2023年12月3日日曜日

人間は変わるもの。ブレないこと・一貫性だけを強調することにそんなに価値はあるのか? 『訂正する力』(東浩紀)感想

訂正する力

東浩紀さんの『訂正する力』(朝日新書)を読了。

ビジネスでもエンタメでも何の世界でもいいのですが、ある人が頭角を現わしたり、注目されたりすると、ずっと昔の発言や行動が掘り起こされ、まったく関係のないようなことであっても、ネガティブな評価に結び付ける傾向がときおり見られるのが、自分はすごく嫌でした。

「昔はこんなことを言ってたのに、今はこう言ってる。意味が分からん」みたいなこと。いや、それよりむしろ、「昔こんなことを言っていた。だから今も同じ意見のはずだ。だからダメだ」みたいなほうでしょうか。

たとえば若いころにちょっとトガったことを言っていた人物が、歳を重ねてなお同じ考えを持っているとは限らないと思います。

なのに、なぜそこで「同じ人物」というだけで、「変わってない」と決めつけてしまうのでしょうか。


もちろん、内容や程度にもよると思います。犯罪行為に加担するような発言や行動であれば、問題になることもあるでしょう(それとて、一定の禊=服役などを含む=を経ていれば、「いつまでも言ってやるなよ」とも思いますが)。

しかし、そもそも人間なんて、変わるものだと思います。自分のことを思い出してみてほしいのですが、いま40代の人が、今の自分と19、20歳のころの自分とで、いろいろな考えは大きく変わっているのではないでしょうか。

いま20代の人は、中学生・高校生のころの自分を振り返ってどうでしょうか。きっと変わっているはずです。

ここでいや、変わってないという人は、成長していないか嘘をついているだけでしょう。

たしかに「芯」「核の部分」については変わっていないかもしれないけど、何を評価するかーしないか、何を好むかー好まないか……いろんなことが変わっているはずです。

にもかかわらず、変わったことを「変わってしまった」としか考えられない、逆に「変わっていない」と決めつけてしまう。そういう、変化を恐れた、認めない立場の人が多い(ように思える)ことが、とても嫌でした。

なので、ゲンロン・東浩紀さんの新刊『訂正する力』(朝日新書)を読んで、これまでモヤっていたいろんなことが整理でき、「やっぱりそうだよな」と思えました。

「はじめに」に本書を読むべき意義が記されている

本書で著者の東さんは、明治維新・敗戦を例に、日本がリセット願望が強い国であるとした上で、「日本がよくなるには一度とことんダメになる必要があるとの見方があるがそれは単純」と反論し、国がある程度成長したら豊かさの維持を考えなければならず、それは個人に置き換えれば老いの肯定であると指摘します。そして、老いるとは若いころの過ちを訂正しつづけることと主張しています。

「訂正する力」とは、ものごとを前に進めるために、過去を再解釈し、現在に生き返らせる柔軟な思想をもとに、現在と過去をつなぎなおす力としています。

東さんはまた、日本には変化=訂正を嫌う文化があり、その例として政治家が謝らないこと、またネットでは、かつての意見との違いを探し出され、「以前の発言と矛盾する」ということが指摘、集中砲火を浴びて炎上するのが珍しくないことを挙げています。

特に後者については、その傾向が「論破ブーム」の中で強まっているとし、発言内容に矛盾があることや、過去からスタンスが変わっていることが”敗因”となってしまう。そういう判断基準が広がっており、謝るどころか、議論を通じて意見を変える機会すらないと嘆いています。

このあたり、序盤の「はじめに」ですが、確かにその通りだと思います。

冒頭にも挙げましたが、こうした点はつねづね疑問に思っていました。意見が変わることの何がいけないのかと。

もちろん意見がコロコロ変わるようでは、よくよく考えた上での発言・立ち場ではないということなので、説得力がないと言われても仕方ない。

しかし、たとえば何十年も前にした発言や、した行為・行動、とった立場と、今のそれらが変わってしまった時に、変わったこと自体で責められる必要などないと思います。

なぜなら、人間、意見や考え方は変わるものだと思います。若いときはこう思っていたが、歳を経ていろいろな経験をして、こう思うようになった、ということはあり得るし、むしろあっていい。

にもかかわらず、「ぶれない」ことがあらゆる分野で評価されている。評価・礼賛されずぎです。むしろ、それしかアピールできることがない存在すらあるように思えます(ぶれてない=変わってないぞ、どうだすごいだろ?という感じです)。

変化を恐れたり、認めようとしなかったりするのは、他人の成長と成功だけをうとましく思いつつ、自らが変化のリスクを負う覚悟がない臆病者の態度ではないでしょうか。