2012年10月5日金曜日

人生に必要なのはパートナーであり、出会いは獲得し育てていくものだ――映画「最強のふたり」を観て

© 2011 SPLENDIDO/GAUMONT/TF1 FILMS PRODUCTION/TEN FILMS/CHAOCORP


差別たらしめるもの

 映画「最強のふたり」を観た。

 実話を下敷きにした作品だそうで、既に大ヒットしているのでご覧になった方も多いと思う。最初ポスタービジュアルを見て食指が伸びなかったのだが、Twitterで複数の人が勧めていたので観ることにした。今となっては観てよかったと思う。とても面白い、いい作品だった。

 話の筋はこうだ。

 大富豪のフィリップはパラグライダーの事故で首から下が麻痺しており、動かない。その介護役として採用されたのが、服役経験のある黒人青年のドリス。彼は失業手当をもらうため、就職活動をした証拠として、不採用になるために介護役の面接を受けたが、なぜか採用されてしまう。採用は不本意だったドリスだが、フィリップの挑発に乗り、自宅に居場所がないこともあって介護役を引き受ける。奔放なドリスはフィリップの障害にもお構いなしだが、フィリップはドリスを気に入ったようで、彼に影響されてどんどん変わっていく……。

(以下多少ネタバレします)

 本作は、主人公の2人の構図からして差別というものを意識せずにはいられない。金持ちで良識のある白人と、貧乏で粗野な黒人。辟易する人もいるであろう、ステレオタイプな設定ではある。そのフィリップは重度の障害を持っており、同性愛者も登場する。ナチスさえジョークで扱われる。差別イシューのオンパレードだ。

 言うまでもなく、差別は難しい問題だ(ことさら難しく考えよう、取り扱おうとする意識と行動こそが問題を難しくしているという指摘もあろうが)。問題として受け止めるほどに、自覚的になればなるほどに腰が引け、かえって(無自覚に)差別する結果となる。人との違い、自分との違いを単なる“違い”として、個性として受け止めるべし――などと言われるが、言うは易く行うは難し。ある言動を差別と考えるかどうか線引きは人によって異なるし、不快に感じる程度も人による。差別と認めながらも許す人もいる。一概にこうとは言い切れない部分が多すぎ、多くの場合、untouchableなマターとして取り扱われる。さわらぬ神にたたりなし、というやつだ。

 本作の魅力はドリスの人間としての魅力に尽きるのだが、彼は差別の対象となりえるものを特別扱いしない。いわゆる差別的な言葉を吐き、行動をとるのだが、彼はフィリップを特別扱いせず、自然に接している。常識的な大人であれば眉をひそめるような言動をしても、なぜかフィリップはそれを悪く思わない。その理由をフィリップは述べている。

 「彼は私に同情していない」――。

 同情と共感の明確な違いは知らないが、それは「可哀想」という感情の有無ではないかと思う。「可哀想」とは何なのか。自分を“上”に、相手を“下”にみて、それを押し付けることではないか。いくら自分が相手を「可哀相」だと思っても、相手は自分のことが可哀相だと思っているとは限らないわけで、勝手に優越感(罪悪感)にひたるのが同情だとは言えないだろうか。そしてドリスはフィリップや、その他、差別されるような境遇にある人に対して、そんな勝手な感情を持たないのである。

人間関係には様々な形がある。デリカシーが求められる、緊張感あふれる関係もあれば、気の置けない関係もある。お互いが相手に何を求めるかはそれぞれだから、人の組み合わせの数だけ、関係のあり方が存在する。
 その点ドリスは、相手に合わせて、相手の顔色をうかがって自分の対応を決めるようなことをしていない。自分のありのままを相手にぶつけている。相手がどういう状況、どういう考えであれ、また相手が自分を受け入れようが入れまいが、彼は変わらない。相手に受け入れられようとすることが必ずしも良い結果につながるとは限らないのだから、どうせなら気などつかわず、思うように振る舞えばよいのだが、そうできないのも人間の性、弱いところだ。
 
 私はドリスの素直さをとってもうらやましいと思った。おそらく自分なら、フィリップに気をつかい過ぎて、窮屈に思われ、すぐに解雇されてしまうだろう。何かにマジメに取り組むことを卑下するつもりはないが、それが必ずしも正解とは限らないのだ。彼はとても素直に、人と接することができる。彼には自分をカッコよく見せようとか、いい人と思われようとか、背伸びしようとする気持ちがない。その強さに憧れる。

出会いがないなんて嘘だ

 ところで本作のような“バディもの”は古今東西多数存在する。たとえば「48時間」、日本のTVドラマ「相棒」、女性なら「テルマ&ルイーズ」、アニメなら「TIGER&BUNNY」などがそうだろう。いみじくも今「夢売るふたり」という映画も公開されている。「ふたり」はアリだが、「さんにん」ではダメなのだろう(そういえばMARVELのヒーローにはバディものはない…アメリカ人の好みじゃない訳でもないだろうが……)。
 このように古くから「2人」の関係性をフィーチャーした作品は多い。その理由は、人は常に、信頼できる、運命のパートナーともいうべき存在を求めているからではないだろうか。

 いま結婚をする人が少なくなっているという。別にそれを咎めるつもりはないし、法律上の結婚という形式にこだわらないカップルが増えているだけかもしれない。婚姻数がどれくらい減っているか、なぜ減っているかは分からないが、もし減少が事実だとすれば、みな結婚していないからこそ、心のどこかでそうしたパートナーを求める気持ちがより強くなり、本作のような作品が一種の憧れ、うらやみの対象としてみられ、支持されるのかもしれない。

 「パートナー」が同性か異性かの違いは大きいだろうが、誤解を恐れずいえば、結婚した男女がいつまでも異性として相手を意識続けるわけでもなかろう。その意味では、同性であれ異性であれ、人は「運命のパートナー」を求めていると言える。積極的に探しているかどうかは別だ。心の奥底では、そういうつながりを、そういう関係を築ける人を求めている。それは結婚相手かもしれないし、本作のように介護者・被介護者という関係かもしれない。

 「さんにん」ではいけない。なぜなら3人になった瞬間に、自分が思う相手が、自分よりもう一人を選ぶかもしれないからだ。お互いに、相手は自分だけという状況になるには、「ふたり」でなければいけない。

 なぜ結婚する人が減っているのか、その理由はいろいろあるだろう。社会の変化に照らし合わせ婚姻制度に無理が生じている。コストがかかりすぎる。内縁関係がとやかく言われることがなくなった……。とはいえ、誰もが、「どうしても一人で生きていきたい」と思っている訳ではない。心のどこかでふれあい、寄り添うことを求めている。
 そうしたパートナーとの出会いは、自ら獲得しなければいけない。そして育てていかなければいけない。本作では偶然の出会いが2人をつないでいる。しかし、そこに至るまでに、フィリップは長年自分に注がれ続けた同情の目線に辟易しており、その状態が続くことに嫌気がさしていた。フィリップはドリスに出会う以前に、何人ものパートナー候補と会い、時間を過ごし、見切りをつけてきた。そして、冒険してみようと思った彼の一歩(ドリスの採用)が、図らずも最良のパートナーを見つけるきっかけとなった。ドリスを選んだのはちょっとした気まぐれだったのかもしれないが、その行為があってこそ、二人は出会えた。

 何も3.11以降の絆うんぬんをここで言いたい訳ではない。そもそも本作は日本でだけ支持されているわけではない。ただそうした関係を誰かと築きたいのであれば、出会いを獲得することをあきらめてはいけない。それに、「新たな出会い」にだけパートナー探しの機会を求めてもいけないのではないだろうか。既に出会っている誰か、すぐそばにいる誰かとの関係を見直し、大切にし、育てていくこと。それも運命のパートナーを見つけるために有効な手立てではないだろうか。
 「出会いがない」なんて嘘だ。「どうせ出会えない」と思っていれば、せっかくの出会いにも気づけない。既に出会えているのかもしれない。明日出会うかもしれない。その相手の存在に気づくためには、準備を怠ってはいけない。止めてはいけない。自分の心があきらめているのに、それでもビビッとくるような出会いがあるかも……なんて、あるはずがない。

 そういうことを考えさせられた作品だった。


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 ところでこの邦題はどうにからなかったものだろうか。原題は『Intouchables』。英語でいえば「UNTOUCHABLE」。 ストレートな訳にするとちょっと重かったろうが、もう少し別の何かはなかったのかと思う。
 演出面では、一旦ドリスがフィリップのもとを離れるところの理由が分かりづらかった。描写がもっとあっても良かったのではないか。あとラスト。唐突にベースとなった実話の2人の画が出てくるが、肝心の本編のほうがブツリと切られた感じがした。本作で二人はどうなっていくのだろうか。やはりフィリップが言ったように、彼の介護はドリスの一生の仕事ではない、ということなのだろうか。であるなら、本作の下敷きとなった2人が今も一緒に居ることをどう評価すればいいのだろうか。たしかにドリスは介護の分野で仕事をしてきたわけではないが、作品としてのけじめのつけ方としては不満が残った。

 いずれにせよ、間違いなくEW&Fの曲が聴きたくなる。ダンスシーンでは涙がこぼれそうになった。