2012年8月9日木曜日

パチンコ 何とも日本らしい存在――『パチンコのすべて-サルでもわかるココだけの話―』を読んで



建前・体面重視の日本社会的の縮図
T・U・Cショップ含む「三店方式」


 都内でパチンコ店のそばには必ずあるT・U・Cショップ。あれを見るたびにつくづく、「パチンコ」というものの“不遇さ”を思わずにいられませんでした。

 私はパチンコはしませんし、何も擁護するつもりはありません。大した知識もありません。ですが、T・U・Cショップに行けばパチンコの出玉をお金に換えてくれるということくらい知っています……と書くと誤解になるということも。つまりパチンコ店での出玉の換金はNGなので、店は客に出玉と引き換えに何かしらの景品(特殊景品)を渡してくれる。客がその景品をT・U・Cショップに持って行って、そこで初めて換金できる、ということくらいは知っています。

 ただまぁ要は、実態としてパチンコの出玉を現金に換えることはできるわけですから(パチンコ店内ではありませんが……といいながら、これは驚きだったのですが、本書によると店内で換金できる県があるそうです)、T・U・Cショップの存在は、日本的な建前を重んじる社会にそぐわしい、象徴的な存在だなぁと、不思議な感覚を覚えながら見ていました(実際、パチンコは日本独特の文化のようです)。


 ところでパチンコについてはずっと気になる存在でした。人気のコンテンツはすぐに「CR~~」とパチンコ台になる。CR新世紀エヴァンゲリオンとかCR北斗の拳とか……ミュージシャンが台になることもありましたし、「えっ、そんなものも?」という台もあったように思います。「メーカーは必死になってコンテンツ探してるんだろうなぁ」としみじみ思っていました。
 TVでも、昔はパチンコ・パチスロ機メーカーやパチンコ店のチェーンのTVCMなんてなかった気がしますが、最近は目立っています。有名女優やタレントがパチンコ店チェーンのオーナーと熱愛とかいうニュースもたまに聞いた記憶があります。
 一方で、『闇金ウシジマくん』(TV版)で債務者がパチンコをよくやっているように、借金とか生活保護とか、そういう言葉と一緒に語られる。昨今、生活保護の不正受給が報道されるにつけ、ますます気になる存在となっていました。

 ですので、本書を書店で見かけた時に興味をひかれ、すぐに手に取りました。
 結論からいえば、パチンコについて知らない素人がおそらく不思議に思うであろうことを、分かりやすく解説している、入門にピッタリの一冊でした。とても面白かった。パチンコ店の経営や業界で動いているお金の規模感がつかめるし、知らず知らずにパチンコに対して持っていた思い込みが覆されました。筆者ら(共著)はパチンコのジャーナリスト、ライターなどとしてその業界で食っている存在ではありますが、業界に寄り過ぎた感じもしませんでした(ただ、ヒステリックなパチンコ否定論には辟易している感じが面白いように見て取れました)。


 ところで上に書いたような、パチンコ店で直接お金を渡さないシステムは「三店方式」と呼ばれるそうです。なぜこういう仕組みなのかといえば、風俗営業法第23条で、遊戯場営業者は「現金又は有価証券を商品として提供すること」「客に提供した商品を買い取ること」を禁じてられているから(違反すると6カ月以下の懲役もしくは100万円以下の罰金)なのですが、さらに詳しくは本書を読んでいただければと思います。
 ただこの面倒な仕組み、適法性については議論があるそうです。「そりゃそうだろう」と思いってしまいますが、パチンコ店チェーンが上場できていないのはその証拠と言われているそうです。ニュース


 本書は面白かった。だからといってパチンコをやってみたいとは思いません。しかしIPOの件数が減ってしまった今、将来においてパチンコ関係企業の上場が認められるようになるのか、TVCMなどの広告活動の行方がどうなるのかなど、経済に与える影響について注視しておきたいと改めて思いました。もちろん、そもそも適法性について疑義が提示されている訳ですから、その議論が今度どうなっていくのかも気になります。公営カジノについてはちょっと関心があるのですが、パチンコの存在についてもあわせて語られるべき論点でしょうから、この点も気にしておきたいと思います。

 いずれパチンコ否定論についても読んでみることにします。

 ところで「T・U・C」って何なんだろうと思ってウィキペディアをみたら、「東京商業流通組合」の事業部門である東京ユニオンサーキュレーション株式会社(Tokyo Union Circulation)の略とのこと。へー。
 あと本書の副題はイマイチな気がしました。「サルでも分かる」と「ここだけの話」は両方ともありがちな、“とってつけ”の文言。それをさらに重ねているのが「うまくないなぁ」と。

2012年7月28日土曜日

子どもがいるから、泣かなかった――『おおかみこどもの雨と雪』を観て


©2012『おおかみこどもの雨と雪』制作委員会

「泣く終わり方」ではないと思った

 『おおかみこどもの雨と雪』を観ました。知人から聞いていた通り、いい作品でした。不満もなくはないですが、『ダークナイト ライジング』とあわせて今夏注目すべき作品といっていいでしょう。先に観た知人の感想と自分の感想との間で気づいたことがあるので、そのあたりをちょっと(短く)書いてみたいと思います。

 私は事前に、細田監督が「今の日本が感動を求めていることに気付いて制作した」というような話を聞いていましたので、若干、斜に構えて観てしまったきらいはあります。それを踏まえてここで書きたいのは、「本作が泣ける/泣く作品かどうか」という点です。

 知人の女性が上演終了後に号泣したと書いていました。そのため、よほどの感動作なのだろうと構えていき、実際私も涙がこぼれそうになりました。雪が草平にあることをしてしまい、迎えに来た花に車中で謝るシーンは、さすがにこらえきれませんでした(これは自覚しているのですが、私は「子どもが自分の非を認めて謝る、特にその非の原因が致し方なかったり、情状酌量の余地があったりする」シチュエーションにきわめて弱い)。

 ですが、正直終わりでは泣けませんでした。というか終わりまで観て、「これは泣く話じゃない」と思いました。こう書くと、泣いたという女性を否定しているようですが、そんなつもりは毛頭ありません。感じ方は人それぞれですし、作品全体では、人の涙腺を弱める感動作といっていいので、自然な気もする(ところで別の知人男性は本作を観て全然泣かなかったそうです。それには一瞬驚きましたが、それとておかしいとは思いません)。
 私が泣かなかったのは多少のやせ我慢もあるでしょうが、ただ彼女と自分との違いが興味深いなと思いました。

 実はこの女性とは別に、アニメに造詣の深い知人の男性ライターが、「子持ちの人の感想を聞きたい」というようなツイートをしておられました。そうした視点を持って臨んだ私が感じたのは、

 「自分は子どもがいるからこそ泣かなかった/泣いちゃいけないと思ったのではないだろうか」

 ということです。なぜか。若干ネタバレします。

「私、まだあなたに何もしてあげてない」

 本作は最終的に、雪と雨がそれぞれの道をいきます(雪が寮に入るとかで花から離れてしまうのは、若干唐突な感じもしましたが、距離的な問題から致し方ないのかもしれないとしましょう)。問題は雨です。彼が人間界を離れるのは、これはとてもかなり切ない話ではあります。花はきっと、雨にも父のように人間界で生きて行って欲しかったはずですから。
 ですが、子どもはいつか離れていくものです。それがちょっと早かっただけ。10歳やそこらで親元を離れるのは、人間からすれば早くはありますが、「その日」はきっと突然くるんです。そしてそれは、花だって分かっている。

 花はわが子が去っていくときに言います。

 「私、まだあなたに何もしてあげてない」

 このセリフにはグッときましたし、考えさせられました。おそらく子どもの側はそうは思っていません。愛情を注いで大切に育ててくれたと思っているはずです(自分がフツーの子どもでもないのに……)。一方の親の側にしてみれば、子どもに何をどれだけしたところで、「まだまだ、全然してあげ足りない」と思うものなのではないでしょうか。

 花の辛さはよく分かります。いつまでも子どもには側に居てほしいものです。でも、早かれ遅かれ、子どもはいつか自分のもとを離れていきます。森になど入らず帰ってきて欲しい。自分のそばにいて欲しい。いつまでも一緒に居たい。
 でも、そういうわけにはいかない。なぜなら、他ならぬ子どもが自身で決めた道に進もうとしているからです。だから花は最後、雨を笑顔で見送ったのではないでしょうか(花の場合は、「いつも笑顔でいるように願いを込めて名付けられた名前だ」というフリはありましたが、たとえそれはなくても、最終的に親は子どもを笑顔で見送るはずです)。子どもはいつか独り立ちしていくのです。それは、寂しいけれど嬉しいことなのです。

 私の場合、子どもはまだ未就学児で、たいそうな覚悟をもっているわけではないでしょう。しかし、それでも心のどこかにそういう気持ちがあるからこそ、泣かなかったのではないか、泣いちゃいけないと思ったのではないだろうか、と考えました。
 いつかこの子たちは自分のもとを去っていく。その時、子どもたちが「その道に進んで欲しくないなぁ」「こういうふうになってくれないかなぁ」といった私のエゴを満たす進路をとるとは限りません。そこで自分としては「ダメ」「こっちに進みなさい」と言わず、しっかりと本人の覚悟を確かめた上で、涙をこらえて送り出さなければいけないと(本当にできるかどうはその時にならないと分かりませんが)思っているから、泣いちゃいけないんだって思ったんだろうと。
まぁ、子持ちの方が全員そう考えるとは思いませんし、子どもがいないと分からないというようなことを言うつもりもありませんが。

マイノリティとして生きること

 またこの映画の設定で特異な点といえば、もちろん子どもが人間と狼の子であるということです。この点について考えたことは、「マイノリティとして/家族に持って生きること」です。
 たとえば子どもが何らかの障害を持っていたとする。身体的なもの、精神的なもの、いろいろあるでしょう。中には、生物として生きていくのが大変な障害もあれば、生きていく上では何も問題はないけれど、「周りと違う」ということで苦労することもあります。

 そうした子どもを持った親の気持ちということをちょっと考えました。さすがにおおかみとの間に子どもを持った方は居ないのではないかと思いますが、上に書いたような障害、周囲と違う子を持った親は珍しくありません。偏見を承知でいえばLGBTもマイノリティである以上、ここに含まれると思います。

 もし自分が花の立場だったら、どうしただろうかということは考えました。自分もああして「人目を避けるように山奥に行くかもしれないな」などと考えました。でもだからといって何かを恨んだりくじけたりはしないだろうとも思いました。子どもがお友達と違っても、そのことを辛く感じない子に育てなければいけなません。でもまぁ、それだって、ただそれだけのことです(「簡単にいう」と思われるかもしれませんが)。

 最近、親の子どもに対する愛というものの絶対性を疑わざるを得ない話や、LGBTに対する考え方や処遇の実態を聞くにつけ、こうした関係性について考えさせられていたので、本作については、いろいろな立場からの意見を聞きたいと思いましたが、このテーマについては長くなりそうなので、また別の機会に考えてみたいと思います。



 ところで、先日鑑賞した映画『聴こえてる、ふりをしただけ』は女性監督で、妻が死んで夫が打ちひしがれる作品でした。そしてこちらは、男性監督で、夫が死んで妻がたくましく生きていく話。


「男って……orz」と思わざるを得ませんでした(苦笑)。

2012年7月14日土曜日

『職業としてのAV女優』を読んで――なぜAV女優に美人が増えたのか


非合法なのに撮り続けられる理由


 『職業としてのAV女優』(中村淳彦、幻冬舎新書)を読んだ。BLOGOSでもレビューを書いている方がおり、その記事もかなり注目されたようだ。たしかに本書は面白かった。
 まず新鮮だったのは、「女性を確保して本番の撮影現場に斡旋するのは非合法だからである」と言い切っていることだった。
あぁ、やっぱりそうなのか……。
 さらに本書は、(モデルと斡旋、本番撮影は)見方によっては売春防止法に抵触する“公共の福祉に反する行為”で、あらゆる労働関連法に違反していると考えられると指摘している。言われてみればそうかもしれないが、よくよく考えてみたことがなく、意外と納得してしまった。

ではなぜ、非合法なのに撮り続けられているのかというと、
AVは警察関係者を確保した審査団体のフィルターを通して「合法」の建前を整えてから流通されるので、AV業界全体がソープランドやパチンコと同じく、今のところ「必要悪」として成立しているからである。(p56)
という。これまたなるほどだ。

 本書を読む以前に、AV女優にはランクがあって「単体」「企画単体」「企画」があるということくらいは聞きかじっていた。だがここではそれぞれの具体的な違い、ランクアップ、ダウンの仕組みなどについても詳しく解説されていて興味深い。

転換点は98年の『ルームサービス 小室友里』

 AVは多くの男子にとって身近な存在でありながら、製作の仕組み(制作ではなく)や業界発展の歴史など、知られていない(であろう)ことが結構ある。私は38歳だが、アラフォー以上の年代の男性がここ数年のAVについて感じているのは、
 「一昔前と比べてAV女優が可愛く、きれいになった」
 ということではないだろうか。昔だって可愛くきれいなAV女優はたくさんいたのだろうが、今はそれこそAKB48などのトップアイドルグループに居てもおかしくない(AKB48メンが可愛いかどうかはさておき)くらいの子がたくさんいる。
 人前で裸になるのは恥ずかしいし、できれば避けたいものだろう。偏見と言われるのを承知でいえば、AV女優になりたくてなっている人は少ないのだろうと思っていた。だから、それこそ可愛い子がなっていたりすると、よほど変わった性癖の持ち主なのか、稼がなければいけない事情があるのか……そんな見方をしていた。
 だがここまでキレイで可愛い子ばっかりだと、そんな古い見方であろうことは容易に想像がつく。業界は明らかに変わっているのだ。だがなぜAV女優のクオリティは上がったのだろうか。業界は変わったのだろうか。
 この点について本書は、変化の歴史についても解説している。変化の始まりについてはこう説明している。
AVの変貌は98年、ユーザーが本当に欲しい物を実現化させてセル流通させた「ルームサービス 小室友里」(99年にわいせつ図画として摘発)の発売に始まり、07年8月にビデオ倫理協会が強制捜査を受けて摘発されたところで終わっている。約10年程度を費やして変化を続けたAV業界は、人材や法人の多くが入れ替わり、それ以前とはまったく異なる別の世界になってしまった。(p122)
 この後、AV制作に関わる人たちがどう変わったか、スタッフや裏方など関係者が変わったことによる影響などについても書かれており、ここも興味深い内容だ。本記事のサブタイトルにも書いたが、なぜ美人が増えていったのかについても本書には納得の説明が記されている。

 また本書は、AV女優に対して、「過酷な性搾取をするAV女優という職業が女性を壊している」といった論調があったと書く(p92~)。しかし同時に「それは大きな間違い」と断じている。本書によればむしろ逆で、
居場所のない病んだ女性が、困難の中で生きているうちに何かのきっかけでAV女優に漂着したとする。いざAV女優になてみると撮影現場では絶対的に必要とされる主役であり…(中略)…誰かから必要とされたことで社会性が生まれて症状が治癒したり、重い症状を背負っていてもAV女優として活躍している間はおさまって…(p93~)
 ということらしい。
 だが問題はその後だ。AV女優は一般の仕事のように経験やスキルを活かせて継続性のある仕事ではない。一度「自分は必要とされている」と感じた女優が、仕事がなくなる、つまり必要とされなくなることが耐えられなくなる。だからそうした症状が以前よりも悪くなってしまう、ということはあるようだ。
セックスをするAV女優という仕事が精神を蝕むのではなく、その居場所を喪失する不安や焦りが精神状態を悪化させるといえる。(p94)
 と筆者は解説している。

 このほかにも、「へぇ」「なるほど」と思った記述は何か所もあった。一部抜粋すると、
一部のNPO法人に「売春を貧困女性のセーフティネットに」という動きがあり、アウトローの専売特許であった性風俗への斡旋やモデルプロダクション業務に、将来的にNPO法人が乗り出してくる可能性がある。(p116)

ビデ倫審査作品と自主規制(ビデ倫以外)作品の大きな違いは、ヘアとアナルの露出である(p126)。
 といったところだろうか。

 一気に読み進める中で、筆者が最後どう締めくくるのかが次第に気になった。
 「おわりに」で筆者はこう書いている。
現在AV女優のほとんどは仕事を「刺激があって楽しい」と言う。その言葉に嘘はないが、そんな異様な刺激がなくては生きていけないカラダになってしまったら、その先の人生を普通にいきていくことができないかもしれない。個人的に、生涯AVや風俗に関わることがない人生の方が幸せであると思う。(p236)
 !!!

 「名前のない女たち」シリーズを手掛け、数多くのAV女優を取材してきた筆者が最後に、「関わることがない人生の方が幸せであると思う」と結んでいる……。どうだろう、このやるせなさ。複雑ぶり……。この職業の、この業界の業の深さ(?)に思いをはせずにはいられなかった。




2012年6月30日土曜日

SHAREの時代のまちづくり――福岡県大刀洗町から届いたモノ



ソーシャルメディアが
広げてゆく

 昨日の官邸前デモの参加者数は、主催者発表で約15万人だったそうだ。警察発表では1万数千らしいが、主催者発表なんてそんなもの。それにしても報道であの群衆を見て正直、驚いた。何も「こんなに集まるのはおかしい」と思っているわけではないのだが。Twitterのタイムラインを見ると、デモを知った/参加したきっかけの多くがTwitterやFacebookで拡散した情報に触れたことだったようだ。津田大介さんの著書『動員の革命 ソーシャルメディアは何を変えたのか』(中公新書ラクレ)ではないが、今やソーシャルメディアが、大勢の人を動かす、大きなインパクトを持っているのは間違いない。

 ソーシャルメディアが広げるのは、「共感」といわれる。自分がいいと思ったものや心が動かされたものを、ワンクリックでシェアできる。『シェア<共有>からビジネスを生みだす新戦略』という本が発売されてベストセラーになったのはもう1年以上前だったと思うが、「シェア」という概念はすっかり浸透している。「シェアハウス」もメジャーな存在になった。

 「シェア」は新しい考え方ではないが、「オープン」や「ソーシャル」と共に時代を表すキーワードとなっている。新興国も経済成長を遂げるなど、世界中の多くの国が豊かになった。環境負荷の懸念は世界規模で高まっている。新しくモノをつくるよりは、すでにあるモノをシェアする時代になっているのだろう。あまり使わないモノ、環境に負荷となるモノをなるべくもたず、シェアするライフスタイルは、都心部での車との付き合い方を考えれば分かりやすい。「シェア」の仲立ちをソーシャルメディアが担っている。

「大刀洗」という町から
届けられた“キラキラ”

 先月、福岡に住む知人から封書が送られてきた。彼女が住むのは「大刀洗」という町だが、ご存じだろうか。
 福岡県の南部に広がる筑後平野。この地域で有名なのは久留米市だろう。この平野の北寄りに大刀洗町がある。「太刀を洗う」というその響きからも想像できるかもしれないが、名前の由来は(南北朝時代の)武将が太刀を洗った川があること。その川が大刀洗川と呼ばれるようになったことのようで、以前には「太刀洗」という表記もあったという。人口は1万5000人くらいの、そんなに有名な町ではない。もし聞いたことがあるとすれば、旧陸軍の飛行学校や飛行場があったことくらいではないだろうか。

 その大刀洗町では、行政、NPO、住民が一緒になった新しい形のまちづくりが進められているそうだ。役場内に事務所(大刀洗ブランチ)をつくり、NPO法人地域交流センターが全国公募で採用したスタッフを派遣。逆に町役場からは、同センターの津屋崎ブランチ(福岡県福津市。旧津屋崎町)へ4人の職員が出向、そこでまちづくりに取り組んでいるという。

 送られてきたのは、大刀洗ブランチの活動をまとめた冊子だった。24ページ(1折半)、A4正寸中綴じ4Cの小冊子。田園風景や町民たちの生活の様子、企画やイベントのレポートが写真とともに掲載されている。

 正直最初は、この冊子の目的や、活動の内容や目的がよく分からなかった。新しい形のまちづくりと言っている以上、「あぁ、あれか」と比較できる情報がないので仕方ないのかもしれないが、ウェブサイトやブログもあわせて読んで、取り組みの様子が分かった。活動については、オルタナでも紹介されている

ウェブ上での町の情報発信や、地元の物産を販売する市場の広報物の作成、市場を盛り上げるための仕組みの企画、またワールドカフェ形式の語り合いの場の運営など仕事は様々。こうした活動を通して、町内に散らばる素敵なモノ・コト・ヒトを思ってもいない関係で結び、新しい価値を生むことが目標だ。
ということらしい。 


 冊子のタイトルは『おもやい大刀洗』。





「おもやい」とは、「仲良くわける」とか「一緒に使う」といった意味の方言。英語でいうなら「share」だ。この冊子につけられていたカガミには、


「おもやい」とは、大刀洗弁で「分かち合う」という意味です。この冊子の歓声と大刀洗町のキラキラを、応援してくださったみなさまと分かち合いたいと思い……

 と書かれている。なるほど、冊子の写真や文章からは、関係者の思いや地元に対する気持ちが伝わってくる。町への愛情を持った人たちが、同じ価値観を分かち合いたいと思える人たちに向けて送った、愛すべき小冊子、掌冊子といえる。


 送り主とはFJを通して知り合いになった。私が筑後地方に住んでいたことがあるのを知って送ってくれたわけだ。
 私が昔住んでいたのは、福岡県大牟田市。福岡県の最南端の旧炭都だ。主に「筑後版」の記事を書いていたこともあり、筑後地域については愛着がある。正直、大刀洗町のことはよく知らなかったのだが、東京で福岡出身者に会うと嬉しいくらい、福岡県にも愛着がある。だから大刀洗ブランチの活動は応援したいと思う。何ができるというわけではないだろうが、活動が関係者の期待する形で実を結んで欲しいと願っている。


 ところで前出の津田さんの著書にはこう書かれている。

地域で情報を発信し、ムーブメントを起こしていくためには、まず母体となるコミュニティが必要です。コミュニティをつくるためには、ソーシャルメディアは有効な手段です。(中略)コミュニティをつくる際には3年を目安にする。

 とある。津田さんの意見を絶対視するつもりはないが、参考にしてもよいのではないだろうか。大刀洗ブランチも活動をはじめて2年目に入ったそうだ。3年といわず長期の視点ももっているのだろうが、特に今年度、来年度の活動には期待して注視したいと思った。

* * * * *

編集者としてこの冊子を読んで

 この冊子を持って思ったことが、このほかにもいくつかある。
 まず冊子のつくりに「惜しい」と思った。上で触れたカガミにあるように、これはあくまで関係者に向けた冊子であって、新たなファンの獲得を目的にしたものではないのだろう。だが今回私が手に取ったように、大刀洗ブランチのことをよく知らない人間が手に取ることもある。そうした視点を持った編集がなされていてもよかったのではないだろうか。たしかに丁寧につくられているし、読み手が前向きに読めば伝えたいことは分かる。繰り返すが目的が異なるのであれば「お門違い」ということになろうが、それでも「もっとこういうつくりにすればいいのに!」と思うところがあった(水を差すつもりはないが、仕事柄どうしてもそういう見方になってしまうのは容赦してほしい)。

 もう一つは、NPOに対する自分の理解が浅いということだ。自覚的ではあったのだが、改めて思い知らされた。この冊子と大刀洗ブランチについても、冊子を受け取ってすぐに文章にできなかったのは、よく分からないものは文章にできないからだ。今回は、自分なりにサイトなどを読んで、多少は分かってきたので(現場も見てないし取材もしてないが)文章にしてみたが、そもそもNPOなる存在については、分かったようで分かっていない部分が多いようだ。

 本稿は書きながら、いろいろと思考が脱線した(お気づきになられているかもしれないが)。可能な限り本筋とは関係ないことは割愛したが、いろいろと気づきがあったのは収穫でもあった。


2012年6月29日金曜日

号泣する余裕がなかった――映画『聴こえてる、ふりをしただけ』を観て



映画『聴こえてる、ふりをしただけ』より


リアルな演出とストレートなテーマ
号泣する余裕がなかった

 映画『聴こえてる、ふりをしただけ』の試写を観た。

 公式サイトによれば、ストーリーはこうだ。

不慮の事故で母親を亡くした、11歳の少女・サチ。周囲の大人は「お母さんは、魂になって見守ってくれている」と言って慰めるが、なかなか気持ちの整理はつかない。何も変わらない日常生活の中で、サチの時間は止まっていく。お母さんに会いたい。行き場のない想いを募らせるサチのもとに、お化けを怖がる転校生がやってくる ― ―。
遺された者は、どう生きて行けばいいのか。深い喪失から立ち上がり、明日へと生きるためには、何を捨て、何を自覚しなければならないのか。
母との死別、そして新しい世界。11歳の少女が悩み、立ち止まり、再び新しい日常へと生きる姿を瑞々しく綴った本作は、大人を一度子どもに戻してから、子どもから大人にさせてくれる。

  本作を勧めてくれた友人で映画ライターの鈴木沓子さんが
Web D!CEでいいインタビュー記事を書いている。彼女はその記事で「上映中、ポケットティッシュを使い果たしてもまだ足りないほど号泣させられ、鑑賞後しばらく、言葉を失くしました」と書いている。頷ける。だが私は、途中数カ所で泣いたものの、そこまでは号泣しなかった。とはいっても、何も「記事は大げさだ」と言いたいのではない。

 私が泣いたのはすべて“子どもだけのシーン”だった。もともと「子どもが自分の非を認めて必死に謝る」というシチュエ―ションに特に弱く、その情景を思い浮かべただけで泣きそうになる性質なのだが、私が(すすり泣きはしたものの)号泣しなかったのは、本作があまりにもリアルで、自身を投影して観るあまりに考えこんでしまったからで、つまりは泣く余裕がなかったのである。


「おためごかし」を言うのが
本当に大人の役割か
 

 前出のインタビューで今泉監督は、自身が小学生のころに家族が大病を患った時のことを語っている。

当時一番つらかったのは、いろいろなことが起こった自分の気持ちとは裏腹に、学校では、これまでの日常生活を送らなければならないこと
 今日どんなに辛いことがあっても明日の朝には学校に、職場に行かなければならない……。家人の死という大きな出来事に限らず、事の大小の差はあれ誰もが経験していることだろう。例えば彼氏にフラレて何もする気が起きないのにプレゼンしなきゃいけないとか、取材でインタビューに行かなきゃいけないとか。そういう辛いときだからこそ、変わらぬ日常を過ごすことで気を紛らわせ、時が過ぎ心が癒されるのを待つことができる。そう分かってはいても、その渦中にある本人は辛いものだ。

 そこで考えたのは、


「その渦中にあるのが子どもだったときに、大人はどう接するべきなのか」


 ということだった。本作の大人たちは、母を失って傷心のサチに、「お母さんはすぐそばで見守ってくれているからね」と繰り返す。そしてサチは霊という存在に強い関心を持つのだが、ある転校生と出会い、理科で「脳の働き」を学ぶうちに、残念ながら理性ではその存在を否定せざるを得なくなっていく。そこには、「サンタさん」を信じなくなる過程にある「切なさを伴うファンタジー」はない。

 そんな心情の変化に気付かない大人たちは、お母さんが守ってくれているという言葉をかけ続ける。さも「それが大人の役割」と言わんばかりに。そんな大人に対し、サチは疑問を素直にぶつける。

 「お母さんがそばで守ってくれているのに、なんで友達にいじわるをされるのか」と。



 そこで私は何と答えられるだろうか。
「それでもお母さんはそばにいる」とサチに言えるだろうか……?


 私は「お母さんはそばにいる」と言ってやりたいと思った。言わねばならないと思った。押し付けなのかもしれないが、「お母さんが身近に感じられる子でいほしい」と思った。
 
 劇中で大人たちはサチに優しい言葉をかけるが、ことごとくおためごかしに聞こえる。ほとんど考えもせずに、慰めるためだけにその言葉をかけている。たしかに、それは仕方のないことなのだろう。人生を引き受ける覚悟もないのに、人生に関わるつもりなどないのに、人生を変えるほどの経験をした人に対して、そうそう慰めの言葉なんてかけられない。
 

 自分がサチの父親であるなら、何を置いても娘を支えなければならないはずだとして、もし自分がサチの父ではなく、そばにいる他人の大人だったらどうなのだろうか。やはりおためごかしを言うしかないのだろうか?

 少なくとも、「もし自分の娘ならこういう言葉をかけるはずだ」という言葉をかけたいと思った。できるかどうかは分からないが、それこそが周りにいる大人の役目なのではないだろうか?
 11歳だからと子ども扱いすることなく、正面から向き合わなければならない。

(こんな偉そうなことを言うと、「それほどの壮絶な体験がないのだろう」「甘すぎる」と批判されるかもしれない。だがそれは甘受するしかない)

かけられたままのエプロン
心を癒す時間と共に失われるもの


 本作で感じたもう一つのことは、「女性の強さ」だった。

 サチが今泉監督の投影だから主人公が女児であるのは変えられないとして、彼女が直面するのが「母の死」ではなく「父の死」だったらどうだっただろうか。「妻と死別した夫」ではなく、「夫と死別した妻」の話であったなら、話はどう展開していただろうか。


(ここからほんの少しだけ、上に書いた「ストーリー」には書かれていない話の筋に触れます)

 サチは母の死後、辛さを感じながらも学校に通い、日常を過ごす。その一方で、父親は妻の死を受け止めきれず、大きく変わっていく。それはもう、まったく人が変わったようになる。“憑かれたように”とはあのことを言うのだろう。本作はフィクションではあるし、(子どもがいるのに)「さすがに夫がそこまで打ちひしがれるものだろうか?」と思わなくもなかった。しかし、だからといって「まったくもっておかしい」とも思わなかった。夫がやつれ果ててしまった状態をみて、「そうなってしまうのかもしれない」と思えたのだ。

 だが逆に、夫が死んで妻と子どもが残されたのだとしたらどうだっただろうか。とてもではないが、女性が何も手につかなってしまうとは思えなかった。それは私の「母性に対するリスペクト」なのかなと思ったりもした。

(ところで、自分の死後に夫があれだけ打ちひしがれるのを見たら、亡くなった妻はどう思うのだろうか。そんなことをふと考えた。嬉しいだろうか? 母としては「何やってんの、あんた。サチがいるんだからしっかりしなさい」ってことになるだろうが、夫婦は子どもが11歳になるくらいの長ーい時間を過ごしている。それでなお夫が、あれだけ深いショックを受けるとは……)

 また前出のインタビューで今泉監督は、“ほこり”のシーンについて、

ほこりは、そのまま撮っても、なかなか映らなくて苦労したカットです。ただ、こういうシーンは、男性には細かすぎて、伝わらなかったみたいです。女の人には共感してもらえることが多いのですけれど……。

 と述べている。

 だが私はそうは思わなかった。単に私が女々しいだけなのかもしれないが、自分がホンを書くとしても(不遜だけど)そんなシーンは入れるのではないかと自然に思えた。
 むしろ、「ちょっとベタかな」とすら思った。

 それよりも私が「あぁ、これは!」とシビれたのは、“エプロン”のほうだった。

 いつも母が座る食卓の席、背もたれにかけられたエプロン。死の直後、サチも一度は手を伸ばしかけるのだが、逡巡して、触らない。そのまま何カ月もかけられたままになる。妻の死後、まったく別人のようになるほど打ちひしがれた夫ですら、触らない。まるで「そのエプロンを動かしてしまったら、本当にお母さんが返ってこなくなる」と思われているかのように、エプロンがそこにずっとかけられたままになっている。

 私がそこで「あぁ」と思ったのは、エプロンにはおそらく母の匂いがしみついているだろう、と思ったからだ。放置して時が経てば経つほど、その匂いは失われていく。ようやくそのエプロンを手に取る勇気が生まれたころには、おそらくその匂いはかけらもないだろう。なんと切ないことか……。

 * * * * *

 今泉かおり監督は26歳で会社を辞めて映画学校の生徒になったそうで、当時制作した短編をもとにして作り上げたのが今作だという。本作は、重くて真面目なテーマを持った、視聴者がしっかり受け止めなければいけない良作だと思うのだが、演出面では、まだまだだとも感じた。間の取り方やカメラワークなど、何というか、時々“ひっかかり”のようなものを感じる演出だったような気がした。
 だがこれが長編第一作ならば、それはいわば名刺代わりだ。その名刺代わりの作品を存分につくり、国外でも高い評価を受けるほどに仕上げたのだから、これはすごいことだ。高く評価してしかるべきだろう。
 とはいうものの、いじわるな言い方をすれば、一作目はすべてを注ぎ込むから、良いものは撮れる。
 早く今泉監督の二作目が観たい。



2012年6月15日金曜日

履歴書は作品でありプレゼンだ――「履歴書は手書きがいいのか?」という疑問に対して



「履歴書は手書きで書いたほうがいいのか?」という疑問・質問を時々ウェブで見かける。

その質問に答えられるのは履歴書を受け取る相手だけだろうし、手書きでどんな履歴書に仕上げられるか分からないので、厳密には「手書きのほうがいいかもしれないし、意味がない(むしろ逆効果)かもしれない」としか答えられない。要は“分からない”。


だが私は、願わくば

履歴書は手書きで書いたほうがいい。

と思う。
だがその一方で、

手書きで書けばいいというものでもない。

とも思う。

私は合理的な考え方をする部分もある(と自分では思っている
)ので、「書類は印刷で十分」と思わなくもない。それに、「手書きでなければ評価しない」ということは、決してない。手書きに意味を見出さない考え方をおかしいとも思わない。

ではなぜ手書きのほうがいいと思うのかというと、まず情報量が格段に増えるからだ。

たくさん書けるということではない。MSゴシックやメイリオではない自分フォント”が持つ情報量は、決して小さくない。そもそも字体が意味を持たないのなら、世の中にあるあらゆるデザイン(ここではポスターやウェブサイトなどのいわゆるデザインワーク)がフォントにこだわって作られるはずがない。

履歴書とて、他人の目に触れる時点で「作品」である。

だから自分が履歴書の書き手という立場に立つなら、絶対に手書きを選ぶと思う。

それにワードなどで履歴書を作ると、誤字脱字する可能性が下がる。文法などおかしなところは波線表示してくれる。手書きの履歴書で、ごくごく簡単な漢字を間違えている人は意外と居る。他の業種、職種はともかく、出版や編集、制作に携わる人間には、書けるべき漢字レベルってもんがある。

パソコンで履歴書を作った場合はまた、志望動機などの欄で文字量が多すぎたとしても、削るのが簡単だ。その点、手書きだと勢い余って書きすぎてしまった場合に帳尻をあわせるのは難しい。ちゃんとスペースを考えて書き始めているかどうかが分かる(場合がある。これは計画性があるかどうかが分かるということだが、「計算できる=いい人材」とも限らないのは難しいところ)。

勘違いされると困るので述べておくが、「手書きのほうが温かい」という理由で勧めている訳ではない。私は何も筆跡鑑定ができる訳ではないし、(過去に履歴書を数百枚見てきたが)字がキレイな人がいい記者だったかというと、別にそんなことはなかった。当たり前だが。

またプリントアウトした履歴書なら簡単に複製できるので、多くの会社に送ることができる。逆に手書きだとたくさん書くのは大変なので、おそらくは出す会社は絞られるだろう(つまり真剣にエントリーしてきている)と考えることもできるが、ヒマならいくらでも手書きできるし、プリントアウトすることが心を込めないことでもない。

タイピングした文章にだって心は込められる。

心が込められているか、つまり真剣にエントリーしてきたかどうかは、「志望動機」などの文章を読めば、すぐに分かる。

本当に自分たちの仲間になりたいのか、単に就職先を探していて「どこかに入れればいい」と思っているだけで、偶然わが社にコンタクトしてきたのか。わが社の例でいえば、ちゃんとFJを読んでエントリーしてきているのか、そうでないのか。「読んではいるがおそらく立ち読みで済ませてるだろうなぁ」なんてのも、何となく想像できる(合っているかどうかは分からないが)。まぁ、気持ちの入れようはだいたい分かる(気がする)。

ただし難しいところだが、熱意があればいいというものではない。たくさんいろんな会社にエントリーすること自体が悪いわけではないと思う。自分だけ見てくれるけどルックスはイマイチな男を選ぶのか、モテる色男を選ぶのか。選択は自由だ。どちらがいいか、(相手が契りを求めるなら)その答えを決めるのは自分(採用側)しかない。
そもそも能力がないと意味がない。

むしろ私は過去の経験から、「熱意」は採用の基準にしないことにしている。なぜか? 熱意があるのは当然で、熱意をアピールするのは他にアピールすることが無いからと思うからだ。

反対に、能力があれば熱意がなくてもいいかというと、そうも言いきれない(ややこしくて恐縮だが)。能力が突出していて、“誰もが認めるような”結果を生み出せるくらいなら、結果以外のことは気にしたくないのだが、そもそも中小零細企業にそうそう突出した才能の持ち主がたくさん来る訳でもない(会社の規模を言うのは言い訳か……)。

例えば新聞社では、特ダネをコンスタントに取っていればそれこそ昼間っからクラブで寝てても、咎められないという考えだった(記者も減らされた今はともかく、基本的にはそういう考え方だった。自分が特ダネをたくさん取っていた訳ではない)。

この考え方は今も理解できるし、「まさにそうだ」とも思う。記者でなくとも、営業なら売り上げをちゃんと上げていればいい。

だがそれも上で触れたように、突出した売り上げを立てられる営業経験者がたくさん受けに来てくれるとは限らないし(新聞社は大企業だ)、社員として迎え入れる以上は、組織の一員として働いてもらう訳だから、最低限の規律は必要だろう。

たとえば、特ダネをたくさん取ってくる記者、売り上げをたくさん上げる営業であっても、挨拶ひとつしない社員であるなら、職場の雰囲気は悪くなる。できれば、それは避けたい。

そこで「いや会社の目的は利益を上げることだからいいじゃないか」というのであれば、その人材には社員として入社してもらうのではなく歩合制の契約を結べばいいだけのことだ。


目をつぶれるだけの成果かどうかという、要は(身も蓋もない言い方をすれば)程度の問題ということになる。



結局、履歴書を手書きにすることで自分の情報を少しでも多く相手に伝えられるなら、手書きにしたほうがいい。それができないと思うなら無理をすることはない、ということだ。

履歴書もプレゼンの一部だ。そのプレゼンを効果的なものにする手段として“手書き”が選べるなら、そうするといいと思う。




長々と当たり前のことを書いてしまった気もするが、ところで履歴書を手書きで書くかどうかという問題は、名刺交換をした後に送られてくるお礼状の問題(?)に似ている気がしている。

名刺交換はしたものの、さして盛り上がりもせず「また会いたい」なんてお互い思いもしない出会いというものは、残念ながらある。自分の魅力があれば別なのだろうが、ともかくその場合、お礼状が来るとかえって逆効果だ。「あぁ手書きの礼状を出すことがルーチン化されているのだろうな」と底の浅さが見て取れる。礼状の文面でも同じことがいえる。「誰にでも言える、誰との出会いでも当てはまるようなこと」を書かれても、心は動かないどころか、これも逆効果だ。

* * * * *

余談だが、面接のときに私がよく投げかける質問がある。一見、本筋ではないような話題なのだが、「実はそれは……」としっかりとロジックを持って答えてくれる人がたまにいるので、重宝している質問だ。

これを読んでくださっている方の中に、いつかわが社の面接を受けられる方がいるかもしれないので、ここではネタはバラさないことにしておく。

2012年6月9日土曜日

終戦後のブラジルで『国賊』と言われた理由――映画『汚れた心』を観て



 第二次世界大戦直後、国交の断絶により日本からの情報が立たれたブラジルの日本人コミュニティ。日本の敗戦を受け入れられない移民と、ラジオなどで敗戦の報を聞き「事実」として受け止めた移民たちは対立、前者は後者を「国賊」として襲い、殺害した。23人が殺され、147人が負傷。381人が襲撃に関与したとして検挙されたという。


 2000年にジャーナリスト、フェルナンド・モライスが発表した同名のノンフィクションが、本作『汚れた心』の原作だ。ベストセラーになった同書を映画化したのはブラジル人監督ヴィンセンテ・アモリン。メインキャストは伊原剛志、常盤貴子、奥田瑛二たちで、セリフはほぼ日本語だが、本作はブラジル映画として製作されている(伊原はウルグアイで開催されたプンダデルエステ国際映画祭で主演男優賞を受賞している)。


 恥ずかしながらこの事実を知らず、予備知識もなく試写を観た。


 敗戦が事実だと本当は分かっているはずなのに「日本が負けるはずがない」と思いこもうとする。大和魂、皇国臣民のあるべき姿を“曲解”し、早々と敗戦を認めた同胞である日本人たちを“国賊”と決めつけ、殺めていく。そうすることで、心の安寧をかりそめと知りながら求める……。
 その行為は狂信的で身勝手だが、果たしてそれを批判できるだろうか。
 アモリン監督もインタビューで、「ブラジル社会の偏見に打ち勝ち、日系コミュニティーを結束させ、アイデンティティーを保つ手段として必要だったのだと思う」と述べている。認めるわけではないが、そういう状況になってしまったことが分からなくはないということだ。


 もし自分があの場にいて、守るべき家族があるのに、命を懸けて「王様は裸だ」と言えただろうか。家族を、そして自分の身を守るために仲間を殺せるのだろうか。


 その意味で、主人公夫婦に子どもがいないのは演出の一つのポイントだったのではないか(日本語もポルトガル語も分かる近所の女の子が主人公夫婦になついていて、頻繁に出入りしていることは、主人公たちの葛藤を深める要因になっていたが)。


 また主人公夫婦の濃厚なベッドシーンが何度かあったが、そこからは、お互いの愛情の深さというより、異国の地で肩を寄せ合って暮らす2人を取り巻く閉塞的かつ絶望的な状況、希望を持ちながら支えあって生きていくしかないという、何ともいえない切なさばかりが感じられた。
 だからこそ夫のしたことを知った妻の葛藤は深いものだっただろう。妻が行動を起こすまでに考えたことを想像すると、やるせない気持ちにしかならなかった。
 自分だったら、果たして前向きに生きていけるだろうか……。


 自分の所属するコミュニティの趨勢にあらがえず、いけないとと知りながらも保身のための行動を起こす。むき出しになるエゴ、理想と本音の間の葛藤。本作はラース・フォン・トリアー監督の『ドッグヴィル』のようだと思った。腹にズシリと重いテーマ、演出だが、観て損はない。いや、観て、考える機会を持って損はない。


 アモリン監督はまたインタビューで、「映画は原理主義と寛容の物語。この問題は現在も存在する。イラク戦争、パレスチナ紛争もそうだ」と述べたという。時代や場所は変わっても、人間の社会が生む問題、ナショナリズムやマイノリティに関わる問題は、似たような構造で存在している。その意味でも、本作は、日本やブラジル以外の国・地域でも高く評価されておかしくない作品なのではないだろうか。