2017年1月16日月曜日

メディアをつくるということに関するメモ


「メディア」という、ざっくりとしたテーマでちょっとしたスピーチを頼まれたので、あらためて考えていることなどを整理した。田端さんの『MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体 (宣伝会議)』からコンテンツの軸については引用させてもらいつつ、過去に複数のメディア関係者から聞いて自分なりに納得できた視点を思い出しながら、まとめた。十数枚のスライドに数時間でまとめたものを、簡単に振り返っておく。
まずメディアの定義から。コミュニケーションを媒介するモノ・コトであり、メッセージがあって、その送り手と受け手がいるというもの。雑誌や新聞、ニュースサイトのようなものから、ちょっとしたメモもここに当てはまる。
メディアをつくるということはすなわち、どこの受け手にどんなメッセージをどう伝えるかを考えることに他ならない。
多くの場合は送り手はメディア企業だが、最近では非メディア企業がオウンドメディアを持つこともあるし、個人や消費者もブログなどで発信する。CGMのようなサービスに意見を載せることも、メディアづくりに寄与している。


メッセージを載せるコンテンツの特性については3つの判断軸がある。ストック⇔フロー、権威性⇔参加性、リニア⇔ノンリニア。ストックはコラム、フローはニュース。権威性は送り手から受け手への一方向性が強いことが多い。雑誌など。参加性はCGMなど。前者がミシュラン、後者が食べログ。リニアはコンテンツの消費に時間軸が持ち込まれるもので、映画が代表。ウェブメディアはノンリニアといえる。


自分が編集長を務めるZUU onlineについて考えると、まずストック⇔フローの軸では、当初ストック型サイトとしてできた後、ニュースを志向してフロー型要素が強くなったが、今はまたストック型に回帰しており、今後もそれを強める。権威性⇔参加性の軸では、明確に前者だが、今後は後者の要素も入れたいと考えているところ。リニア⇔ノンリニアでは、明確にノンリニアだが、映像コンテンツや記事コンテンツのパッケージ化によってリニア要素も入れるかもしれない。

そして記事をつくるうえで重要な視点の問題。同じメディアの中でも発信者が違う場合について。一番違うべきポイントを分けるのは、通常記事か広告・PR記事か、どちらなのかという点。前者は発信者が編集者・編集部であり、後者はまず企業やクライアントがある。もちろん後者も(純広はともかく)編集者・編集部の視点も入るが、一義的には主語は企業・クライアント。
しかしどちらの場合も同じなのは「届ける先は読者である」ということ。


たとえばいい商品やサービスに出合った場合、編集者・ライターが何をするかというと、取材をして紹介する。なぜかというと、「読者のためになる」と思うから。「面白い」と思うから。
しかし、もし「商品やサービスを紹介してほしい」といわれた場合はどうするか。その場合は、「読者のためになる」と思えば、「面白い」と思えば取材して紹介する(してもいい)。
そこで「特別面白い、ためになるとは思わない」場合はどうするか。この場合は、広告として掲載することは可能だ。
さらに、「これは面白い、ためになるどころか、伝えたくないと思った」場合はどうするかというと、「広告としての掲載すら断る」ということになる。
つまり何が面白いか、ためになると思うか、を決めるのが編集者などメディア制作者である。このため、制作に関わる人は高潔であること、良心を持つことが求められる。


その担保のために必要なのが「編集権の独立」である。たとえば経営陣が、自社またはクライアントの利益のためにコンテンツを制作させるとする。もちろん、それが読者のためになるものなら別だ。だがそうではないと分かっていながら、そうしたコンテンツを作るようなメディアが、メディア企業が読者から支持され続けるはずがない。


そして、「本当にそれが読者のためになるのか」「面白いのかどうか」は究極的には誰も判断できない。少なくとも、発信することを決めた編集者が自分に問うしかない。だから高潔である必要がある。


とはいえメディア企業も企業である以上、儲けなくてはいけない。だから編集と経営は、ある意味で対立・線引きはしながらも、大きな方向性としては対立ではなく協調の道を進まなければいけない。稼げるメディアでないと続けられない。続かないと伝えたいことは伝えられない。


そしてメディア制作に関わるすべての人が持っていなければいけないのは、「そのメディアはメッセージを持っているか」という問いへの答えであり、「すべては読者のために」というマインドである。