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2012年7月28日土曜日

子どもがいるから、泣かなかった――『おおかみこどもの雨と雪』を観て


©2012『おおかみこどもの雨と雪』制作委員会

「泣く終わり方」ではないと思った

 『おおかみこどもの雨と雪』を観ました。知人から聞いていた通り、いい作品でした。不満もなくはないですが、『ダークナイト ライジング』とあわせて今夏注目すべき作品といっていいでしょう。先に観た知人の感想と自分の感想との間で気づいたことがあるので、そのあたりをちょっと(短く)書いてみたいと思います。

 私は事前に、細田監督が「今の日本が感動を求めていることに気付いて制作した」というような話を聞いていましたので、若干、斜に構えて観てしまったきらいはあります。それを踏まえてここで書きたいのは、「本作が泣ける/泣く作品かどうか」という点です。

 知人の女性が上演終了後に号泣したと書いていました。そのため、よほどの感動作なのだろうと構えていき、実際私も涙がこぼれそうになりました。雪が草平にあることをしてしまい、迎えに来た花に車中で謝るシーンは、さすがにこらえきれませんでした(これは自覚しているのですが、私は「子どもが自分の非を認めて謝る、特にその非の原因が致し方なかったり、情状酌量の余地があったりする」シチュエーションにきわめて弱い)。

 ですが、正直終わりでは泣けませんでした。というか終わりまで観て、「これは泣く話じゃない」と思いました。こう書くと、泣いたという女性を否定しているようですが、そんなつもりは毛頭ありません。感じ方は人それぞれですし、作品全体では、人の涙腺を弱める感動作といっていいので、自然な気もする(ところで別の知人男性は本作を観て全然泣かなかったそうです。それには一瞬驚きましたが、それとておかしいとは思いません)。
 私が泣かなかったのは多少のやせ我慢もあるでしょうが、ただ彼女と自分との違いが興味深いなと思いました。

 実はこの女性とは別に、アニメに造詣の深い知人の男性ライターが、「子持ちの人の感想を聞きたい」というようなツイートをしておられました。そうした視点を持って臨んだ私が感じたのは、

 「自分は子どもがいるからこそ泣かなかった/泣いちゃいけないと思ったのではないだろうか」

 ということです。なぜか。若干ネタバレします。

「私、まだあなたに何もしてあげてない」

 本作は最終的に、雪と雨がそれぞれの道をいきます(雪が寮に入るとかで花から離れてしまうのは、若干唐突な感じもしましたが、距離的な問題から致し方ないのかもしれないとしましょう)。問題は雨です。彼が人間界を離れるのは、これはとてもかなり切ない話ではあります。花はきっと、雨にも父のように人間界で生きて行って欲しかったはずですから。
 ですが、子どもはいつか離れていくものです。それがちょっと早かっただけ。10歳やそこらで親元を離れるのは、人間からすれば早くはありますが、「その日」はきっと突然くるんです。そしてそれは、花だって分かっている。

 花はわが子が去っていくときに言います。

 「私、まだあなたに何もしてあげてない」

 このセリフにはグッときましたし、考えさせられました。おそらく子どもの側はそうは思っていません。愛情を注いで大切に育ててくれたと思っているはずです(自分がフツーの子どもでもないのに……)。一方の親の側にしてみれば、子どもに何をどれだけしたところで、「まだまだ、全然してあげ足りない」と思うものなのではないでしょうか。

 花の辛さはよく分かります。いつまでも子どもには側に居てほしいものです。でも、早かれ遅かれ、子どもはいつか自分のもとを離れていきます。森になど入らず帰ってきて欲しい。自分のそばにいて欲しい。いつまでも一緒に居たい。
 でも、そういうわけにはいかない。なぜなら、他ならぬ子どもが自身で決めた道に進もうとしているからです。だから花は最後、雨を笑顔で見送ったのではないでしょうか(花の場合は、「いつも笑顔でいるように願いを込めて名付けられた名前だ」というフリはありましたが、たとえそれはなくても、最終的に親は子どもを笑顔で見送るはずです)。子どもはいつか独り立ちしていくのです。それは、寂しいけれど嬉しいことなのです。

 私の場合、子どもはまだ未就学児で、たいそうな覚悟をもっているわけではないでしょう。しかし、それでも心のどこかにそういう気持ちがあるからこそ、泣かなかったのではないか、泣いちゃいけないと思ったのではないだろうか、と考えました。
 いつかこの子たちは自分のもとを去っていく。その時、子どもたちが「その道に進んで欲しくないなぁ」「こういうふうになってくれないかなぁ」といった私のエゴを満たす進路をとるとは限りません。そこで自分としては「ダメ」「こっちに進みなさい」と言わず、しっかりと本人の覚悟を確かめた上で、涙をこらえて送り出さなければいけないと(本当にできるかどうはその時にならないと分かりませんが)思っているから、泣いちゃいけないんだって思ったんだろうと。
まぁ、子持ちの方が全員そう考えるとは思いませんし、子どもがいないと分からないというようなことを言うつもりもありませんが。

マイノリティとして生きること

 またこの映画の設定で特異な点といえば、もちろん子どもが人間と狼の子であるということです。この点について考えたことは、「マイノリティとして/家族に持って生きること」です。
 たとえば子どもが何らかの障害を持っていたとする。身体的なもの、精神的なもの、いろいろあるでしょう。中には、生物として生きていくのが大変な障害もあれば、生きていく上では何も問題はないけれど、「周りと違う」ということで苦労することもあります。

 そうした子どもを持った親の気持ちということをちょっと考えました。さすがにおおかみとの間に子どもを持った方は居ないのではないかと思いますが、上に書いたような障害、周囲と違う子を持った親は珍しくありません。偏見を承知でいえばLGBTもマイノリティである以上、ここに含まれると思います。

 もし自分が花の立場だったら、どうしただろうかということは考えました。自分もああして「人目を避けるように山奥に行くかもしれないな」などと考えました。でもだからといって何かを恨んだりくじけたりはしないだろうとも思いました。子どもがお友達と違っても、そのことを辛く感じない子に育てなければいけなません。でもまぁ、それだって、ただそれだけのことです(「簡単にいう」と思われるかもしれませんが)。

 最近、親の子どもに対する愛というものの絶対性を疑わざるを得ない話や、LGBTに対する考え方や処遇の実態を聞くにつけ、こうした関係性について考えさせられていたので、本作については、いろいろな立場からの意見を聞きたいと思いましたが、このテーマについては長くなりそうなので、また別の機会に考えてみたいと思います。



 ところで、先日鑑賞した映画『聴こえてる、ふりをしただけ』は女性監督で、妻が死んで夫が打ちひしがれる作品でした。そしてこちらは、男性監督で、夫が死んで妻がたくましく生きていく話。


「男って……orz」と思わざるを得ませんでした(苦笑)。

2012年6月29日金曜日

号泣する余裕がなかった――映画『聴こえてる、ふりをしただけ』を観て



映画『聴こえてる、ふりをしただけ』より


リアルな演出とストレートなテーマ
号泣する余裕がなかった

 映画『聴こえてる、ふりをしただけ』の試写を観た。

 公式サイトによれば、ストーリーはこうだ。

不慮の事故で母親を亡くした、11歳の少女・サチ。周囲の大人は「お母さんは、魂になって見守ってくれている」と言って慰めるが、なかなか気持ちの整理はつかない。何も変わらない日常生活の中で、サチの時間は止まっていく。お母さんに会いたい。行き場のない想いを募らせるサチのもとに、お化けを怖がる転校生がやってくる ― ―。
遺された者は、どう生きて行けばいいのか。深い喪失から立ち上がり、明日へと生きるためには、何を捨て、何を自覚しなければならないのか。
母との死別、そして新しい世界。11歳の少女が悩み、立ち止まり、再び新しい日常へと生きる姿を瑞々しく綴った本作は、大人を一度子どもに戻してから、子どもから大人にさせてくれる。

  本作を勧めてくれた友人で映画ライターの鈴木沓子さんが
Web D!CEでいいインタビュー記事を書いている。彼女はその記事で「上映中、ポケットティッシュを使い果たしてもまだ足りないほど号泣させられ、鑑賞後しばらく、言葉を失くしました」と書いている。頷ける。だが私は、途中数カ所で泣いたものの、そこまでは号泣しなかった。とはいっても、何も「記事は大げさだ」と言いたいのではない。

 私が泣いたのはすべて“子どもだけのシーン”だった。もともと「子どもが自分の非を認めて必死に謝る」というシチュエ―ションに特に弱く、その情景を思い浮かべただけで泣きそうになる性質なのだが、私が(すすり泣きはしたものの)号泣しなかったのは、本作があまりにもリアルで、自身を投影して観るあまりに考えこんでしまったからで、つまりは泣く余裕がなかったのである。


「おためごかし」を言うのが
本当に大人の役割か
 

 前出のインタビューで今泉監督は、自身が小学生のころに家族が大病を患った時のことを語っている。

当時一番つらかったのは、いろいろなことが起こった自分の気持ちとは裏腹に、学校では、これまでの日常生活を送らなければならないこと
 今日どんなに辛いことがあっても明日の朝には学校に、職場に行かなければならない……。家人の死という大きな出来事に限らず、事の大小の差はあれ誰もが経験していることだろう。例えば彼氏にフラレて何もする気が起きないのにプレゼンしなきゃいけないとか、取材でインタビューに行かなきゃいけないとか。そういう辛いときだからこそ、変わらぬ日常を過ごすことで気を紛らわせ、時が過ぎ心が癒されるのを待つことができる。そう分かってはいても、その渦中にある本人は辛いものだ。

 そこで考えたのは、


「その渦中にあるのが子どもだったときに、大人はどう接するべきなのか」


 ということだった。本作の大人たちは、母を失って傷心のサチに、「お母さんはすぐそばで見守ってくれているからね」と繰り返す。そしてサチは霊という存在に強い関心を持つのだが、ある転校生と出会い、理科で「脳の働き」を学ぶうちに、残念ながら理性ではその存在を否定せざるを得なくなっていく。そこには、「サンタさん」を信じなくなる過程にある「切なさを伴うファンタジー」はない。

 そんな心情の変化に気付かない大人たちは、お母さんが守ってくれているという言葉をかけ続ける。さも「それが大人の役割」と言わんばかりに。そんな大人に対し、サチは疑問を素直にぶつける。

 「お母さんがそばで守ってくれているのに、なんで友達にいじわるをされるのか」と。



 そこで私は何と答えられるだろうか。
「それでもお母さんはそばにいる」とサチに言えるだろうか……?


 私は「お母さんはそばにいる」と言ってやりたいと思った。言わねばならないと思った。押し付けなのかもしれないが、「お母さんが身近に感じられる子でいほしい」と思った。
 
 劇中で大人たちはサチに優しい言葉をかけるが、ことごとくおためごかしに聞こえる。ほとんど考えもせずに、慰めるためだけにその言葉をかけている。たしかに、それは仕方のないことなのだろう。人生を引き受ける覚悟もないのに、人生に関わるつもりなどないのに、人生を変えるほどの経験をした人に対して、そうそう慰めの言葉なんてかけられない。
 

 自分がサチの父親であるなら、何を置いても娘を支えなければならないはずだとして、もし自分がサチの父ではなく、そばにいる他人の大人だったらどうなのだろうか。やはりおためごかしを言うしかないのだろうか?

 少なくとも、「もし自分の娘ならこういう言葉をかけるはずだ」という言葉をかけたいと思った。できるかどうかは分からないが、それこそが周りにいる大人の役目なのではないだろうか?
 11歳だからと子ども扱いすることなく、正面から向き合わなければならない。

(こんな偉そうなことを言うと、「それほどの壮絶な体験がないのだろう」「甘すぎる」と批判されるかもしれない。だがそれは甘受するしかない)

かけられたままのエプロン
心を癒す時間と共に失われるもの


 本作で感じたもう一つのことは、「女性の強さ」だった。

 サチが今泉監督の投影だから主人公が女児であるのは変えられないとして、彼女が直面するのが「母の死」ではなく「父の死」だったらどうだっただろうか。「妻と死別した夫」ではなく、「夫と死別した妻」の話であったなら、話はどう展開していただろうか。


(ここからほんの少しだけ、上に書いた「ストーリー」には書かれていない話の筋に触れます)

 サチは母の死後、辛さを感じながらも学校に通い、日常を過ごす。その一方で、父親は妻の死を受け止めきれず、大きく変わっていく。それはもう、まったく人が変わったようになる。“憑かれたように”とはあのことを言うのだろう。本作はフィクションではあるし、(子どもがいるのに)「さすがに夫がそこまで打ちひしがれるものだろうか?」と思わなくもなかった。しかし、だからといって「まったくもっておかしい」とも思わなかった。夫がやつれ果ててしまった状態をみて、「そうなってしまうのかもしれない」と思えたのだ。

 だが逆に、夫が死んで妻と子どもが残されたのだとしたらどうだっただろうか。とてもではないが、女性が何も手につかなってしまうとは思えなかった。それは私の「母性に対するリスペクト」なのかなと思ったりもした。

(ところで、自分の死後に夫があれだけ打ちひしがれるのを見たら、亡くなった妻はどう思うのだろうか。そんなことをふと考えた。嬉しいだろうか? 母としては「何やってんの、あんた。サチがいるんだからしっかりしなさい」ってことになるだろうが、夫婦は子どもが11歳になるくらいの長ーい時間を過ごしている。それでなお夫が、あれだけ深いショックを受けるとは……)

 また前出のインタビューで今泉監督は、“ほこり”のシーンについて、

ほこりは、そのまま撮っても、なかなか映らなくて苦労したカットです。ただ、こういうシーンは、男性には細かすぎて、伝わらなかったみたいです。女の人には共感してもらえることが多いのですけれど……。

 と述べている。

 だが私はそうは思わなかった。単に私が女々しいだけなのかもしれないが、自分がホンを書くとしても(不遜だけど)そんなシーンは入れるのではないかと自然に思えた。
 むしろ、「ちょっとベタかな」とすら思った。

 それよりも私が「あぁ、これは!」とシビれたのは、“エプロン”のほうだった。

 いつも母が座る食卓の席、背もたれにかけられたエプロン。死の直後、サチも一度は手を伸ばしかけるのだが、逡巡して、触らない。そのまま何カ月もかけられたままになる。妻の死後、まったく別人のようになるほど打ちひしがれた夫ですら、触らない。まるで「そのエプロンを動かしてしまったら、本当にお母さんが返ってこなくなる」と思われているかのように、エプロンがそこにずっとかけられたままになっている。

 私がそこで「あぁ」と思ったのは、エプロンにはおそらく母の匂いがしみついているだろう、と思ったからだ。放置して時が経てば経つほど、その匂いは失われていく。ようやくそのエプロンを手に取る勇気が生まれたころには、おそらくその匂いはかけらもないだろう。なんと切ないことか……。

 * * * * *

 今泉かおり監督は26歳で会社を辞めて映画学校の生徒になったそうで、当時制作した短編をもとにして作り上げたのが今作だという。本作は、重くて真面目なテーマを持った、視聴者がしっかり受け止めなければいけない良作だと思うのだが、演出面では、まだまだだとも感じた。間の取り方やカメラワークなど、何というか、時々“ひっかかり”のようなものを感じる演出だったような気がした。
 だがこれが長編第一作ならば、それはいわば名刺代わりだ。その名刺代わりの作品を存分につくり、国外でも高い評価を受けるほどに仕上げたのだから、これはすごいことだ。高く評価してしかるべきだろう。
 とはいうものの、いじわるな言い方をすれば、一作目はすべてを注ぎ込むから、良いものは撮れる。
 早く今泉監督の二作目が観たい。



2012年5月29日火曜日

“Do Something”と“Be Someone"――映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観て

少し前のことになりますが、映画『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観て考えたことを書いてみたいと思います(ちょっと前なので印象や情報があいまいになっていますが)。



ちょうど今年の初めにボーイスカウトの取材をしたこともあって、面白いなと感じたのが法案審議中に停電になったシーン。
突然、停電になった時、議員のおじさんたちが並んで座っている中で、ただ1人の女性であるサッチャーが懐中電灯をつけます。「ボーイスカウトだな」とか何とか字幕が出るのですが、「Be prepared.」というつぶやきが聞こえるのです。
そこで、「あぁ、さすがボーイスカウト発祥の国、イギリスだなぁ」とちょっと嬉しくなりました(ちなみにこれはボーイスカウト世界共通のモットーで、「そなえよ つねに」と訳されます)



ところでこの映画では、サッチャー氏の名言がたくさん引用されていますが、

その中でも一番、身につまされた、ギクッとしたのがこのセリフです。
It used to be about trying to do something.
Now it's about trying to be someone. 
映画の最中、暗い中で私が書いたメモには
「Do Something」「Be Someone」としか残っていないのですが、
意訳すると、
昔、(私たちは懸命に)何かを成し遂げようとしたものです。
(なのに)今の人は(そんなことをすっ飛ばして、すぐに何者かになりたがる(なめるな)。
といったところでしょうか。

劇中、メリル・ストリープが苛立ちを隠しもせずに話していたのがとても印象的でした。

この映画の原題("The Iron Lady")通り“鉄の女”として知られるサッチャー氏は、映画になるくらいの、歴史に名を残す名政治家です。その政治家人生は順風満帆だったわけなどなく、挫折も失敗も孤独も経験している……なんて表現では表しきれないほど、大変なものだったはずです。

2時間かそこらの短い上映時間に限っても、いろいろな困難が描かれていましたから、実際に本人が経験した苦労は数限りなく、その渦中にいたときのプレッシャーたるや、想像を絶します。よくぞめげずに、負けずに、ブレずに自分の道を進んだものです。


サッチャー氏と比べるべくもありませんが、私たちも日々、あらゆる判断を強いられています。


それは会社で何かを始める、やめる、といったような、経営判断の類だけではありません。
何もリーダーだけが行っていることではなく、誰もが行っています。

例えば

何かを頼むメールを送るか、送らないか。
部下を叱責するか、しないか。
上司や同僚に、相談をするか、しないか。
書類の文章をこう書くか、ああ書くか。
FAXに送付状を付けるか、付けないか。
お礼のメールをするか、しないか。

たいていは、後で「もし違うほうを選んでいたら……」と比較することができない(されない)ため、
その判断の是非が問われることはありません。

しかし、間違いなく、“自分の”行動一つひとつが、結果につながっています。

自分の今日、明日という名の未来、つまりは“結果”の“原因”となっている。
それは、メールに返信が来るか、来ないか、といった
行動の直接のリアクションのことだけを言っているのではありません。

「何かをしよう(もしくは『するまい』)」と考えた、
その思考が行動につながり、
その行動の積み重ねこそが、
周囲の“その判断をし、その行動を取った(または『取らなかった』)”自分への評価となるのだ

――と改めて思いました。



当たり前のことですが、結構、恐ろしいですよね。

日々の小さな、(もしかしたら自分は大きな影響があるとは思わずに行っている)判断と行動こそが、自分自身そのものを形成しているわけです。


このことに関連していうと、サッチャー氏には有名なこんな言葉もあります。
メモはしていなかったのですが、何となく覚えていたのでググりました。
Watch your thoughts for they become words.
Watch your words for they become actions.
Watch your actions for they become... habits.
Watch your habits, for they become your character.
And watch your character, for it becomes your destiny!
What we think we become. 
意訳すると、
考えに気を付けなさい。それはやがて言葉となります。
言葉に気を付けなさい。それは行動につながります。
行動に気を配りなさい。それはあなたの性格となります。
そして性格に気を配りなさい。それはあなたの運命となるのですから。
つまり何を考えるが、それが自分自身、そのものなのです。
といったところでしょうか。

これも有名ですから聞いたことがある方が多いと思います。

「忙しい忙しい」と毎日を過ごし、その一方で過去を振り返って「今年ももう半分終わってしまう!」と焦る。そんな毎日の中で、どうしても結果を求めようとしてしまう。

……いや、この言い方は違うし、中途半端ですね。

結果を求めることは悪いことではありません。
その結果が、「何かを成し遂げる」ということではなく、
「何かを成し遂げた人、という評価を周りから得ること」になっていることが
果たして良いことなのかどうなのか、

という疑問を、この映画を観て感じたわけです。

「自分は安直にそう願っているのではないだろうか?」と。

ただし、先ほど述べたように、「周りの評価こそが自分である」という意味でいえば、
評価を求めることは悪くないように思えます。

しかし、それは本末が転倒しているように思います。

評価は上げようとして上げるものではありません。
“結果として上がるように”務めるしかない。

例を挙げるなら、kloutを上げるためにソーシャルメディアをやる、というようなものでしょうか。

それが必ずしも悪いとは限りません。その努力の中で見えてくるものがあるはずですから、やらないよりやってみたほうがいいと私は思います。

ただ、自分がすること、しないことについては、必ず自分自身の納得が必要です。そうしないと、望まない結果を得た時に、後悔するからです。

自分は周りから評価されたいと思っています。
そのために自分がすべきことはたくさんあります。
そして、それをしている最中は「大変だ」「面倒だ」「早く終わらないか」と思い、ついつい手を抜いてしまいます。汗をなるべくかかずして功を得ようとしてしまいます。
また、「今やっていることが、評価につながるのだろうか?」と悩むこともあります。

でも、結果を信じて続けるしかありません。Breakthourghは、日常の延長線上にあるはずです。


この映画をみて、こんな偉そうな感想を書いたからといって、劇的に自分が変わるとは思っていません。でも、一つでも多くの自分の行動を、自分が望む未来、結果を得るための行動にしたいと思います。小さなsomethingを続けることで、"someone"になれると信じて。



* * * * *

さて、この映画に対する評価ですが、とてもいい作品だったと思います。
ご覧になってない方は是非、Blu-rayかDVDが出たらご覧になってほしいです。
メリル・ストリープがアカデミー賞主演女優賞は納得です。
ちょっと脚本、演出で分かりづらいところはあったような気はしますが、
ともかくも彼女の演技はとてもよかった。

たくましく、頼りがいがあり、だけれどもかわいらしい、魅力的な女性として演じられていました。
(彼女が夫のデニス・サッチャーを呼ぶ「デニス!」という声が頭から離れません)
ただし、これは多くの方が指摘されていますが、邦題はちょっと合わない気はしました。