2018年12月2日日曜日

教育するという不遜

© いらすとや
 「誰かが誰かを教育することなんてできない」--。ここ数年、自分にごく近い周囲に対するアウトプットの場で、この考え方を持っていることを幾度となく伝えてきた。

それなりのキャリア(というか年齢)になると、会社ではプレイヤーとしてだけでなくマネジャーやメンターとしての役割も求められるようになる。その中にはたいてい「教育」も含まれているのだけれど、誤解を恐れず簡単に言い換えれば「他人を教え育てることなど無理」だと思っているのだ。
何も自分の知識や経験を伝えたくないわけではない。その意味ではむしろ自分は「教えたがり」のほうだと思う。伝えること、教えることで感謝されたいとさえ思う。
しかし、「自分はこの知識や考え方が今の君に役に立つ」と考えて相手に伝えたとしても、それが相手が求めていることでない限り、言葉としては伝わっても相手の腑には落ちない。分かったつもりでも、応用して自分の役に立てることはできない。たくさんビジネス書を読んでも自分の仕事にはつなげられないのと同じだ。

受け手の姿勢がなければ教育は無駄

大好きな作家の森博嗣さんが自著で「教育とは、受け手に『学んでやろう』『吸収してやろう』といった積極性が存在しない限り、ほとんど無駄だと断言して良い」と書いているが、まさにそうだと思う。
だからできることは、「求められれば与える」ということだ。その意味では考えや体験を惜しまず伝えるようにしている。
しかしそれとて限界がある。自分のプレゼン力、コミュニケーション力の限界もあって、与えたいことがすべて相手にわたるとも思えない。
教育者である(あった)森さんは上で紹介した文章に続けて「もし、教師にできることがあるとしたら、実にささやかな範囲ではあるが、学生にその『やる気』を出させることだけだ」と書いている。
これは教育者という教育を生業にしている人には求めたいことではある。だがよくよく考えてみれば、一般のビジネスパーソン、会社員は教育の手法について学んでなどいない。それに受け取る側の後輩や部下が、(教える側の)自分が伝えたい/伝えられる分野で「やる気」を持っているのか、やる気を持ってまでその分野の能力を高めたほうが彼/彼女のためになるのかも分からない。
たしかに、それをいうなら大学教員だってあくまで研究するためにその立場を求めただけで、学生を育てたいと教員になった人ばかりではないだろう。その意味では会社員と同じなのかもしれない。
こう聞けば、中には「相手が吸収するかどうかは関係ない。与えて、あとは相手の問題」という人もいるだろう。しかし一方で「うるさいオヤジだな、と思われるのが嫌だ」という人もいるはずだ。いやいや「そう思われるのがオヤジの役割だ」という反論もあるかもしれない。「やる気を出させるのが上司なり先輩の仕事だ」と上長はいうだろう。
自分は紙から始まって電子書籍やウェブコンテンツのライティングもやったし、映像の制作・編集、ちょっとしたデザインもやってきた。いろいろな形のアウトプットを作ってきた今、自分は編集者でありライターであると思っている。
だから編集者として、ライターとしてレベルを上げたいと教えを乞われるのであれば、伝えられることを伝えたいと思う。願わくばそこには、単に目の前の課題を超えるためだけのスキルを求める姿勢ではなく、汎用的な能力を身に着け、高めたいという思いがあって欲しいと思っている。
ただ一方で、編集者やライターとしての能力は、編集者やライターを名乗っている(名乗りたい)人だけに役に立つものではないとも思う。時代を感じ、未来を思い、何が面白いか、何を伝えるべきか、何が求められているかを考える。そのうえで予算やチーム編成、会社から求められている結果やKPIを踏まえて、しっかりと納期内にアウトプットにする。これはどんな仕事にだって役に立つ能力ではないかと思う。
それを求めて欲しいと願いつつ、今日も、聞かれれば答えるし、求められれば応える。そして、プレイヤーとしての能力向上も求める。ただそれを繰り返すだけしかない。正解はない。