2016年2月17日水曜日

反対意見を述べることの意味 「とにかく言うべき」か「相手を慮れ」か

© フジテレビ

誰もが知るヴォルテールの言葉に、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というものがあるsそうです。

意見が対立した際に、「まぁ、それぞれに意見・考えの違いがあるものだ」と考え、判断は第三者に任せるのが正しいのか。それとも(影響はともかく)「違う」と反論すべきなのか。

月9ドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」内の描写で、介護の現場を過酷に描きすぎていることに対し、日本介護福祉士会が配慮を求めるよう意見書を送ったという。今回の話に限らず、相容れない意見に触れた時に反対意見を述べるという行為については、いつも整理できない。

本件について、日本介護福祉会の立場に立てば、相手が今後配慮しようがしまいが「反対意見であるということを言う」という意味がある。ドラマ制作陣(またはCX)に対してのアピールでもあるし、介護業界関係者へのポーズにもなる。もう一つの意味・意義があるとすれば、本当に今後の制作に影響を及ぼせるかもしれないという点だ(もしかしたら、本当に行動を変えさせるつもりでやっているのかもしれない)。

逆に制作側に立てば、反対意見は「余計なお世話」である。ドラマはあくまで「フィクション」。それに過酷に描き“過ぎて”いるかどうかなど、客観的に判断することは難しい。制作側とて、十分に判断した結果、現実として過酷な実態があり、さほど珍しいものではないという認識の下、特別誇張した表現でないと思っているかもしれない。



「それぞれに意見・考えの違いがある」と考えた時に、「意見は違うけど、言う権利は尊重する」と考えて判断を視聴者に任せるのが正しいのか、それとも(影響はともかく、とにかく)「違う」と言うべきなのか。

さらにいえば、「立場によって意見が変わるということがあってもいいのか」ということも疑問だ。たとえば自分が日本介護福祉会の立場で「絶対に意見書を出すべきだ」と思うとして、「でも逆に制作側に立ったら口出しするのはおかしいと思うだろう」というのであれば、それは矛盾している。
相手の立場に立ったとしても、その意見を言える(相手を尊重できる)のか。そこは考えるべきではないかと思う。



しかし、である。そもそもこの「矛盾」はあってはいけないのだろうか。

つまりその矛盾を許容することこそが、「本当にその立場にあることの重要性を認識している」といえるのではないだろうか。



たとえば、自分の家族が事故で傷つけられたとする。傷つけた相手は憎い。しかし事故である。故意ではない。そのとき、自分はどうすべきなのか。「仕方ない」と思って唇を噛んで堪えるのか。「仕方ないと思うが、おまえのことが憎い」と言うべきなのか。それとも、報復するのか……。



まぁこれは大げさな例ではあるが、ビジネスでは対立する意見をぶつけあうことがよくある。ここで思うのは、それぞれがそれぞれの立場に立った、相手のことなど慮らずに、自分たちの利得のみを考えて、最大限に権利を追求すればいいのではないかということだ。それぞれ相対する立場から、いずれも意見を思い切りぶつけあい、「どちらが正しいか」は当事者以外が判断すればいいとも考えられる。



今回のドラマの件でいえば、BPOのような組織があるが、ビジネスの現場では必ずしもジャッジがいないのが困りものである。
言うべきか、言わざるべきか。いつも悩むのである。