ちきりんさんの『自分の意見で生きていこう――「正解のない問題」に答えを出せる4つのステップ』読了。まさに「誰かのアクションへのリアクションばっかじゃなく自分で考えてリスク覚悟でスタンスをとれ。話はそれからだ」という話。
そういう考え方になじみがある(と思っている)人とっては「何を当たり前のことを」と思われることかもしれないが、いやいや、徹底してできてる人はそう多くないはずで、一端のビジネスパーソンであっても一度目を通す価値はある。
乱暴に主張をまとめると
あらためて、本書の主張を簡単にまとめると……
反応と意見は違う、意見に正解も不正解もない、そもそも一つの正解がないことを考え議論するためには意見を持つこと。意見を持つには考えること。
というもの。
こうした意見をしっかり一冊にまとめあげるあたり(シリーズとして最初から計画されていたとはいえ)さぞクソリプに辟易とさせられているのだろう。
クソリプとは何か 私たちが必要な情報とは何か
ところでそのクソリプについて、本書では「(聞いた人が)結論を変えないどうでもいい情報」(カッコ内・当ブログ筆者)と紹介・定義していて、「なるほど」とも思っただのが、まさにその「情報」についても整理されていて役に立ったのでまとめておく。
ちきりんさんは、世の中には「正確だが無意味な情報が存在する」と指摘し、それは専門家でもない人同士の議論(またはその前提となる「考えること」)には意味がないと述べている。
その例として、尊厳死に関するスタンスを述べたときに薬剤名を間違えていたという本人の過去の例を挙げている。そこでちきりんさんは、その薬剤名がなんであれ自分の尊厳死に対する考え方は変わらないということが大事なのであって、そこまで詳細な情報の正確性を求めるのは専門家でいいと解説している。
この表は本書からの引用。
詳細まで正確な情報 | 厳密には正確でない情報 | ||
---|---|---|---|
意見を変えうる情報 | ●▽ | ● | ●一般の人に重要な情報 |
意見を変えない情報 | ▽ | ||
▽専門家に重要な情報 |
つまり尊厳死の例でいう正しい薬剤名は、詳細まで正確だが意見を変えない情報――4つのセルで言うと左下――にあたるわけだ。
縦割り発想の弊害はどこででも生まれる
このほかにも感心させられた意見、思考が整理できた説明があったので備忘のために列記しておきたい。
- 仲間に求められるのは意見である
- ネガティブな反応は賢そうに見える(だけ)
- リーダーシップの第一歩は意見を持つこと
- 縦割り発想には弊害がある
いずれも「分かる分かる」と共感する意見・スタンス。特に「縦割り発想」については悩ましく感じることがよくある。
自分の仕事に置き換えていえば、別の部署が担当をしているメディアでも、自分が「おかしい」と思ったら言うべきだと思っているし、逆に自分の担当メディアについてよその部署のメンバーから指摘や意見・提案があってもいいと思っている。「自分の担当じゃないから僭越だ、恐縮だ、申し訳ない」と思う必要はない。
読者のため、メディアそのもののためになるのだから。そもそも部署は違っても同じ会社でもあるわけだし、意見はいうべきだ。
しかし、ここで難しいのは、のべつ幕なしに意見を言えばいいというものでもないということだ。
たとえば自分の仕事が最低限ちゃんとできてもいないのに他人の仕事に口出しをするのは順序が違うし、意見を誰かに述べるのは、相手(聞き手)の時間をとるわけなので、それなりにしっかりと調べて、考えてからモノをいうべきだろう。
だが、そう言い始めると、いつまでたって「自分なんかは……」と考えて躊躇する人ばかりになってしまいそうではある。
このあたりは、発言・提案する内容の正確性・正しさの問題だけではなく、相手との関係性やコミュニケーション、人間関係の問題もからみそうではある。
しかし、それを差し引いてなお、「言うべきは言う」そして、自分がそう思っているからこそ「言われるべきは聞き入れる」ことも大事だ。
生きづらい時代になった理由
ちきりんさんはまた「生きづらさ」が世をおおっている現状を憂い、その根源的問題として「学校的価値観」を指摘している。生きづらさの理由として橘玲さんはリベラル化とグローバル化の進展を挙げているが、ちきりんさんの「学校的価値観」といういかにもドメスティックな理由にも深く納得させられた。
どちらが正しいとか、ちきりんさんが橘さんと意見が違うということではないだろう。あくまで、問題を指摘して考えさせる上での著書でのアプローチには違いがあるというだけの話。