ラベル editorial の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル editorial の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年5月2日木曜日

素人デザイナーとプロを分かつもの


「仕事ができる」というのは、クライアントが抱える本質的な課題を見抜くための、またはクライアントが望む状態を生み出すためのソリューションを提供できるということだと思う。

 その意味では、肩書きなど関係なく、ディレクターだろうかデザイナーだろうがプログラマだろうが、プロジェクトを成功に導く鍵、ポイントを見つけて実現できることこそが重要だ。だからこれは単なる偏見なのだが、数ある職種の中でも「デザイナー」という職種はとても奥深いと思う。
 一般にデザイナーと聞けば、「カッコいい見た目の何かをつくる仕事」というイメージを持たれるかもしれないが、その仕事の本質は、クライアントが持つ課題を「デザインする」ことで解決に導くことだ。ここでいう「デザインする」とは、単にデザイン系のソフトを使って紙やPC画面で何かを作ることではない。デザインには意味があるから(というより、なければいけない)、「何となくカッコいいから」という理由で、色や形を選んではいけない。そのチョイスの意図が伝わらないこともあるが、それはそのデザインに込めた意味が間違っているか、意味が伝わりにくい見せ方をしているからであって、「赤がはやっているから赤にする」とか「流行の形だから」とかいうのは間違っていると思う(選んだきっかけがそういう理由だったとしても、後付けであってもロジックは必要だ)。しっかりと意味を持ったデザインワークをつくることで、目的を達成させられるのがプロのデザイナーだ。

 と、この手の記事は過去にも書いたことがあるのだが、それくらい「デザインする」ということの奥深さを、デザイナーという職種をリスペクトしている。自分が携わっている「編集する」という仕事も奥深く、難しく、リスペクトに値するものだと思うが、自分がデザイナーではないだけに畏敬の念は強い(また、自分のイメージではデザイナーのほうがより「手を動かす感覚」が強く、現場に近い感じ、何と言うか「クリエイター」に近いイメージがある)。

 ところで自分は社会人学生として通った学校やデジハリでデザイン系ソフトの使い方を習い、個人的にサイトを作ったりしたので、一応Adobeの印刷系、ウェブ系のソフトは使える。なのでデザイナーのまねごとはでき、ビジネスクオリティでなければちょっとしたものはつくれるが、が、あくまで素人レベルだ。デザイナーの足下にも及ばないと思っている。

 小さな会社や組織だと、パンフレットや小冊子を予算の都合で自社で作ることがある。作った本人はそれなりに満足しているのかもしれないが、見てられないものが結構ある。学生がつくったものにも同じことがいえる。後者はまぁ、微笑ましいともいえるが、本人がどれだけ「見てられないものであること」に気づいているのか聞きたいと思うことがある(この感覚はデザインワークだけでなく、文章についても同じようなことがいえると思う)。

 プロと素人のデザインワークのもっとも大きな違い、というかセンスの分かりやすい見極めの基準がある。

 それは「フォントの使い方」だ。

 これはだいてい一見して分かる。ちょっとしたグラフィックデザインから、エディトリアル、ウェブ……なんだってそうだ。

「これは素人がつくっている」「このデザイナーはうまい」

 もちろん自分なりの「うまいー下手」の判断基準なのだが、これは「好きー嫌い」の分かれ目ではない。「ちゃんとデザインの修行を積んでいるかどうか」「センスがあるかどうか」を見極めるポイントだ。
 自分にはその「フォントのチョイス」のセンスがないので、いつも苦労するし、だいたい後悔する。直してもらえるなら直してほしいといつも思う(が、自分がデザインする時点でデザイナーに頼めないものである訳だから、叶わない)。

 どういうフォントがいいかは、アウトプットの目的や場面に寄るし、誰かを批判したい訳ではないので具体的な事例を出すことは避けるが、このことはデザイナーでなくても、デザインワークを作らないという人でも頭の片隅にとどめておいて損はないと思う。
 たとえば企画書やプレゼン資料をつくるとき、子どもの通う保育園や学校に寄せ書きをつくるとき、勉強会やサークルなどにプロフィールをつくって出すとき……デザイン系のソフトではなくても、ワードやパワポなどで何かしら他人の目に触れるもの(れっきとした「デザインワーク」だと思う)をつくることはあると思う。

(ただ、パッと見て「カッコいい」と思ったフォントでも、「よく意味を考えたらおかしい」ということもある。分かりやすい例を挙げると、クールなフォントを使った映像作品のポスターがあったとして、カッコいい仕上がりになっていたとしても、その映像作品がクールというよりハートウォーミングな内容なのだとしたら、ミスリードを生んでいるそのデザインワークはいいものとは必ずしも言えない)。

 もしこれを読んで少しでも「なるほど」と思ったら、身の回りや街角、オフィスで目に入った何か(何でもいい)を「フォントの使い方はどうか」という視点で見てもらいたい。「なぜこれを使ったんだろう」と考えると結構面白いと思う。
 

「同業者がヒクくらいにやれ」――電子書籍セミナーで学んだこと


 電子書籍のセミナーに2日続けて出席した。
  
 1日はAdobeのDigital Publishing Suite関連で、ADPユーザの企業担当者が登壇して事例を述べる内容(パネルディスカッションもあり)。無料セミナーだけに宣伝臭が強いのはさておき、“ADPユーザ”というくくりでは大きすぎと感じた。ADPでいろいろできるのは分かったが、制作の人間としては、自分が取り組んでいる業務内容に即した内容について掘り下げた内容だったらよかったなぁと感じた(このセミナーがちょっと面白かったのは、背広姿の参加者が多かったこと。いつも出るようなセミナーはラフな格好の出席者が多い)。 

 2日目は半蔵門で行われた、士業の方々に向けたセミナー。自分は税理士でもって会計士でもないが、縁あって末席に座らせてもらって聴講した。参加者に「電子書籍の筆者になりませんか」という提案含みの内容で、講師はサニー久永さん。恥ずかしながらサニーさんのことは今回知ったのだが、セミナーの内容はかなり具体的で面白かった。いつもより短い時間に凝縮したセミナーだったらしく、若干の消化不良感はあったものの(致し方ない)、無料でいいんだろうかと思うほど役に立ちそうな内容だった。 

 終了後、懇親会があるというので出席。会場近くの店で十数人で飲みながらセミナーの感想や、出席者それぞれが電子書籍を出すとしたらどういう内容がいいか、どういった目的でやるか、などを話し合った。サニーさんにも少しばかり話をうかがった(主役は士業の皆さんなので邪魔しないよう)。 

 たまたま隣り合わせになった方が最近独立したとのこと。同業者との差別化をどうすればいいか、ブランディングをどうしたらいいか考えているとという。電子書籍の活用を中心に話し合ったのだが、単に「税理士が書いた」「会計士が教える」では電子書籍のウリにはならない。出すからには売れるものにしたいし、売れなきゃブランドは確立できない。そうなると鶏が先か卵が先かという話のようだが、自分の打ち出し方、売り方の“方向性”は考えなきゃならない。

  しかし誰しも自分のことを客観視して、どの部分、どの要素ならセールスポイントになりそうか、なんて分からない。たとえ分かったとしても、どうやってアピールすればいいか、アイデアはそうそう浮かばない。そういう、いわゆるセルフブランディングの話になった時のサニーさんのアドバイスに目から鱗が落ちる思いだった。

  それは

 「同業者がヒクくらいやったほうがいい」 

というものだった。

  もちろん、「同業者がヒクようなやり方をしろ」といっているのではない。同業者はライバルの戦略、やり方を注視しているだろう。しかし、それ以外の人の視線を集めるのは難しい。「自分を売る」ということに慣れている(長けている)ならともかく、普通に自己アピールなんかやろうとしても、ついこじんまりとまとめてしまうものだ。周囲が「やり過ぎ」と思えるくらいやらないと、注目なんてしてもらえないのだ。 

 当たり前といえばそうなのだが、思い切りが必要だ。人は他人になど大して興味がない。だから関心をもってもらうには、分かりやすくして、打ち出したいポイント以外は排除したほうがいい。 

 それは記事の書き方にも通じると思う。
 本当はこんな話も聞いた、本筋じゃないけどあんな情報もある、なんてことまで書いてたら、何がいいたいのか読者の伝わらない記事になってしまう。本当にいいたいこと以外は思い切って落とす勇気、誤解を招くことを恐れない心構えが必要だ(嘘はダメだし、目立つこと最優先でやり過ぎると読者にあきれられるが…)。 

 自分の100%思い通りには相手には伝わらないし、すべてを受け止めてもらえる、期待する形で理解してもらえるなどという考えは不遜だし、幻想だ。少しでも自分の期待に近い理解を広げるための努力は必要だろうが、理解度が100%に近くなくてもいいから、関心を持ってくれる人を増やす段階というものもあるのではないか。記事にしろセルフブランディングにしろ、「これがウリです」とはっきりさせること。 

 その結果、敵が生まれるかもしれないが、むしろそれは歓迎すべきことではないだろうか。自分を偽ってはいけないが、まゆをひそめられるくらいの思い切りが必要だということは覚えておきたい。



(サニーさんの著書、遅ればせながら読んでます)

2013年2月20日水曜日

「やるやる詐欺」は被疑者も被害者も自分だ

アウトプットの機会を自ら作ることの意義


「やればできるのに」は 「やらずに先送りしていれば、本当はできないかもしれない現実を突き詰められなくて済むということなんだよな」−−。

 先日、セルフブランディングに関する取材をして、こんなことを思って反省した。

 話を聞かせてくださった方が、「アウトプットの機会は無理にでも作ったほうがいい。機会があると強制的にインプットするようになるし、意見をもらえるようになったり知り合いも増えたりする」とおっしゃっていて、しごくもっともだと思い、同時にギクリともしたのだ(記事が未公開なので取材の詳細は伏せる)。

 ここでいうアウトプットは、何も本や雑誌の記事を書いたり講演したりという大げさなものでなくてもいい。ブログを書くのだっていい。何かをインプットしたら、せっかくだからアウトプットしたほうがいいというのはもっともだと思う。しかしそれは「言うは易く行うは難し」で、続けることは難しい。自分もそのハードルの高さを感じている。、このブログのエントリの頻度が下がっていることがそれを証明している。

 だが自分にも書きたいテーマ、調べたい、詳しくなりたいテーマがいくつかある。以前からあるテーマもあれば、最近思いついたものもある。特に思いついたばかりのあるテーマは、大変そうだがやりがいも意義もあると思っている。ならすぐにでも書き始めればいいのだが、つい「このブログ(書きながら考える、考えながら書く)にはテーマがあわないので別ブログにしたほうがいいだろうなぁ」「ちゃんとインプットをある程度して恥をかかないようにしてから始めたほうがいいよなぁ」と思い、始めるのをためらっていた。

 そこで気づいたのは、これではやるやる詐欺ではないかということだ。この詐欺は被疑者も被害者も自分だから、余計にたちが悪い。四の五のいわずに書けばいいわけだから、まずは始めよう。このブログの更新頻度を上げつつ、書きたいテーマについては別のどこかで早々に書き始めたいと思う。

2012年6月30日土曜日

SHAREの時代のまちづくり――福岡県大刀洗町から届いたモノ



ソーシャルメディアが
広げてゆく

 昨日の官邸前デモの参加者数は、主催者発表で約15万人だったそうだ。警察発表では1万数千らしいが、主催者発表なんてそんなもの。それにしても報道であの群衆を見て正直、驚いた。何も「こんなに集まるのはおかしい」と思っているわけではないのだが。Twitterのタイムラインを見ると、デモを知った/参加したきっかけの多くがTwitterやFacebookで拡散した情報に触れたことだったようだ。津田大介さんの著書『動員の革命 ソーシャルメディアは何を変えたのか』(中公新書ラクレ)ではないが、今やソーシャルメディアが、大勢の人を動かす、大きなインパクトを持っているのは間違いない。

 ソーシャルメディアが広げるのは、「共感」といわれる。自分がいいと思ったものや心が動かされたものを、ワンクリックでシェアできる。『シェア<共有>からビジネスを生みだす新戦略』という本が発売されてベストセラーになったのはもう1年以上前だったと思うが、「シェア」という概念はすっかり浸透している。「シェアハウス」もメジャーな存在になった。

 「シェア」は新しい考え方ではないが、「オープン」や「ソーシャル」と共に時代を表すキーワードとなっている。新興国も経済成長を遂げるなど、世界中の多くの国が豊かになった。環境負荷の懸念は世界規模で高まっている。新しくモノをつくるよりは、すでにあるモノをシェアする時代になっているのだろう。あまり使わないモノ、環境に負荷となるモノをなるべくもたず、シェアするライフスタイルは、都心部での車との付き合い方を考えれば分かりやすい。「シェア」の仲立ちをソーシャルメディアが担っている。

「大刀洗」という町から
届けられた“キラキラ”

 先月、福岡に住む知人から封書が送られてきた。彼女が住むのは「大刀洗」という町だが、ご存じだろうか。
 福岡県の南部に広がる筑後平野。この地域で有名なのは久留米市だろう。この平野の北寄りに大刀洗町がある。「太刀を洗う」というその響きからも想像できるかもしれないが、名前の由来は(南北朝時代の)武将が太刀を洗った川があること。その川が大刀洗川と呼ばれるようになったことのようで、以前には「太刀洗」という表記もあったという。人口は1万5000人くらいの、そんなに有名な町ではない。もし聞いたことがあるとすれば、旧陸軍の飛行学校や飛行場があったことくらいではないだろうか。

 その大刀洗町では、行政、NPO、住民が一緒になった新しい形のまちづくりが進められているそうだ。役場内に事務所(大刀洗ブランチ)をつくり、NPO法人地域交流センターが全国公募で採用したスタッフを派遣。逆に町役場からは、同センターの津屋崎ブランチ(福岡県福津市。旧津屋崎町)へ4人の職員が出向、そこでまちづくりに取り組んでいるという。

 送られてきたのは、大刀洗ブランチの活動をまとめた冊子だった。24ページ(1折半)、A4正寸中綴じ4Cの小冊子。田園風景や町民たちの生活の様子、企画やイベントのレポートが写真とともに掲載されている。

 正直最初は、この冊子の目的や、活動の内容や目的がよく分からなかった。新しい形のまちづくりと言っている以上、「あぁ、あれか」と比較できる情報がないので仕方ないのかもしれないが、ウェブサイトやブログもあわせて読んで、取り組みの様子が分かった。活動については、オルタナでも紹介されている

ウェブ上での町の情報発信や、地元の物産を販売する市場の広報物の作成、市場を盛り上げるための仕組みの企画、またワールドカフェ形式の語り合いの場の運営など仕事は様々。こうした活動を通して、町内に散らばる素敵なモノ・コト・ヒトを思ってもいない関係で結び、新しい価値を生むことが目標だ。
ということらしい。 


 冊子のタイトルは『おもやい大刀洗』。





「おもやい」とは、「仲良くわける」とか「一緒に使う」といった意味の方言。英語でいうなら「share」だ。この冊子につけられていたカガミには、


「おもやい」とは、大刀洗弁で「分かち合う」という意味です。この冊子の歓声と大刀洗町のキラキラを、応援してくださったみなさまと分かち合いたいと思い……

 と書かれている。なるほど、冊子の写真や文章からは、関係者の思いや地元に対する気持ちが伝わってくる。町への愛情を持った人たちが、同じ価値観を分かち合いたいと思える人たちに向けて送った、愛すべき小冊子、掌冊子といえる。


 送り主とはFJを通して知り合いになった。私が筑後地方に住んでいたことがあるのを知って送ってくれたわけだ。
 私が昔住んでいたのは、福岡県大牟田市。福岡県の最南端の旧炭都だ。主に「筑後版」の記事を書いていたこともあり、筑後地域については愛着がある。正直、大刀洗町のことはよく知らなかったのだが、東京で福岡出身者に会うと嬉しいくらい、福岡県にも愛着がある。だから大刀洗ブランチの活動は応援したいと思う。何ができるというわけではないだろうが、活動が関係者の期待する形で実を結んで欲しいと願っている。


 ところで前出の津田さんの著書にはこう書かれている。

地域で情報を発信し、ムーブメントを起こしていくためには、まず母体となるコミュニティが必要です。コミュニティをつくるためには、ソーシャルメディアは有効な手段です。(中略)コミュニティをつくる際には3年を目安にする。

 とある。津田さんの意見を絶対視するつもりはないが、参考にしてもよいのではないだろうか。大刀洗ブランチも活動をはじめて2年目に入ったそうだ。3年といわず長期の視点ももっているのだろうが、特に今年度、来年度の活動には期待して注視したいと思った。

* * * * *

編集者としてこの冊子を読んで

 この冊子を持って思ったことが、このほかにもいくつかある。
 まず冊子のつくりに「惜しい」と思った。上で触れたカガミにあるように、これはあくまで関係者に向けた冊子であって、新たなファンの獲得を目的にしたものではないのだろう。だが今回私が手に取ったように、大刀洗ブランチのことをよく知らない人間が手に取ることもある。そうした視点を持った編集がなされていてもよかったのではないだろうか。たしかに丁寧につくられているし、読み手が前向きに読めば伝えたいことは分かる。繰り返すが目的が異なるのであれば「お門違い」ということになろうが、それでも「もっとこういうつくりにすればいいのに!」と思うところがあった(水を差すつもりはないが、仕事柄どうしてもそういう見方になってしまうのは容赦してほしい)。

 もう一つは、NPOに対する自分の理解が浅いということだ。自覚的ではあったのだが、改めて思い知らされた。この冊子と大刀洗ブランチについても、冊子を受け取ってすぐに文章にできなかったのは、よく分からないものは文章にできないからだ。今回は、自分なりにサイトなどを読んで、多少は分かってきたので(現場も見てないし取材もしてないが)文章にしてみたが、そもそもNPOなる存在については、分かったようで分かっていない部分が多いようだ。

 本稿は書きながら、いろいろと思考が脱線した(お気づきになられているかもしれないが)。可能な限り本筋とは関係ないことは割愛したが、いろいろと気づきがあったのは収穫でもあった。


2012年6月15日金曜日

履歴書は作品でありプレゼンだ――「履歴書は手書きがいいのか?」という疑問に対して



「履歴書は手書きで書いたほうがいいのか?」という疑問・質問を時々ウェブで見かける。

その質問に答えられるのは履歴書を受け取る相手だけだろうし、手書きでどんな履歴書に仕上げられるか分からないので、厳密には「手書きのほうがいいかもしれないし、意味がない(むしろ逆効果)かもしれない」としか答えられない。要は“分からない”。


だが私は、願わくば

履歴書は手書きで書いたほうがいい。

と思う。
だがその一方で、

手書きで書けばいいというものでもない。

とも思う。

私は合理的な考え方をする部分もある(と自分では思っている
)ので、「書類は印刷で十分」と思わなくもない。それに、「手書きでなければ評価しない」ということは、決してない。手書きに意味を見出さない考え方をおかしいとも思わない。

ではなぜ手書きのほうがいいと思うのかというと、まず情報量が格段に増えるからだ。

たくさん書けるということではない。MSゴシックやメイリオではない自分フォント”が持つ情報量は、決して小さくない。そもそも字体が意味を持たないのなら、世の中にあるあらゆるデザイン(ここではポスターやウェブサイトなどのいわゆるデザインワーク)がフォントにこだわって作られるはずがない。

履歴書とて、他人の目に触れる時点で「作品」である。

だから自分が履歴書の書き手という立場に立つなら、絶対に手書きを選ぶと思う。

それにワードなどで履歴書を作ると、誤字脱字する可能性が下がる。文法などおかしなところは波線表示してくれる。手書きの履歴書で、ごくごく簡単な漢字を間違えている人は意外と居る。他の業種、職種はともかく、出版や編集、制作に携わる人間には、書けるべき漢字レベルってもんがある。

パソコンで履歴書を作った場合はまた、志望動機などの欄で文字量が多すぎたとしても、削るのが簡単だ。その点、手書きだと勢い余って書きすぎてしまった場合に帳尻をあわせるのは難しい。ちゃんとスペースを考えて書き始めているかどうかが分かる(場合がある。これは計画性があるかどうかが分かるということだが、「計算できる=いい人材」とも限らないのは難しいところ)。

勘違いされると困るので述べておくが、「手書きのほうが温かい」という理由で勧めている訳ではない。私は何も筆跡鑑定ができる訳ではないし、(過去に履歴書を数百枚見てきたが)字がキレイな人がいい記者だったかというと、別にそんなことはなかった。当たり前だが。

またプリントアウトした履歴書なら簡単に複製できるので、多くの会社に送ることができる。逆に手書きだとたくさん書くのは大変なので、おそらくは出す会社は絞られるだろう(つまり真剣にエントリーしてきている)と考えることもできるが、ヒマならいくらでも手書きできるし、プリントアウトすることが心を込めないことでもない。

タイピングした文章にだって心は込められる。

心が込められているか、つまり真剣にエントリーしてきたかどうかは、「志望動機」などの文章を読めば、すぐに分かる。

本当に自分たちの仲間になりたいのか、単に就職先を探していて「どこかに入れればいい」と思っているだけで、偶然わが社にコンタクトしてきたのか。わが社の例でいえば、ちゃんとFJを読んでエントリーしてきているのか、そうでないのか。「読んではいるがおそらく立ち読みで済ませてるだろうなぁ」なんてのも、何となく想像できる(合っているかどうかは分からないが)。まぁ、気持ちの入れようはだいたい分かる(気がする)。

ただし難しいところだが、熱意があればいいというものではない。たくさんいろんな会社にエントリーすること自体が悪いわけではないと思う。自分だけ見てくれるけどルックスはイマイチな男を選ぶのか、モテる色男を選ぶのか。選択は自由だ。どちらがいいか、(相手が契りを求めるなら)その答えを決めるのは自分(採用側)しかない。
そもそも能力がないと意味がない。

むしろ私は過去の経験から、「熱意」は採用の基準にしないことにしている。なぜか? 熱意があるのは当然で、熱意をアピールするのは他にアピールすることが無いからと思うからだ。

反対に、能力があれば熱意がなくてもいいかというと、そうも言いきれない(ややこしくて恐縮だが)。能力が突出していて、“誰もが認めるような”結果を生み出せるくらいなら、結果以外のことは気にしたくないのだが、そもそも中小零細企業にそうそう突出した才能の持ち主がたくさん来る訳でもない(会社の規模を言うのは言い訳か……)。

例えば新聞社では、特ダネをコンスタントに取っていればそれこそ昼間っからクラブで寝てても、咎められないという考えだった(記者も減らされた今はともかく、基本的にはそういう考え方だった。自分が特ダネをたくさん取っていた訳ではない)。

この考え方は今も理解できるし、「まさにそうだ」とも思う。記者でなくとも、営業なら売り上げをちゃんと上げていればいい。

だがそれも上で触れたように、突出した売り上げを立てられる営業経験者がたくさん受けに来てくれるとは限らないし(新聞社は大企業だ)、社員として迎え入れる以上は、組織の一員として働いてもらう訳だから、最低限の規律は必要だろう。

たとえば、特ダネをたくさん取ってくる記者、売り上げをたくさん上げる営業であっても、挨拶ひとつしない社員であるなら、職場の雰囲気は悪くなる。できれば、それは避けたい。

そこで「いや会社の目的は利益を上げることだからいいじゃないか」というのであれば、その人材には社員として入社してもらうのではなく歩合制の契約を結べばいいだけのことだ。


目をつぶれるだけの成果かどうかという、要は(身も蓋もない言い方をすれば)程度の問題ということになる。



結局、履歴書を手書きにすることで自分の情報を少しでも多く相手に伝えられるなら、手書きにしたほうがいい。それができないと思うなら無理をすることはない、ということだ。

履歴書もプレゼンの一部だ。そのプレゼンを効果的なものにする手段として“手書き”が選べるなら、そうするといいと思う。




長々と当たり前のことを書いてしまった気もするが、ところで履歴書を手書きで書くかどうかという問題は、名刺交換をした後に送られてくるお礼状の問題(?)に似ている気がしている。

名刺交換はしたものの、さして盛り上がりもせず「また会いたい」なんてお互い思いもしない出会いというものは、残念ながらある。自分の魅力があれば別なのだろうが、ともかくその場合、お礼状が来るとかえって逆効果だ。「あぁ手書きの礼状を出すことがルーチン化されているのだろうな」と底の浅さが見て取れる。礼状の文面でも同じことがいえる。「誰にでも言える、誰との出会いでも当てはまるようなこと」を書かれても、心は動かないどころか、これも逆効果だ。

* * * * *

余談だが、面接のときに私がよく投げかける質問がある。一見、本筋ではないような話題なのだが、「実はそれは……」としっかりとロジックを持って答えてくれる人がたまにいるので、重宝している質問だ。

これを読んでくださっている方の中に、いつかわが社の面接を受けられる方がいるかもしれないので、ここではネタはバラさないことにしておく。

2012年5月21日月曜日

そこで何をどう書くべきか――「視点」について考える(1)

FJの休刊号・2012年6月号を発行した4月21日から一カ月が経過しました。

月刊誌なので1カ月は書店に置いてもらえるとして、5月21日までにはなくなります。
つまり本日、とうとう書店からも姿を消したことになります(サイトでは今後も販売しますが)。

こうなったことについて、
「編集長として書かねばならないこともあるのでは」というご意見もあるでしょう。
しかし言いたいこと、書きたいことは誌面で書いて(編集して)きました。
もちろんできなかったこともあり、またいつか……などという考えもありますが、
それができなくなったことは、すなわち力が足りなかったわけですから、
挑戦が広い支持を得られなかったという事実を甘受しながら、
次の歩みを繰り出さなければいけないのだろうと思いました。

ところで、これまであちこちで少しずつブログのようなものを書くなどしてきて、
FJに携わっていた間は、アメブロでもやってきました。
このままブログタイトルだけ変更して続けるということも考えましたが、
IDがfinancialjapanのママでよいのだろうか、ということもまだ整理できていません。

だからといってアメブロのアカを消してしまうつもりはないのですが、
一方で、アクセス数カウント法など、アメブロについて
数々の疑問が寄せられている現状にあって、
アメブロだけで続けていくのもなぁ、と考えたこともあり、
新たにブログを立ち上げていろいろ書いていくことにしました。
(アメブロを消さない理由には、financialjapanという名前を残しておきたいということもあります)


というわけで今日からここで(も?)書いていきたいと思います。


*   *   *   *   *   *   *   *   *


最初のエントリを何にしようかずっと考えていて、
さっきまで「色」について書くつもりだったのですが、
急きょ、「視点」について考えてみたいと思います。
まさにブログタイトルのように考えながらまとめていきたいと思います。


実は先日からエラそうなことにライター・編集講座なるものを始めました。
http://www.facebook.com/events/382734945106772/

編集長としては、今のところ結果を出せていませんが、
少なくとも、人の文章を分かりやすく直すだとか、
推敲や編集のスキルは、それなりにあるんだろうと思っています。
(クセもあるし、表現の幅も広くなんかありませんし、
そもそも「面白い文章を書く」能力が自分にあるとは思っていませんが、
分かりやすくする、推敲するのはそれなりに得意な気がしています)

そこで文章がうまくなりたいという方に教えるということをしています。
その過程で受講生の皆さんにはお伝えしたのですが、

「視点を知ること」

は本当に重要だと最近改めて思います。

例えばそれは、その媒体(ブログ)で伝えるべきこと、
個々の記事で伝えること、伝えるべきことを規定します。
何を書く(べき)か、どう書く(べき)かについてがおのずとハッキリします。

ただそれは、「書きたいことが何なのか決める」ということでは、必ずしもありません。
なぜかというと、職業ライターは、必ずしも自分が書きたいことを書いているわけではないからです。仕事であれば、ネタをフラレて書くわけです。それは一部のブロガーの方もそうでしょう。読者が読みたいであろうと思えテーマなら、さほど関心はなくともそのテーマについて書くはずです。
まぁ個性が大切なブロガーはともかく、仕事で文章を書く場合は、発表する媒体によって、そこで書くべきことは変わりますから、必ずしもそこに筆者の視点は必要ないということが珍しくありません。
そういう仕事の発注の仕方(ライターに個性を求めない)の是非はここでは論じません。ここで指摘したいのは、

その記事で何を書くべきなのかということは、
視点が分かっていなければ、分からない(書けない)

ということです。当たり前ですね。逆にいえば、

視点が分かれば、何をどう書くべきかが分かる

わけです。書ける人からすれば、しごくもっともなことなので、読み飛ばしていただいたほうが良い。
ですが、書けない人は、それがスッと理解できないという場合が多いように思います。

分かりやすくいえば、

・ 発注元が記事に、自分に何を求めているのか
・ その記事で読者に何を伝えるべきなのか
・ その記事に、そのメディアに読者は何を望んでいるのか。

ということが分かるかどうか。それは、“出発点”としては大きな違いです。
(それが分かっていれば、そこから外すということもできます=分からないと外せない)

世の中で何か起きた時、ニュースを聞いた時、そこで取り上げるべきかどうかが分かります。
取り上げると仮定して、何をどう書くべきかが分かります。

すごく分かりやすくいえば、R25の巻頭の「RANKING×REVIEW」で書くのと、
ウーマンエキサイトに書くのとでは、まず取り上げるネタも違うでしょうが、
たとえ同じネタで書くとしても、まっっったく違う記事になるわけです。

これだけ違えば分かりやすいですよね。
(「そんなん分かって当たり前」と思ったら、何か一つテーマを決めて、自分なら何をどう書くか考えてみてはどうでしょうか。金環日食でも、きゃりーぱみゅぱみゅブームでも、河本準一家族の生活保護受給の件でも、チャンピオンズリーグでも、B-CASでも何でも構いません。それを、どこに発表するかという想定とかけあわせて、何を書くか考えてみる。意外に難しいかもしれません)

それに、いつも分かりやすいとは限りません。
たとえば同じ雑誌でも、コーナーによって書くこと、書き方は変わりますし。時期によっては同じ雑誌、同じテーマでも、書くこと自体が異なります(視点はブレてはいけませんが)。

ライターとして分かるべきなのは、
自分が書く記事は、何のため掲載される記事なのか。
このページのこの文章で伝えるべきなのは何か。

そういうことです。それが分かると、話が早い。

ただし「話が早い」のが「正しい」とは限りません。

直観的に分かるからいいというものでもないのです。何かネタを振られたときに、「あっ、これなら、こういうことを書いたらどうだろう」「データやコメントは、あそことあのサイトで調べればいいだろう」ということにすぐに気づけば、たしかに話は早いのですが、それが正しい・面白いとは限らないからです。

「ストロベリーナイト」では、姫川は直観をもとに捜査を進めますが、日下はとにかく丹念にデータを積み上げていき、直観という予断を可能な限り排除します。まったく手法は異なりますが、どちらが正しいというわけではありません。
(ただしネタ元はたくさん持っておくべきです。ネタを振られてからあちこち調べ始めるのでは遅い)


ですが、「話が早い」という意味では、すぐに分かったほうがいいわけです。
今どきそんな悠長に仕事なんてしてられませんから、サッと分かったほうがいい。


また、これは言うまでもないのですが、途中で、そのロジックが成り立たないことやデータが集まらないこと、結果的に面白くないことが分かったら勇気をもって別の方向に進まなければいけません。
推論がなければ調査は進みませんが、調査の結果、推論が間違っていることが分かったら、論理を組みなおさなければいけません。でないとねつ造やデータの都合のいい解釈をするようになりますから。



記事に正解はない、ということがよく言われます。

ですが、不正解はいっぱいあります。


少なくとも視点が分かれば、その不正解にたどりつくことはなく、バッサリ直されることもなくなります。