限り、「ワロタ」は単なるごまかしです。中には「自分だったら行かないわー」というコメントを残している人もいましたが、全然笑えないんです、そういうの。

 ネタにしてる余裕は、日本にも東京にもない。そういう緊張感・危機感が必要です。

海外移籍する4人を推します

 理由や本心はどうあれ、「左遷」と言われても仕方がない異動を受け入れた4人を、僕はこれから推したいと思います。やっぱり言葉の通じない国に行って、フロンティアとして開拓する役って大変だと思うからです。

 彼女たちは、AKBではトップになれなくても日本の芸能界で残れるかもしれません。名刺に「元AKB48」って書くこともできるし。4人とも、とは言わないまでも、あきちゃとさえは選抜でも17位と11位に入っていますから、何とかなるかもしれません。
 ただ彼女たちは、それではダメだということが分かっている。そんなのでは食えて数年だろうし、大きなことはできない。自分を成長させることはできない。それが分かっているのです。自分が芸能界に残るには48グループに残ったほうがいいと判断し、そのためには外国に行くしかなかった……。そういう消極的な理由が本当のところなのかもしれません。

 それでも、とにかく彼女たちは厳しい道を受け入れて、自分にできることをしようとしている。
 これは48グループにとっても大きな転換点になるはずです。「元AKB」として、数年を楽しくアイドルとして過ごすラクな道を選ばなかった彼女たちは、その重責を知っていると思います。そんな彼女たちは、きっと大きな成果をあげてくれるはずです。


 さしこがHKT兼任になった時、僕は、彼女にとってもHKTにとっても意義のある、前向きなことと感じました。むしろ、なぜ皆が「左遷」という意味が皆目分かりませんでした。地域の時代といわれている中で、これまでと同様に東京一極集中でのみビジネスを続けるのではなく、地域・地方において新たな挑戦をすること。そこになぜ後ろ向きな要素があるのでしょうか? これまで難しかったことに挑戦するのは、既にポジションを確立した者の責務でもあります。
 その上で、今回の海外“移籍”は、さしこのHKT兼任というドメスティックな人事以上に前向きで、かつ大きな可能性を秘めた戦略であると思います。なかなか浸透してこないJKTやSNHのテコ入れにつながるはずです。


 能力があって努力できる人は、左遷を栄転という評価に変えられると思います。それを信じられないのは、7人しか観客がいなかったAKBがドームに連日5万人弱を呼べる日がくるのを信じられないのと同じことだと思います。



 ということで、これから推しメンは、AKBがこじはる、NMBはさや姉、HKTはさくら、JKTがあきちゃとはるごん、SNHがさえとまりやんぬ、ということで一つよろしくお願いします。 



劇場版『1830m』
Disc-2のM-7
アボガドじゃね~し…」
渡辺麻友、指原莉乃)が好きです。

2012年8月17日金曜日

同性愛は悲恋か――ブーム(?)の「ゆり」作品を読む

「GIRL MEETS GIRL」の話を
読んで比較してみよう



 「ゆり」がブームだ。

 「ゆり」という言葉に対する是非はあるだろうし、その定義もさまざまなのだろうが、ともかくTVアニメ「ゆるゆり♪♪」が人気になるなど「ゆり」という言葉は広がってきている。別にこのアニメは私の好みではないし、ブームになったからという訳でもないのだが、何となくこのジャンルが気になっていた。
 ちょうどそんな時、『コミック百合姫』(隔月刊?)が半額くらいになっていたので買ってみた。


『コミック百合姫 2012年 09月号』

 パラパラとめくってみて思ったのは、一口に「ゆり」といっても「女性同士の恋愛物語」とはいえ、いろいろなタイプがあるようだ。また自分が「『ゆり』ならどんなタイプでも面白いと感じる」というほどこのジャンルに傾倒しているわけではないことだ。もともと読むマンガを絵柄で絞り込むほうでもあるので、本誌も全部は読めなかった。興味がそそられないのだ。

 しかしこれを手に取ったのは、
 「女性が同性を好きになる話」をいろいろと読んで比較してみよう
 と思ったからだった。




 思い起こせば、吉田秋生さんのこれらの作品群は昔からお気に入りだし、



 最近中村珍さんの『羣青』も腹に重たいものを感じながら、深く考えながら読んだばかりだし(
。特に登場人物が「差別と理解は似ている」「差別と理解は同じ」という言葉には考えさせられた)、



 これまた振り返れば『猫背の王子』を読んで以来、中山可穂さんの小説も好き……、



 ということを思い返すにつけ、どうやら自分が「女性が女性に恋に落ちる」という状況に強く惹かれることに気付いた。厳密に言えば「同性愛」でなければいけない訳ではなく、「悲恋」が好きなのかもしれないが、この際、そうした物語をいろいろと鑑賞してみようと思ったのだ。
……と書く時点で、「同性愛=悲恋」という図式を作ってしまっていることが分かるが、とまれ、まず読んだのがこれだ。


『オクターヴ』(秋山はる)

 これは全6巻で読みやすい。セックスの描写はあるけれど、ドギツくない。女性同士の恋愛を描いたマンガは学生が主人公のものが多いなかで、これはちょうど大人になりかけの女性と大人の女性との恋愛の形を描いていて、ほかとはちょっと違う。主人公の男性に対する感情の揺れ動きや葛藤がもっと描かれていたり、障害がもっと生まれていたりしたらいいのに、と思った。



『ロンリーウルフ・ロンリーシープ』(水谷フーカ)

 これは全1巻。絵柄がかわいく読みやすい。誕生日が1日違いの同姓同名の女性同士の恋。お互いに自分の思いを抑え込もう抑え込もうとしてたら、あっという間に終わってた感じがする。あっさりしすぎてる感じ。まぁ私が厳しいハードルを求めすぎているのかもしれないが。当初からこの話数で終わる予定だったのかどうか分からないので何ともいえないが、このジャンルでは2人の間だけで話が進んでしまう傾向が強いのではないだろうか(まだあまり読んでないうちに断言はできないが)。

 そして今読んでいるのがこれ。


『かしまし』(原作 あかほりさとる/作画 桂遊生丸)

 ちょっとトンデモな感じだが、もともと男の子だった主人公が宇宙人のせいで女の子になっちゃって……というストーリー。絵は好みで、4巻まで読了。ここに載せた5巻の表紙から見て取れるが、中心が主人公で、左右の2人の女の子との間で揺れ動く話。主人公は男の子時代から、フェミニンな感じだったようで、いきなり異性に替わってしまったことに対する葛藤はない。全巻読んで改めて総括してみるつもりだが、演出(コマ割り?)なんかがドラマティック。少女漫画的。

 最近は小説などでもこうしたトンデモ設定を前提としたストーリーがあることだし、「宇宙人のせいで」というようにギャグっぽくせずとも舞台設定はつくれたのではないだろうか。これならドラマにできそうな気がする。

 次に読もうと思っているのがこれ。


『GIRL FRIENDS』(森永みるく)

 たまたま見つけたブログで、恋愛モノとして最高とレビューしている方がいたので気になっている。まだ1冊も読んでいないが、果たして。

 あと途中まで読んでいるのがこれだ。


『青い花』(志村貴子)

 本当は有名なこれを最初に読み進めるべきだったと思っているのだが。舞台設定など、かなり『櫻の園』ぽい感じがしている。現在3巻まで読了。一通り読んでからこれも感想をまとめてみたいと思う。


「学生が主人公」が多い理由/
異性愛を検討せず同性に惹かれること

 この『青い花』などを読むにつけ思うのは(上にも書いたが)、「学生の話」が多いということだ。

 アニメを鑑賞しはじめたのだが、


『マリア様がみてる』

 これも舞台は学校だ。

 たしかに「女子校」は「女性しか出てこない」という舞台を設定する上で便利だということはあるでだろう。
 それに、主人公たちが学生や十代という作品・学校を舞台にした作品は、何も同性同士の恋愛話に限ったことではない。異性同士の恋愛を描いた作品にも多い。恋愛経験がまだ乏しいからドラマを生じさせやすいことや、誰もが学生時代を経験していることもあって感情移入もしやすいことが理由だろう。
 こんな気持ちになったことはないだろうか。好きになった人のことしか考えられず、その気持ちが永遠に続くような――。しかし現実にはいろいろな障害が起き、気持ちがふとしたことから離れてしまうことは珍しくない。そこでドラマが生まれる。恋愛相手が同性だろうが異性だろうが、登場人物の気持ちを揺れ動かしやすい世代は描きやすいのだろう。

 しかし、いくつかの作品を読んでみて特徴的に感じたのは、登場人物が男性が好きなのか女性が好きなのか“まだ”分かっていない人がいるということだった。「男性との恋愛」を経ずに「女性と恋愛」するキャラクターが存在するということ。「男性と付き合ってみて違和感を覚えた」とか、付き合わないまでも「男性を恋愛対象として考えてみたがダメだった」など“考える”という行為を経たとかいうこともなく、自然と女性に惹かれたという形だ。例えば『オクターヴ』や『青い花』がそれだ。『かしまし』もそうかもしれない。

 私は何も「女性に対する気持ちは恋愛ではなく憧れであって、最終的に男性を好きになるもんだ」と言いたいわけではない。「男性を意識してみた後でないと、女性に対する意識が本物かどうか分からない」というつもりもない。

 しかし、今後こうした作品を読んでいく上で、「恋愛感情」のベクトルが“異性ではなく”同性に向かうきっかけや過程については、(自分が異性愛者であることが実によく分かる視点だが)特に注目したい点と感じた。ここで感想を簡単に述べた作品も含めて、もう少しいろいろと読み進めて分類や分析をしてみたいと考えている。

2012年8月9日木曜日

パチンコ 何とも日本らしい存在――『パチンコのすべて-サルでもわかるココだけの話―』を読んで



建前・体面重視の日本社会的の縮図
T・U・Cショップ含む「三店方式」


 都内でパチンコ店のそばには必ずあるT・U・Cショップ。あれを見るたびにつくづく、「パチンコ」というものの“不遇さ”を思わずにいられませんでした。

 私はパチンコはしませんし、何も擁護するつもりはありません。大した知識もありません。ですが、T・U・Cショップに行けばパチンコの出玉をお金に換えてくれるということくらい知っています……と書くと誤解になるということも。つまりパチンコ店での出玉の換金はNGなので、店は客に出玉と引き換えに何かしらの景品(特殊景品)を渡してくれる。客がその景品をT・U・Cショップに持って行って、そこで初めて換金できる、ということくらいは知っています。

 ただまぁ要は、実態としてパチンコの出玉を現金に換えることはできるわけですから(パチンコ店内ではありませんが……といいながら、これは驚きだったのですが、本書によると店内で換金できる県があるそうです)、T・U・Cショップの存在は、日本的な建前を重んじる社会にそぐわしい、象徴的な存在だなぁと、不思議な感覚を覚えながら見ていました(実際、パチンコは日本独特の文化のようです)。


 ところでパチンコについてはずっと気になる存在でした。人気のコンテンツはすぐに「CR~~」とパチンコ台になる。CR新世紀エヴァンゲリオンとかCR北斗の拳とか……ミュージシャンが台になることもありましたし、「えっ、そんなものも?」という台もあったように思います。「メーカーは必死になってコンテンツ探してるんだろうなぁ」としみじみ思っていました。
 TVでも、昔はパチンコ・パチスロ機メーカーやパチンコ店のチェーンのTVCMなんてなかった気がしますが、最近は目立っています。有名女優やタレントがパチンコ店チェーンのオーナーと熱愛とかいうニュースもたまに聞いた記憶があります。
 一方で、『闇金ウシジマくん』(TV版)で債務者がパチンコをよくやっているように、借金とか生活保護とか、そういう言葉と一緒に語られる。昨今、生活保護の不正受給が報道されるにつけ、ますます気になる存在となっていました。

 ですので、本書を書店で見かけた時に興味をひかれ、すぐに手に取りました。
 結論からいえば、パチンコについて知らない素人がおそらく不思議に思うであろうことを、分かりやすく解説している、入門にピッタリの一冊でした。とても面白かった。パチンコ店の経営や業界で動いているお金の規模感がつかめるし、知らず知らずにパチンコに対して持っていた思い込みが覆されました。筆者ら(共著)はパチンコのジャーナリスト、ライターなどとしてその業界で食っている存在ではありますが、業界に寄り過ぎた感じもしませんでした(ただ、ヒステリックなパチンコ否定論には辟易している感じが面白いように見て取れました)。


 ところで上に書いたような、パチンコ店で直接お金を渡さないシステムは「三店方式」と呼ばれるそうです。なぜこういう仕組みなのかといえば、風俗営業法第23条で、遊戯場営業者は「現金又は有価証券を商品として提供すること」「客に提供した商品を買い取ること」を禁じてられているから(違反すると6カ月以下の懲役もしくは100万円以下の罰金)なのですが、さらに詳しくは本書を読んでいただければと思います。
 ただこの面倒な仕組み、適法性については議論があるそうです。「そりゃそうだろう」と思いってしまいますが、パチンコ店チェーンが上場できていないのはその証拠と言われているそうです。ニュース


 本書は面白かった。だからといってパチンコをやってみたいとは思いません。しかしIPOの件数が減ってしまった今、将来においてパチンコ関係企業の上場が認められるようになるのか、TVCMなどの広告活動の行方がどうなるのかなど、経済に与える影響について注視しておきたいと改めて思いました。もちろん、そもそも適法性について疑義が提示されている訳ですから、その議論が今度どうなっていくのかも気になります。公営カジノについてはちょっと関心があるのですが、パチンコの存在についてもあわせて語られるべき論点でしょうから、この点も気にしておきたいと思います。

 いずれパチンコ否定論についても読んでみることにします。

 ところで「T・U・C」って何なんだろうと思ってウィキペディアをみたら、「東京商業流通組合」の事業部門である東京ユニオンサーキュレーション株式会社(Tokyo Union Circulation)の略とのこと。へー。
 あと本書の副題はイマイチな気がしました。「サルでも分かる」と「ここだけの話」は両方ともありがちな、“とってつけ”の文言。それをさらに重ねているのが「うまくないなぁ」と。

2012年7月28日土曜日

子どもがいるから、泣かなかった――『おおかみこどもの雨と雪』を観て


©2012『おおかみこどもの雨と雪』制作委員会

「泣く終わり方」ではないと思った

 『おおかみこどもの雨と雪』を観ました。知人から聞いていた通り、いい作品でした。不満もなくはないですが、『ダークナイト ライジング』とあわせて今夏注目すべき作品といっていいでしょう。先に観た知人の感想と自分の感想との間で気づいたことがあるので、そのあたりをちょっと(短く)書いてみたいと思います。

 私は事前に、細田監督が「今の日本が感動を求めていることに気付いて制作した」というような話を聞いていましたので、若干、斜に構えて観てしまったきらいはあります。それを踏まえてここで書きたいのは、「本作が泣ける/泣く作品かどうか」という点です。

 知人の女性が上演終了後に号泣したと書いていました。そのため、よほどの感動作なのだろうと構えていき、実際私も涙がこぼれそうになりました。雪が草平にあることをしてしまい、迎えに来た花に車中で謝るシーンは、さすがにこらえきれませんでした(これは自覚しているのですが、私は「子どもが自分の非を認めて謝る、特にその非の原因が致し方なかったり、情状酌量の余地があったりする」シチュエーションにきわめて弱い)。

 ですが、正直終わりでは泣けませんでした。というか終わりまで観て、「これは泣く話じゃない」と思いました。こう書くと、泣いたという女性を否定しているようですが、そんなつもりは毛頭ありません。感じ方は人それぞれですし、作品全体では、人の涙腺を弱める感動作といっていいので、自然な気もする(ところで別の知人男性は本作を観て全然泣かなかったそうです。それには一瞬驚きましたが、それとておかしいとは思いません)。
 私が泣かなかったのは多少のやせ我慢もあるでしょうが、ただ彼女と自分との違いが興味深いなと思いました。

 実はこの女性とは別に、アニメに造詣の深い知人の男性ライターが、「子持ちの人の感想を聞きたい」というようなツイートをしておられました。そうした視点を持って臨んだ私が感じたのは、

 「自分は子どもがいるからこそ泣かなかった/泣いちゃいけないと思ったのではないだろうか」

 ということです。なぜか。若干ネタバレします。

「私、まだあなたに何もしてあげてない」

 本作は最終的に、雪と雨がそれぞれの道をいきます(雪が寮に入るとかで花から離れてしまうのは、若干唐突な感じもしましたが、距離的な問題から致し方ないのかもしれないとしましょう)。問題は雨です。彼が人間界を離れるのは、これはとてもかなり切ない話ではあります。花はきっと、雨にも父のように人間界で生きて行って欲しかったはずですから。
 ですが、子どもはいつか離れていくものです。それがちょっと早かっただけ。10歳やそこらで親元を離れるのは、人間からすれば早くはありますが、「その日」はきっと突然くるんです。そしてそれは、花だって分かっている。

 花はわが子が去っていくときに言います。

 「私、まだあなたに何もしてあげてない」

 このセリフにはグッときましたし、考えさせられました。おそらく子どもの側はそうは思っていません。愛情を注いで大切に育ててくれたと思っているはずです(自分がフツーの子どもでもないのに……)。一方の親の側にしてみれば、子どもに何をどれだけしたところで、「まだまだ、全然してあげ足りない」と思うものなのではないでしょうか。

 花の辛さはよく分かります。いつまでも子どもには側に居てほしいものです。でも、早かれ遅かれ、子どもはいつか自分のもとを離れていきます。森になど入らず帰ってきて欲しい。自分のそばにいて欲しい。いつまでも一緒に居たい。
 でも、そういうわけにはいかない。なぜなら、他ならぬ子どもが自身で決めた道に進もうとしているからです。だから花は最後、雨を笑顔で見送ったのではないでしょうか(花の場合は、「いつも笑顔でいるように願いを込めて名付けられた名前だ」というフリはありましたが、たとえそれはなくても、最終的に親は子どもを笑顔で見送るはずです)。子どもはいつか独り立ちしていくのです。それは、寂しいけれど嬉しいことなのです。

 私の場合、子どもはまだ未就学児で、たいそうな覚悟をもっているわけではないでしょう。しかし、それでも心のどこかにそういう気持ちがあるからこそ、泣かなかったのではないか、泣いちゃいけないと思ったのではないだろうか、と考えました。
 いつかこの子たちは自分のもとを去っていく。その時、子どもたちが「その道に進んで欲しくないなぁ」「こういうふうになってくれないかなぁ」といった私のエゴを満たす進路をとるとは限りません。そこで自分としては「ダメ」「こっちに進みなさい」と言わず、しっかりと本人の覚悟を確かめた上で、涙をこらえて送り出さなければいけないと(本当にできるかどうはその時にならないと分かりませんが)思っているから、泣いちゃいけないんだって思ったんだろうと。
まぁ、子持ちの方が全員そう考えるとは思いませんし、子どもがいないと分からないというようなことを言うつもりもありませんが。

マイノリティとして生きること

 またこの映画の設定で特異な点といえば、もちろん子どもが人間と狼の子であるということです。この点について考えたことは、「マイノリティとして/家族に持って生きること」です。
 たとえば子どもが何らかの障害を持っていたとする。身体的なもの、精神的なもの、いろいろあるでしょう。中には、生物として生きていくのが大変な障害もあれば、生きていく上では何も問題はないけれど、「周りと違う」ということで苦労することもあります。

 そうした子どもを持った親の気持ちということをちょっと考えました。さすがにおおかみとの間に子どもを持った方は居ないのではないかと思いますが、上に書いたような障害、周囲と違う子を持った親は珍しくありません。偏見を承知でいえばLGBTもマイノリティである以上、ここに含まれると思います。

 もし自分が花の立場だったら、どうしただろうかということは考えました。自分もああして「人目を避けるように山奥に行くかもしれないな」などと考えました。でもだからといって何かを恨んだりくじけたりはしないだろうとも思いました。子どもがお友達と違っても、そのことを辛く感じない子に育てなければいけなません。でもまぁ、それだって、ただそれだけのことです(「簡単にいう」と思われるかもしれませんが)。

 最近、親の子どもに対する愛というものの絶対性を疑わざるを得ない話や、LGBTに対する考え方や処遇の実態を聞くにつけ、こうした関係性について考えさせられていたので、本作については、いろいろな立場からの意見を聞きたいと思いましたが、このテーマについては長くなりそうなので、また別の機会に考えてみたいと思います。



 ところで、先日鑑賞した映画『聴こえてる、ふりをしただけ』は女性監督で、妻が死んで夫が打ちひしがれる作品でした。そしてこちらは、男性監督で、夫が死んで妻がたくましく生きていく話。


「男って……orz」と思わざるを得ませんでした(苦笑)。

2012年7月14日土曜日

『職業としてのAV女優』を読んで――なぜAV女優に美人が増えたのか


非合法なのに撮り続けられる理由


 『職業としてのAV女優』(中村淳彦、幻冬舎新書)を読んだ。BLOGOSでもレビューを書いている方がおり、その記事もかなり注目されたようだ。たしかに本書は面白かった。
 まず新鮮だったのは、「女性を確保して本番の撮影現場に斡旋するのは非合法だからである」と言い切っていることだった。
あぁ、やっぱりそうなのか……。
 さらに本書は、(モデルと斡旋、本番撮影は)見方によっては売春防止法に抵触する“公共の福祉に反する行為”で、あらゆる労働関連法に違反していると考えられると指摘している。言われてみればそうかもしれないが、よくよく考えてみたことがなく、意外と納得してしまった。

ではなぜ、非合法なのに撮り続けられているのかというと、
AVは警察関係者を確保した審査団体のフィルターを通して「合法」の建前を整えてから流通されるので、AV業界全体がソープランドやパチンコと同じく、今のところ「必要悪」として成立しているからである。(p56)
という。これまたなるほどだ。

 本書を読む以前に、AV女優にはランクがあって「単体」「企画単体」「企画」があるということくらいは聞きかじっていた。だがここではそれぞれの具体的な違い、ランクアップ、ダウンの仕組みなどについても詳しく解説されていて興味深い。

転換点は98年の『ルームサービス 小室友里』

 AVは多くの男子にとって身近な存在でありながら、製作の仕組み(制作ではなく)や業界発展の歴史など、知られていない(であろう)ことが結構ある。私は38歳だが、アラフォー以上の年代の男性がここ数年のAVについて感じているのは、
 「一昔前と比べてAV女優が可愛く、きれいになった」
 ということではないだろうか。昔だって可愛くきれいなAV女優はたくさんいたのだろうが、今はそれこそAKB48などのトップアイドルグループに居てもおかしくない(AKB48メンが可愛いかどうかはさておき)くらいの子がたくさんいる。
 人前で裸になるのは恥ずかしいし、できれば避けたいものだろう。偏見と言われるのを承知でいえば、AV女優になりたくてなっている人は少ないのだろうと思っていた。だから、それこそ可愛い子がなっていたりすると、よほど変わった性癖の持ち主なのか、稼がなければいけない事情があるのか……そんな見方をしていた。
 だがここまでキレイで可愛い子ばっかりだと、そんな古い見方であろうことは容易に想像がつく。業界は明らかに変わっているのだ。だがなぜAV女優のクオリティは上がったのだろうか。業界は変わったのだろうか。
 この点について本書は、変化の歴史についても解説している。変化の始まりについてはこう説明している。
AVの変貌は98年、ユーザーが本当に欲しい物を実現化させてセル流通させた「ルームサービス 小室友里」(99年にわいせつ図画として摘発)の発売に始まり、07年8月にビデオ倫理協会が強制捜査を受けて摘発されたところで終わっている。約10年程度を費やして変化を続けたAV業界は、人材や法人の多くが入れ替わり、それ以前とはまったく異なる別の世界になってしまった。(p122)
 この後、AV制作に関わる人たちがどう変わったか、スタッフや裏方など関係者が変わったことによる影響などについても書かれており、ここも興味深い内容だ。本記事のサブタイトルにも書いたが、なぜ美人が増えていったのかについても本書には納得の説明が記されている。

 また本書は、AV女優に対して、「過酷な性搾取をするAV女優という職業が女性を壊している」といった論調があったと書く(p92~)。しかし同時に「それは大きな間違い」と断じている。本書によればむしろ逆で、
居場所のない病んだ女性が、困難の中で生きているうちに何かのきっかけでAV女優に漂着したとする。いざAV女優になてみると撮影現場では絶対的に必要とされる主役であり…(中略)…誰かから必要とされたことで社会性が生まれて症状が治癒したり、重い症状を背負っていてもAV女優として活躍している間はおさまって…(p93~)
 ということらしい。
 だが問題はその後だ。AV女優は一般の仕事のように経験やスキルを活かせて継続性のある仕事ではない。一度「自分は必要とされている」と感じた女優が、仕事がなくなる、つまり必要とされなくなることが耐えられなくなる。だからそうした症状が以前よりも悪くなってしまう、ということはあるようだ。
セックスをするAV女優という仕事が精神を蝕むのではなく、その居場所を喪失する不安や焦りが精神状態を悪化させるといえる。(p94)
 と筆者は解説している。

 このほかにも、「へぇ」「なるほど」と思った記述は何か所もあった。一部抜粋すると、
一部のNPO法人に「売春を貧困女性のセーフティネットに」という動きがあり、アウトローの専売特許であった性風俗への斡旋やモデルプロダクション業務に、将来的にNPO法人が乗り出してくる可能性がある。(p116)

ビデ倫審査作品と自主規制(ビデ倫以外)作品の大きな違いは、ヘアとアナルの露出である(p126)。
 といったところだろうか。

 一気に読み進める中で、筆者が最後どう締めくくるのかが次第に気になった。
 「おわりに」で筆者はこう書いている。
現在AV女優のほとんどは仕事を「刺激があって楽しい」と言う。その言葉に嘘はないが、そんな異様な刺激がなくては生きていけないカラダになってしまったら、その先の人生を普通にいきていくことができないかもしれない。個人的に、生涯AVや風俗に関わることがない人生の方が幸せであると思う。(p236)
 !!!

 「名前のない女たち」シリーズを手掛け、数多くのAV女優を取材してきた筆者が最後に、「関わることがない人生の方が幸せであると思う」と結んでいる……。どうだろう、このやるせなさ。複雑ぶり……。この職業の、この業界の業の深さ(?)に思いをはせずにはいられなかった。