2012年6月15日金曜日

履歴書は作品でありプレゼンだ――「履歴書は手書きがいいのか?」という疑問に対して



「履歴書は手書きで書いたほうがいいのか?」という疑問・質問を時々ウェブで見かける。

その質問に答えられるのは履歴書を受け取る相手だけだろうし、手書きでどんな履歴書に仕上げられるか分からないので、厳密には「手書きのほうがいいかもしれないし、意味がない(むしろ逆効果)かもしれない」としか答えられない。要は“分からない”。


だが私は、願わくば

履歴書は手書きで書いたほうがいい。

と思う。
だがその一方で、

手書きで書けばいいというものでもない。

とも思う。

私は合理的な考え方をする部分もある(と自分では思っている
)ので、「書類は印刷で十分」と思わなくもない。それに、「手書きでなければ評価しない」ということは、決してない。手書きに意味を見出さない考え方をおかしいとも思わない。

ではなぜ手書きのほうがいいと思うのかというと、まず情報量が格段に増えるからだ。

たくさん書けるということではない。MSゴシックやメイリオではない自分フォント”が持つ情報量は、決して小さくない。そもそも字体が意味を持たないのなら、世の中にあるあらゆるデザイン(ここではポスターやウェブサイトなどのいわゆるデザインワーク)がフォントにこだわって作られるはずがない。

履歴書とて、他人の目に触れる時点で「作品」である。

だから自分が履歴書の書き手という立場に立つなら、絶対に手書きを選ぶと思う。

それにワードなどで履歴書を作ると、誤字脱字する可能性が下がる。文法などおかしなところは波線表示してくれる。手書きの履歴書で、ごくごく簡単な漢字を間違えている人は意外と居る。他の業種、職種はともかく、出版や編集、制作に携わる人間には、書けるべき漢字レベルってもんがある。

パソコンで履歴書を作った場合はまた、志望動機などの欄で文字量が多すぎたとしても、削るのが簡単だ。その点、手書きだと勢い余って書きすぎてしまった場合に帳尻をあわせるのは難しい。ちゃんとスペースを考えて書き始めているかどうかが分かる(場合がある。これは計画性があるかどうかが分かるということだが、「計算できる=いい人材」とも限らないのは難しいところ)。

勘違いされると困るので述べておくが、「手書きのほうが温かい」という理由で勧めている訳ではない。私は何も筆跡鑑定ができる訳ではないし、(過去に履歴書を数百枚見てきたが)字がキレイな人がいい記者だったかというと、別にそんなことはなかった。当たり前だが。

またプリントアウトした履歴書なら簡単に複製できるので、多くの会社に送ることができる。逆に手書きだとたくさん書くのは大変なので、おそらくは出す会社は絞られるだろう(つまり真剣にエントリーしてきている)と考えることもできるが、ヒマならいくらでも手書きできるし、プリントアウトすることが心を込めないことでもない。

タイピングした文章にだって心は込められる。

心が込められているか、つまり真剣にエントリーしてきたかどうかは、「志望動機」などの文章を読めば、すぐに分かる。

本当に自分たちの仲間になりたいのか、単に就職先を探していて「どこかに入れればいい」と思っているだけで、偶然わが社にコンタクトしてきたのか。わが社の例でいえば、ちゃんとFJを読んでエントリーしてきているのか、そうでないのか。「読んではいるがおそらく立ち読みで済ませてるだろうなぁ」なんてのも、何となく想像できる(合っているかどうかは分からないが)。まぁ、気持ちの入れようはだいたい分かる(気がする)。

ただし難しいところだが、熱意があればいいというものではない。たくさんいろんな会社にエントリーすること自体が悪いわけではないと思う。自分だけ見てくれるけどルックスはイマイチな男を選ぶのか、モテる色男を選ぶのか。選択は自由だ。どちらがいいか、(相手が契りを求めるなら)その答えを決めるのは自分(採用側)しかない。
そもそも能力がないと意味がない。

むしろ私は過去の経験から、「熱意」は採用の基準にしないことにしている。なぜか? 熱意があるのは当然で、熱意をアピールするのは他にアピールすることが無いからと思うからだ。

反対に、能力があれば熱意がなくてもいいかというと、そうも言いきれない(ややこしくて恐縮だが)。能力が突出していて、“誰もが認めるような”結果を生み出せるくらいなら、結果以外のことは気にしたくないのだが、そもそも中小零細企業にそうそう突出した才能の持ち主がたくさん来る訳でもない(会社の規模を言うのは言い訳か……)。

例えば新聞社では、特ダネをコンスタントに取っていればそれこそ昼間っからクラブで寝てても、咎められないという考えだった(記者も減らされた今はともかく、基本的にはそういう考え方だった。自分が特ダネをたくさん取っていた訳ではない)。

この考え方は今も理解できるし、「まさにそうだ」とも思う。記者でなくとも、営業なら売り上げをちゃんと上げていればいい。

だがそれも上で触れたように、突出した売り上げを立てられる営業経験者がたくさん受けに来てくれるとは限らないし(新聞社は大企業だ)、社員として迎え入れる以上は、組織の一員として働いてもらう訳だから、最低限の規律は必要だろう。

たとえば、特ダネをたくさん取ってくる記者、売り上げをたくさん上げる営業であっても、挨拶ひとつしない社員であるなら、職場の雰囲気は悪くなる。できれば、それは避けたい。

そこで「いや会社の目的は利益を上げることだからいいじゃないか」というのであれば、その人材には社員として入社してもらうのではなく歩合制の契約を結べばいいだけのことだ。


目をつぶれるだけの成果かどうかという、要は(身も蓋もない言い方をすれば)程度の問題ということになる。



結局、履歴書を手書きにすることで自分の情報を少しでも多く相手に伝えられるなら、手書きにしたほうがいい。それができないと思うなら無理をすることはない、ということだ。

履歴書もプレゼンの一部だ。そのプレゼンを効果的なものにする手段として“手書き”が選べるなら、そうするといいと思う。




長々と当たり前のことを書いてしまった気もするが、ところで履歴書を手書きで書くかどうかという問題は、名刺交換をした後に送られてくるお礼状の問題(?)に似ている気がしている。

名刺交換はしたものの、さして盛り上がりもせず「また会いたい」なんてお互い思いもしない出会いというものは、残念ながらある。自分の魅力があれば別なのだろうが、ともかくその場合、お礼状が来るとかえって逆効果だ。「あぁ手書きの礼状を出すことがルーチン化されているのだろうな」と底の浅さが見て取れる。礼状の文面でも同じことがいえる。「誰にでも言える、誰との出会いでも当てはまるようなこと」を書かれても、心は動かないどころか、これも逆効果だ。

* * * * *

余談だが、面接のときに私がよく投げかける質問がある。一見、本筋ではないような話題なのだが、「実はそれは……」としっかりとロジックを持って答えてくれる人がたまにいるので、重宝している質問だ。

これを読んでくださっている方の中に、いつかわが社の面接を受けられる方がいるかもしれないので、ここではネタはバラさないことにしておく。

2012年6月9日土曜日

終戦後のブラジルで『国賊』と言われた理由――映画『汚れた心』を観て



 第二次世界大戦直後、国交の断絶により日本からの情報が立たれたブラジルの日本人コミュニティ。日本の敗戦を受け入れられない移民と、ラジオなどで敗戦の報を聞き「事実」として受け止めた移民たちは対立、前者は後者を「国賊」として襲い、殺害した。23人が殺され、147人が負傷。381人が襲撃に関与したとして検挙されたという。


 2000年にジャーナリスト、フェルナンド・モライスが発表した同名のノンフィクションが、本作『汚れた心』の原作だ。ベストセラーになった同書を映画化したのはブラジル人監督ヴィンセンテ・アモリン。メインキャストは伊原剛志、常盤貴子、奥田瑛二たちで、セリフはほぼ日本語だが、本作はブラジル映画として製作されている(伊原はウルグアイで開催されたプンダデルエステ国際映画祭で主演男優賞を受賞している)。


 恥ずかしながらこの事実を知らず、予備知識もなく試写を観た。


 敗戦が事実だと本当は分かっているはずなのに「日本が負けるはずがない」と思いこもうとする。大和魂、皇国臣民のあるべき姿を“曲解”し、早々と敗戦を認めた同胞である日本人たちを“国賊”と決めつけ、殺めていく。そうすることで、心の安寧をかりそめと知りながら求める……。
 その行為は狂信的で身勝手だが、果たしてそれを批判できるだろうか。
 アモリン監督もインタビューで、「ブラジル社会の偏見に打ち勝ち、日系コミュニティーを結束させ、アイデンティティーを保つ手段として必要だったのだと思う」と述べている。認めるわけではないが、そういう状況になってしまったことが分からなくはないということだ。


 もし自分があの場にいて、守るべき家族があるのに、命を懸けて「王様は裸だ」と言えただろうか。家族を、そして自分の身を守るために仲間を殺せるのだろうか。


 その意味で、主人公夫婦に子どもがいないのは演出の一つのポイントだったのではないか(日本語もポルトガル語も分かる近所の女の子が主人公夫婦になついていて、頻繁に出入りしていることは、主人公たちの葛藤を深める要因になっていたが)。


 また主人公夫婦の濃厚なベッドシーンが何度かあったが、そこからは、お互いの愛情の深さというより、異国の地で肩を寄せ合って暮らす2人を取り巻く閉塞的かつ絶望的な状況、希望を持ちながら支えあって生きていくしかないという、何ともいえない切なさばかりが感じられた。
 だからこそ夫のしたことを知った妻の葛藤は深いものだっただろう。妻が行動を起こすまでに考えたことを想像すると、やるせない気持ちにしかならなかった。
 自分だったら、果たして前向きに生きていけるだろうか……。


 自分の所属するコミュニティの趨勢にあらがえず、いけないとと知りながらも保身のための行動を起こす。むき出しになるエゴ、理想と本音の間の葛藤。本作はラース・フォン・トリアー監督の『ドッグヴィル』のようだと思った。腹にズシリと重いテーマ、演出だが、観て損はない。いや、観て、考える機会を持って損はない。


 アモリン監督はまたインタビューで、「映画は原理主義と寛容の物語。この問題は現在も存在する。イラク戦争、パレスチナ紛争もそうだ」と述べたという。時代や場所は変わっても、人間の社会が生む問題、ナショナリズムやマイノリティに関わる問題は、似たような構造で存在している。その意味でも、本作は、日本やブラジル以外の国・地域でも高く評価されておかしくない作品なのではないだろうか。

2012年5月29日火曜日

“Do Something”と“Be Someone"――映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観て

少し前のことになりますが、映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観て考えたことを書いてみたいと思います(ちょっと前なので印象や情報があいまいになっていますが)。



ちょうど今年の初めにボーイスカウトの取材をしたこともあって、面白いなと感じたのが法案審議中に停電になったシーン。
突然、停電になった時、議員のおじさんたちが並んで座っている中で、ただ1人の女性であるサッチャーが懐中電灯をつけます。「ボーイスカウトだな」とか何とか字幕が出るのですが、「Be prepared.」というつぶやきが聞こえるのです。
そこで、「あぁ、さすがボーイスカウト発祥の国、イギリスだなぁ」とちょっと嬉しくなりました(ちなみにこれはボーイスカウト世界共通のモットーで、「そなえよ つねに」と訳されます)



ところでこの映画では、サッチャー氏の名言がたくさん引用されていますが、

その中でも一番、身につまされた、ギクッとしたのがこのセリフです。
It used to be about trying to do something.
Now it's about trying to be someone. 
映画の最中、暗い中で私が書いたメモには
「Do Something」「Be Someone」としか残っていないのですが、
意訳すると、
昔、(私たちは懸命に)何かを成し遂げようとしたものです。
(なのに)今の人は(そんなことをすっ飛ばして、すぐに何者かになりたがる(なめるな)。
といったところでしょうか。

劇中、メリル・ストリープが苛立ちを隠しもせずに話していたのがとても印象的でした。

この映画の原題("The Iron Lady")通り“鉄の女”として知られるサッチャー氏は、映画になるくらいの、歴史に名を残す名政治家です。その政治家人生は順風満帆だったわけなどなく、挫折も失敗も孤独も経験している……なんて表現では表しきれないほど、大変なものだったはずです。

2時間かそこらの短い上映時間に限っても、いろいろな困難が描かれていましたから、実際に本人が経験した苦労は数限りなく、その渦中にいたときのプレッシャーたるや、想像を絶します。よくぞめげずに、負けずに、ブレずに自分の道を進んだものです。


サッチャー氏と比べるべくもありませんが、私たちも日々、あらゆる判断を強いられています。


それは会社で何かを始める、やめる、といったような、経営判断の類だけではありません。
何もリーダーだけが行っていることではなく、誰もが行っています。

例えば

何かを頼むメールを送るか、送らないか。
部下を叱責するか、しないか。
上司や同僚に、相談をするか、しないか。
書類の文章をこう書くか、ああ書くか。
FAXに送付状を付けるか、付けないか。
お礼のメールをするか、しないか。

たいていは、後で「もし違うほうを選んでいたら……」と比較することができない(されない)ため、
その判断の是非が問われることはありません。

しかし、間違いなく、“自分の”行動一つひとつが、結果につながっています。

自分の今日、明日という名の未来、つまりは“結果”の“原因”となっている。
それは、メールに返信が来るか、来ないか、といった
行動の直接のリアクションのことだけを言っているのではありません。

「何かをしよう(もしくは『するまい』)」と考えた、
その思考が行動につながり、
その行動の積み重ねこそが、
周囲の“その判断をし、その行動を取った(または『取らなかった』)”自分への評価となるのだ

――と改めて思いました。



当たり前のことですが、結構、恐ろしいですよね。

日々の小さな、(もしかしたら自分は大きな影響があるとは思わずに行っている)判断と行動こそが、自分自身そのものを形成しているわけです。


このことに関連していうと、サッチャー氏には有名なこんな言葉もあります。
メモはしていなかったのですが、何となく覚えていたのでググりました。
Watch your thoughts for they become words.
Watch your words for they become actions.
Watch your actions for they become... habits.
Watch your habits, for they become your character.
And watch your character, for it becomes your destiny!
What we think we become. 
意訳すると、
考えに気を付けなさい。それはやがて言葉となります。
言葉に気を付けなさい。それは行動につながります。
行動に気を配りなさい。それはあなたの性格となります。
そして性格に気を配りなさい。それはあなたの運命となるのですから。
つまり何を考えるが、それが自分自身、そのものなのです。
といったところでしょうか。

これも有名ですから聞いたことがある方が多いと思います。

「忙しい忙しい」と毎日を過ごし、その一方で過去を振り返って「今年ももう半分終わってしまう!」と焦る。そんな毎日の中で、どうしても結果を求めようとしてしまう。

……いや、この言い方は違うし、中途半端ですね。

結果を求めることは悪いことではありません。
その結果が、「何かを成し遂げる」ということではなく、
「何かを成し遂げた人、という評価を周りから得ること」になっていることが
果たして良いことなのかどうなのか、

という疑問を、この映画を観て感じたわけです。

「自分は安直にそう願っているのではないだろうか?」と。

ただし、先ほど述べたように、「周りの評価こそが自分である」という意味でいえば、
評価を求めることは悪くないように思えます。

しかし、それは本末が転倒しているように思います。

評価は上げようとして上げるものではありません。
“結果として上がるように”務めるしかない。

例を挙げるなら、kloutを上げるためにソーシャルメディアをやる、というようなものでしょうか。

それが必ずしも悪いとは限りません。その努力の中で見えてくるものがあるはずですから、やらないよりやってみたほうがいいと私は思います。

ただ、自分がすること、しないことについては、必ず自分自身の納得が必要です。そうしないと、望まない結果を得た時に、後悔するからです。

自分は周りから評価されたいと思っています。
そのために自分がすべきことはたくさんあります。
そして、それをしている最中は「大変だ」「面倒だ」「早く終わらないか」と思い、ついつい手を抜いてしまいます。汗をなるべくかかずして功を得ようとしてしまいます。
また、「今やっていることが、評価につながるのだろうか?」と悩むこともあります。

でも、結果を信じて続けるしかありません。Breakthourghは、日常の延長線上にあるはずです。


この映画をみて、こんな偉そうな感想を書いたからといって、劇的に自分が変わるとは思っていません。でも、一つでも多くの自分の行動を、自分が望む未来、結果を得るための行動にしたいと思います。小さなsomethingを続けることで、"someone"になれると信じて。



* * * * *

さて、この映画に対する評価ですが、とてもいい作品だったと思います。
ご覧になってない方は是非、Blu-rayかDVDが出たらご覧になってほしいです。
メリル・ストリープがアカデミー賞主演女優賞は納得です。
ちょっと脚本、演出で分かりづらいところはあったような気はしますが、
ともかくも彼女の演技はとてもよかった。

たくましく、頼りがいがあり、だけれどもかわいらしい、魅力的な女性として演じられていました。
(彼女が夫のデニス・サッチャーを呼ぶ「デニス!」という声が頭から離れません)
ただし、これは多くの方が指摘されていますが、邦題はちょっと合わない気はしました。



2012年5月21日月曜日

そこで何をどう書くべきか――「視点」について考える(1)

FJの休刊号・2012年6月号を発行した4月21日から一カ月が経過しました。

月刊誌なので1カ月は書店に置いてもらえるとして、5月21日までにはなくなります。
つまり本日、とうとう書店からも姿を消したことになります(サイトでは今後も販売しますが)。

こうなったことについて、
「編集長として書かねばならないこともあるのでは」というご意見もあるでしょう。
しかし言いたいこと、書きたいことは誌面で書いて(編集して)きました。
もちろんできなかったこともあり、またいつか……などという考えもありますが、
それができなくなったことは、すなわち力が足りなかったわけですから、
挑戦が広い支持を得られなかったという事実を甘受しながら、
次の歩みを繰り出さなければいけないのだろうと思いました。

ところで、これまであちこちで少しずつブログのようなものを書くなどしてきて、
FJに携わっていた間は、アメブロでもやってきました。
このままブログタイトルだけ変更して続けるということも考えましたが、
IDがfinancialjapanのママでよいのだろうか、ということもまだ整理できていません。

だからといってアメブロのアカを消してしまうつもりはないのですが、
一方で、アクセス数カウント法など、アメブロについて
数々の疑問が寄せられている現状にあって、
アメブロだけで続けていくのもなぁ、と考えたこともあり、
新たにブログを立ち上げていろいろ書いていくことにしました。
(アメブロを消さない理由には、financialjapanという名前を残しておきたいということもあります)


というわけで今日からここで(も?)書いていきたいと思います。


*   *   *   *   *   *   *   *   *


最初のエントリを何にしようかずっと考えていて、
さっきまで「色」について書くつもりだったのですが、
急きょ、「視点」について考えてみたいと思います。
まさにブログタイトルのように考えながらまとめていきたいと思います。


実は先日からエラそうなことにライター・編集講座なるものを始めました。
http://www.facebook.com/events/382734945106772/

編集長としては、今のところ結果を出せていませんが、
少なくとも、人の文章を分かりやすく直すだとか、
推敲や編集のスキルは、それなりにあるんだろうと思っています。
(クセもあるし、表現の幅も広くなんかありませんし、
そもそも「面白い文章を書く」能力が自分にあるとは思っていませんが、
分かりやすくする、推敲するのはそれなりに得意な気がしています)

そこで文章がうまくなりたいという方に教えるということをしています。
その過程で受講生の皆さんにはお伝えしたのですが、

「視点を知ること」

は本当に重要だと最近改めて思います。

例えばそれは、その媒体(ブログ)で伝えるべきこと、
個々の記事で伝えること、伝えるべきことを規定します。
何を書く(べき)か、どう書く(べき)かについてがおのずとハッキリします。

ただそれは、「書きたいことが何なのか決める」ということでは、必ずしもありません。
なぜかというと、職業ライターは、必ずしも自分が書きたいことを書いているわけではないからです。仕事であれば、ネタをフラレて書くわけです。それは一部のブロガーの方もそうでしょう。読者が読みたいであろうと思えテーマなら、さほど関心はなくともそのテーマについて書くはずです。
まぁ個性が大切なブロガーはともかく、仕事で文章を書く場合は、発表する媒体によって、そこで書くべきことは変わりますから、必ずしもそこに筆者の視点は必要ないということが珍しくありません。
そういう仕事の発注の仕方(ライターに個性を求めない)の是非はここでは論じません。ここで指摘したいのは、

その記事で何を書くべきなのかということは、
視点が分かっていなければ、分からない(書けない)

ということです。当たり前ですね。逆にいえば、

視点が分かれば、何をどう書くべきかが分かる

わけです。書ける人からすれば、しごくもっともなことなので、読み飛ばしていただいたほうが良い。
ですが、書けない人は、それがスッと理解できないという場合が多いように思います。

分かりやすくいえば、

・ 発注元が記事に、自分に何を求めているのか
・ その記事で読者に何を伝えるべきなのか
・ その記事に、そのメディアに読者は何を望んでいるのか。

ということが分かるかどうか。それは、“出発点”としては大きな違いです。
(それが分かっていれば、そこから外すということもできます=分からないと外せない)

世の中で何か起きた時、ニュースを聞いた時、そこで取り上げるべきかどうかが分かります。
取り上げると仮定して、何をどう書くべきかが分かります。

すごく分かりやすくいえば、R25の巻頭の「RANKING×REVIEW」で書くのと、
ウーマンエキサイトに書くのとでは、まず取り上げるネタも違うでしょうが、
たとえ同じネタで書くとしても、まっっったく違う記事になるわけです。

これだけ違えば分かりやすいですよね。
(「そんなん分かって当たり前」と思ったら、何か一つテーマを決めて、自分なら何をどう書くか考えてみてはどうでしょうか。金環日食でも、きゃりーぱみゅぱみゅブームでも、河本準一家族の生活保護受給の件でも、チャンピオンズリーグでも、B-CASでも何でも構いません。それを、どこに発表するかという想定とかけあわせて、何を書くか考えてみる。意外に難しいかもしれません)

それに、いつも分かりやすいとは限りません。
たとえば同じ雑誌でも、コーナーによって書くこと、書き方は変わりますし。時期によっては同じ雑誌、同じテーマでも、書くこと自体が異なります(視点はブレてはいけませんが)。

ライターとして分かるべきなのは、
自分が書く記事は、何のため掲載される記事なのか。
このページのこの文章で伝えるべきなのは何か。

そういうことです。それが分かると、話が早い。

ただし「話が早い」のが「正しい」とは限りません。

直観的に分かるからいいというものでもないのです。何かネタを振られたときに、「あっ、これなら、こういうことを書いたらどうだろう」「データやコメントは、あそことあのサイトで調べればいいだろう」ということにすぐに気づけば、たしかに話は早いのですが、それが正しい・面白いとは限らないからです。

「ストロベリーナイト」では、姫川は直観をもとに捜査を進めますが、日下はとにかく丹念にデータを積み上げていき、直観という予断を可能な限り排除します。まったく手法は異なりますが、どちらが正しいというわけではありません。
(ただしネタ元はたくさん持っておくべきです。ネタを振られてからあちこち調べ始めるのでは遅い)


ですが、「話が早い」という意味では、すぐに分かったほうがいいわけです。
今どきそんな悠長に仕事なんてしてられませんから、サッと分かったほうがいい。


また、これは言うまでもないのですが、途中で、そのロジックが成り立たないことやデータが集まらないこと、結果的に面白くないことが分かったら勇気をもって別の方向に進まなければいけません。
推論がなければ調査は進みませんが、調査の結果、推論が間違っていることが分かったら、論理を組みなおさなければいけません。でないとねつ造やデータの都合のいい解釈をするようになりますから。



記事に正解はない、ということがよく言われます。

ですが、不正解はいっぱいあります。


少なくとも視点が分かれば、その不正解にたどりつくことはなく、バッサリ直されることもなくなります。