2013年5月23日木曜日

スマホが大きくなって良いこと悪いこと

 スマートフォンをGalaxy SからGalaxy S3αに機種変更した。画面は4インチ、ワイドVGAから4.8インチのHDになり、CPUも1Gから1.6GHzのクアッドコアに。なぜか前機種はGPSの反応が悪かったが今度はそんなこともなく、Arrows Tab LTEの出番がほとんどなくなるほど、S3で何でも済むようになっている(新規契約と同時に済ませたことや、値段交渉をしたことからかなり安く済ませられた)。Arrows Tabはテキスト入力のレスポンスが悪いこともあって、週末などブログ記事もS3で書いてしまうほどで、いい買い物をしたと満足している。

 しかし困ったことがない訳でもない。まずサイズが大きくなって見やすくなり、入力しやすくなった反面、ミスタッチも多くなった。

(左から)Galaxy S3αとS
  
 たとえばSのときは片手で操作できていた(下写真)。操作は主に左手で行っているが、親指が余裕で画面の端まで届いていた。画面右上のほうも無理すれば届いていた。


だがS3αでは左手だけでは操作が完結できなくなってしまった(下写真)。親指が端まで届かなくなった。下の写真では指が若干曲がっているようにみえるが、思い切りのばしても親指の腹は、画面の端まで届かない。無理に指先だけでも届かそうと思うと、グッと握り直さなければならず、ホールドの支えとなる小指が痛くなる。

  入力はQWERTYのキーボードで行うようにしているので、画面が大きくなった分、キーのミスタッチは減った。しかし今度はアプリの広告ミスタッチが劇的に増えてしまった。

 これまで使ってきたアプリの広告でクリックしたくなるものはなかった。いまS3αで使っているアプリで広告が出るのは2chのビューアーくらいだが、まず毎日のように、画面下に出てくる、オンラインゲームを中心とした広告をミスタッチしてしまう。
 「別に広告をクリックするくらいでお金を取られるわけではないだろ」「無料のアプリを使っているんだからそれくらい我慢しろ」と言われそうだが、意外とストレスになるし、「そもそもアプリにお金をかける人ってそんなにいないだろ」とも思う。
 また上にも書いたのだが、左手でしっかりホールドしたときに小指が痛くなるのも意外とストレスになる。それなりの大きさなので、しっかりと持っておかないと簡単に手からすべり落ちそうになってしまう。

 携帯でも音楽プレイヤーでも、一度は小さくなって、また機能が付加されて大きくなって、やがて使いやすいサイズになっていくのだろうが、その意味ではスマホは適切なサイズ(いい落としどころ)が生まれていないのかな、とも思ったりする。

 

2013年5月22日水曜日

教育問題について考えるサイト「育ナビ」 初回記事(横浜市の待機児童問題)アップしました



 先日、横浜市の保育問題について書いた記事でも触れましたが、荒木由美子市議(日本共産党)のインタビューを公開しました。

「待機児童」改善した横浜市・報じられない裏側 荒木由美子市議インタビュー(前編)
「待機児童」改善した横浜市・報じられない裏側 荒木由美子市議インタビュー(後編)

 「育ナビ」という教育問題について取材し報じるサイトを立ち上げました、その記事の第一号です。このサイトでは乳幼児期から小学校3年生くらいまでの子どもを対象にした教育について考えたいと思っています。小学校3年生はちょうど学童保育が終わる学年です(高学年までやっているところもありますが)。保護者をはじめとした大人たちの影響が強い、幼少期の教育について、識者や自治体、企業などに話を聞いて記事にすると同時に、意見も募っていきたいと思っています。一方的な意見の表明をするためのサイトではなく、いろいろな立場の意見が集まる場所にしたいと思います。

 荒木議員に取材したのは4月末でしたが、取材をお願いしたのは、いま教育問題で取り上げるべきは「待機児童問題」が旬だろうと考えたことが発端です。杉並など都内の関係者への取材を当初考えていましたが、婦人公論で杉並区議と住民代表の「炎上対談」をやられてしまい、一方でTVニュースで「横浜方式」が盛んに持ち上げられていたため、「横浜の保育の問題点について聞いてみたい」と考えました。
 もしかしたら共産党所属の議員のお話ということで、色眼鏡で見てしまう方もおられるかもしれません。しかし荒木議員は保育士として勤めた経験もあり、横浜市の保育についても批判だけするのでなく、良い点は評価しておられます。保育の理想を持ちつつ、現実的にできること・すべきことをふまえて精力的に活動されています。ご一読いただければ、傾聴に値する内容と評価していただけると思います。

 サイトを立ち上げたばかりで、また運営も細々とやっているので、まだ初回のインタビュー記事しかありませんが、続いて横浜市の保育関係者に取材をしたいと考えています。

 また「育ナビ」のコンテンツについては、ある程度取材記事がまとまったら電子書籍にしていく考えです。
 待機児童問題に限らず、教育についてはいろいろと調べたいことがたくさんあります。学童保育、教育委員会制度、早期学習……。サイトで取り上げるべきテーマや、サイトの記事へのご意見、日頃感じている教育問題、実際に体験したエピソードなどを募ることも考えていますので、今後「育ナビ」をよろしくお願いいたします。

2013年5月21日火曜日

カチンときた時に問われる――乙武さんの入店拒否の件で



 乙武さんが銀座のレストランでの入店拒否にあった件で、彼とレストランそれぞれに対する擁護と批判の両方をネットでたくさん見かける。言った言わないの問題、そもそも完全なバリアフリーをすべての店舗が提供できるかどうか、店名を出すべきなのか、などなど検証すればいろいろな意見がでてくる問題だ。だがこの件について僕が考えたことは、「果たして自分が乙武さんの立場なら、または店主の立場なら、どういう対応をしていただろうか?」ということ。「もし現場に自分が当事者としていたとして、今回騒動になったような行為をしたのでは?」ということだった。

 僕は乙武さんに雑誌の取材などで数回お会いし、Twitterで何度かやり取りをしたことがあるだけだが、とても爽やかで真面目な好青年だと思っている。もちろん取材者に見せている顔がすべてではないだろうけれど、それでもたくさんの人に会っていれば、「この人と友達になりたい/なりたくない」ということを感じ取るし、ふとした瞬間に「ニコニコしてるけど、こいつは嫌な奴かも」と思わされることがあるが、彼にネガティブな印象を持ったことはない。また実際に彼と会って話した人で、彼を悪く言う人を僕は知らない。

 だから今回の件でも彼は悪くないだろうといいたいのではない。だが店名を出して批判しているということを知ったときに思ったのは、「あれ? どうしちゃったの?」「それはさすがによくないだろう」ということだ。だが同時に、親近感のようなものを覚えた。

 Twitterでの彼のツイートを閲覧している方ならご存じと思うが、TL上での彼は毒舌、歯に衣を着せない発言で知られる。障害をネタにしたツイートでも平気でして、ときに各種掲示板でもヒかれてることがあるほど。そういう行為をいいと思うか、嫌悪感を感じるかは人それぞれだと思うが、ひっくるめていつも「叶わないなぁ」と思わされる。彼がいうことはいちいち正論だからだ。勝手な思い込みや固定観念をいともたやすく破り、「かくあるべし」「自分はこう思う」という正論、持論をストレートに、躊躇せず(実際は葛藤があるかもしれないが)展開している。だから何かにつけ、「さすが乙武さん」という見方をするようになっていた。

 だけど今回、彼は自分でも後で反省するような行為をしてしまった。実際、彼はブログで反省文を掲載している。「あぁ彼も普通の人なんだ」ということを改めて感じ、親近感を覚えたのだ。障害者だから普通じゃないと思っていたということではなく、乙武洋匡という人物について、彼の態度や発言がいちいち首肯せざるを得ないものばかりだったから、「普通じゃない」と一目置かざるを得なかったのだ。

 だがその文面を読むにつけ、改めて「やっぱり叶わない」と思った。ここまで自分の嫌らしいところをさらけ出せるものだろうか。つい格好つけたり、都合の悪いところは隠したりしてしまうものではないだろうか。そして彼はその文の中で、反省しながらも、店主への批判もしっかりしている。そこに「読む人に反省と思われなかったら嫌だから、そういうことは敢えて書かない」という思考はない。計算ではないからこそ、言うべきは言う、というスタンスなのだろう。

 別に障害がある人の発言が正しいとか、客だから絶対正しいとか、さらにいえば乙武さんだから間違えないということはない。彼も、自分が障害者だから、客だから、乙武洋匡だから、有名人だからということは”基本的には”思ってないだろう。だがふとした瞬間に、カチンとくる。そしてその気持ちを吐露してしまった。

 そりゃもう、「そういうこともあるでしょ」という類いのもんじゃないだろうか。

 たしかに店主の側からすると、さらされて迷惑だという見方もできる。だが乙武さんが説明していることがそれなりに事実であるならば、「そりゃ言われても仕方ないのでは」とも思う。でも自分が店主の立場に立ったとして、失礼なく、でも無理の無い範囲で、気持ちのよい対応を自分ならできるだろうか。カチンとだってくるだろうし、つい言っちゃいけないようなことも言うのではないだろうか。そう考えると、店側にも「分かりますよ」と、これまた勝手に親近感を抱いてしまう。

 どちらの立場に身を置いて考えても、やはり他人事で済まされる問題じゃない。世の中きれいごとばかりじゃないし、理想はあっても自分が実現を阻んでいることもあるし、それを改めて批判されれば素直に受け入れられなくてカチンとくることがある。そうしたときに何か問われる資質があるのかもしれない。まだまだ自分も修行が足りんな、修行が……。

2013年5月20日月曜日

待機児童ゼロ達成 賞賛の一方で検証も必要だ



 横浜市の林文子市長が本日5月20日の会見で、待機児童がゼロになったと発表したそうです。ハード面の設備を充実させたことや、利用者と直接連絡を取り合ってサービスや保育所を紹介したりする保育コンシェルジュ制度の導入、役所内の連携など、いろいろな取り組みが功を奏したということでしょう。

 横浜の状況については先日、地元議員に取材をして、なかなか全国ニュースにはならない、現場の実態や悩みを聞きました(近いうちにインタビュー記事として公開したいと思っています)。実際には前の中田宏市長時代から、保育に関する取り組みは改善されていたようですが、最近のニュースでは高く評価されている「横浜保育室」については報じられていない限界がありそうですし、保育所などを急に増やしたことによる新たな問題もあるようです。それに、「本当にまったくゼロ」ということは、おそらくないでしょう。とはいえ、統計上でも一旦はゼロになったということを前向きな評価してもよいのではないでしょうか。

 「ちょっと待て」という市民はたくさんいると思います。想像ですが「保育サービスを利用できてはいるけれど希望とはほど遠い」とか、「うちは横浜保育室を使ってるけど本当は認可保育所に預けてもっとがっつり働きたい」とかいう家庭は少なくないと思います。また夏に控えた市長選に向けたアピールだという見方をする人もいるかもしれません。問題もたくさんあると思います。

 それでも、数年前までの市のサービスや設備だけでは保育所に入れなかった子どもが、ここまで充実したために入所できたというケースは少なくないでしょうから、やらなかったままだったことを想像して比較すると、絶対にやってよかったと言えるのではないでしょうか。

 取材の際に議員に紹介してもらって購入したのが上に画像を貼った「調査季報 vol.172 特集 横浜の子育て支援」です。市役所で500円で売っていますが、webで記事が無料公開されています(!)。これをみると、多角的に待機児童ゼロに向けて取り組んできたことが分かります。関心のある方はご一読されるといいと思います。またぜひ関係者(市、保育所、コンシェルジュ、保護者など)に取材したいと考えています。 

2013年5月19日日曜日

悲恋の話の広告に笑顔で出ることはアリかナシか


 女優岸恵子さんの小説『わりなき恋』(幻冬舎)が売れているそうです。5月18日付け読売新聞朝刊に掲載された全5段広告では17万部突破とのこと。
 その広告にはコピーとして、「女盛り、70歳。最後の恋、最高の恋ーー。」とあります。また、あらすじの説明によると、国際的ドキュメンタリー作家の女性主人公(69)と、大企業のトップ(58)がパリ行きのファーストクラスで知り合ってから始まる物語だそうです。さらにこんな紹介もあります。「愛憎、献身、束縛、執念、エゴ……。男女間のあらゆる感情を呑み込みながら、燃え上がる鮮烈な愛と性。生と死を見つめる感涙の終着駅。」……。

 これらから何となく予想はつきますが、素敵な、そして切ないラブストーリーなのでしょう。別に茶化す気も笑う気もありません。気になったのは、その広告で岸さんがニッコリと笑っている写真が出ていること。悲恋を想像させるお話の著者が、PRでニッコリいていることに違和感を覚えました。

 そういえば先日、映画「リンカーン」を観たのですが、冒頭に監督のスティーヴン・スピルバーグが出てきて、時代背景を説明します。
 そんなの要らないんじゃないかと思いましたが、それも含めて演出であり、PRの戦略なのでしょう。日本以外でも同様の映像が流れているのか気になりますが(スピルバーグ監督は日本の視聴者に呼び掛けていた)、それはさておき。もちろんシリアスな感じで、淡々と説明をしていました。

 もしそこで監督がニコニコしていたらおかしいでしょう。しかしそれは冒頭の広告についても言えるのではないでしょうか。この小説を読んだ訳ではないので勘違いもあるかもしれませんが……。

 ただし、作品の中身と広告がすべて同じ雰囲気で統一されてないといけないのだとすると、映画公開前のキャンペーンでずっとしかめ面してたりしなきゃいけないことになるので、さすがにそれは無理でしょう。

 どこまで統一されていれば違和感がなくなるのか分かりませんが、やはりいくらフィクションの作品でも、著作物と著者のイメージに解離があると残念に思うものではないでしょうか。それは別に本当のところがどうかは関係なくて、視聴者、読者の前に出てくる時のプレゼンのあり方の話です。そこは統一されていてほしいものです。


2013年5月18日土曜日

異なる常識に触れたときに――「図書館戦争」と「真夜中のパン屋さん」を観て


 アニメ「図書館戦争」とドラマ「真夜中のパン屋さん」を観ていて、「自分の世界とは違う常識で生きている人たち、世界に触れたとき、果たして自分は受け入れられるのだろうかということを考えた。

 「図書館戦争」の第6話「図書隊ハ発砲セズ」。原作にはないアニメオリジナルのエピソードだそうで、ググるとあらすじの矛盾を指摘するブログもあるようだが、この中で登場人物がこんなことを言う。

 「俺たちの社会は、政治的な駆け引きが複雑に絡み合ってこんなことになっちゃったけど。もしメディア良化法も図書館の自由法もない世界の人が見たら、さぞや滑稽で不思議に見えるだろうね」

 この台詞は視聴者の心情を代弁、説明した言い訳のように聞こえる。ちょうど5話まで観てきて、その設定、世界にちょっと無理を感じていただけに余計にだ。僕は原作を読んでいないし、実写映画も観ていないので、そちらがどれだけリアリティがあるか分からないが、少なくともノイタミナ枠で放映されたこのアニメにはあまりリアリティが感じられなかった(それは必ずしも面白くない、つまらないということではない)。
 そこで、アニメシリーズの演出の問題という見方もできるが、表現の自由や図書を争って戦闘が繰り広げられるという、現実には考えられない設定、社会、常識であることに対して、自分が気づかないうちに否定してしまっていたのではないかと考えた。フィクションだからこそ、リアリティ、「さもありなん」な感じはほしい。けれど、理由を制作者側、作品に求め過ぎていなかっただろうか。「もし本当にあったとしたら」と考えられないなら、自分の思考の幅がいかに狭いかを嘆くべきではないか。
 現実の世界で「信じられない」常識に生きる人たちに会ったときに、果たして自分は受け入れられるだろうか。受け入れる、溶け込む必要はなくても、「尊重する」ことができるだろうか。

 ちょうどそんなことを考えていて、「真夜中のパン屋さん」第3回(「普通じゃない人々」)を視聴した。母と二人暮らしの小学生こだま。母が出ていってしまい一人ぼっちになった彼をパン屋の暮さん(タッキー)たちが世話するのだが、希実(土屋太凰)がこだまの母を「カッコウ」にたとえる。自身も母の知り合いなどあちこちに預けられた経験があり、母のことをカッコウのようだと思っていた希実らしい台詞だ(そもそもこの物語は、不思議な魅力のある暮さんとその亡き奥さん、ブランジェの弘基たちのパン屋さん=ブランジェリークレバヤシ=に、いろんな人たちが集まってきて、暮さんが託された卵を孵化させるような役割をしている)。

 なるほどと思いながらネットを見ていたら、たまたま「カッコウは自分の体温で卵を孵すことはできない」という掲示板の書き込みを見つけた。体温が低いからカッコウは卵を温められないというのだ。

 そこで「自分の卵が温められないからだのつくりってありえないんじゃないか。そんな動物がな存在するんだ」と思い、すぐに反省した。これもまた自分の常識を当てはめようとしているだけじゃないかと。自分でできなくても、他人に孵化してもらえれば目的は達成されるんだから、それはそれでいいんじゃないかと。

 母をカッコウにたとえる希実の台詞を聞いた直後に書き込みを見つけて、「こんな偶然もあるのか」とちょっと驚きながら、「自分の常識がみんなの常識とは限らない」ということを肝に銘じた。

2013年5月17日金曜日

「男が働き、女が育てる」が常識という時代じゃない――女性の役員・管理職登用積極化

3メガ銀初の女性役員…三菱UFJが川本氏起用

 先日この記事を夕刊で読んで驚きました。これまで3メガバンクには女性役員が一人もいなかったんですね。「なんて業界だ」なんて思っていたら、イオンが2020年までに女性管理職の比率を50%まで引き上げる方針を明らかにしたそうです。イオンのほうは役員ではなく管理職ということですが、現状は7%とのこと。イオンのような小売り、GMSは女性客が多いでしょうから、7%は低い気がします。業種にもよると思うのですが、日本の企業は全体的に女性の取締役、管理職への登用が遅れているんだろうなという印象があります。具体的にはどれくらいいるんだろうとググってみたところ、東洋経済にこんな記事がありました。こんなもんなんですね。表を見て改めて少なさに驚きました。

女性役員が多い会社はどこか?
パソナ、ニチイ学館、エステーが最多の4人 

 女性役員・管理職の積極的登用について考えると、「女性だから役員になれなかったんじゃなくて優秀な女性がいなかったからでは」という意見が出てきそうですが、そんなことはないと思います。やはり結婚、出産、育児の過程で、オフィスから遠ざかる(遠ざけられる)のが女性ばかりだったから、つまり押し付けて放逐されてきたからというのが一つの理由ではないでしょうか。その過程で女性は残りづらくなっていく、そういう雰囲気をつくってくたのではないでしょうか。三菱UFJのボードに入った川本氏も叩き上げ社員ではなく、外部からの就任です。女性にとって「入社→出世→役員へ」というコースは難しい気がします。

 無理に女性を役員にすることに意味があるのかという意見もあるでしょう。逆に差別なのではないかという人もいるかもしれません。しかし、女性が役員として経営に携わりやすい環境をつくること、そのために数値目標の設定はあっていいと思います。それがないと絶対にやらないはずで、だから今のようになっているわけです。やってみて問題があれば替えればいいでしょう。アファマティブアクションといっていいかはともかく、当面はそうした措置が必要だと思います。
 自民党の「女性力の発揮」っていうキャッチはどうにかならなかったもんかとは思いますが、これまで能力を発揮したいと考えていた女性たちが、性別が男性でないということを理由に重用されなかったり、軽んじられたりということがあったはずですから、それを無くしていくことは必要だと思います。

 この問題は、誤解を恐れずにいうと、障害者の法定雇用率制度の議論と似ている気がします。むろん、女性が障害者であるといっているのではありません。男ばかりの取締役会に入る女性はマイノリティだという意味です。以前、Twitterで、障害者の法定雇用率を無理して守るくらいなら罰金を払ったほうがマシというツイートをしている人がいましたが、それと同じ考えをする人が出ないとも限りませんから、目標の設定は必要でしょうが、ルールを決めればそれでいいというものでもないでしょう。「我が社は女性を登用したくない。罰金払えばいいんだろ」っていうのはおかしな話です。

 そうした変革を実現することで、男性の働くことに対する意識や習慣にも変化が生まれるでしょうし、役員や管理職ではない、一般の女性社員も働きやすくなるはずです。またこれまで「女性の仕事」だった「育児」に男性がより関わるようになることが期待できる点は大きいと思います。

 ただ「我が社は男性だけで経営する」ということが責められるものなのか? ということも考えるべきだと思います。たとえば役員もしくは社員が女性ばかりの会社もあるでしょうし、それを妨げるのはおかしい。だから「義務化すればいい」といった問題ではなく、数値目標の設定とレビューから始めて、業種や規模を問わず、いずれの企業も「他人事(他社事?)」と考えずに議論し、検討することが求められるのでしょう。

 ここでふと、「じゃあ自分はどうなんだ」と自問しました。いま自分が関わっている会社は一人代表ですが、重要な経営方針を決めるメンバーに女性はいません。日常的な方針などは皆に情報開示して皆で話し合っていますが、役員というか出資者、そのメンバーに女性はいません。とはいえ別に避けたつもりはありません。無理に女性を入れろと言われると、それはそれで困るものもありますね。一律に女性を幹部に登用すればいいってわけではないというのもまた正しいのでしょう。