2024年3月24日日曜日

『勉強の価値』ーー「これ勉強する意味あるの?」と聞かれたら、どう答える?

勉強の価値』(森博嗣著、幻冬舎新書)を読了。森さんは『すべてがFになる』が特にお気に入りの好きな作家さんで、S&Mシリーズや、エッセーの『臨機応答・変問自在』や『森博嗣のミステリィ工作室』、『小説家という職業』は何度か読み直しています。

ただここ数年は2ー3年前に『お金の減らし方』は読んだものの、新刊をあまり追っておらず、久しぶりに買ったのがこの『勉強の価値』ですが、新刊ではなく、2020年の刊行です。

長年、大学教員をされていた森さんの「勉強論」について知りたくて読んだところ、これまで氏のエッセーを何冊か読んできた身としては、納得の森理論の集大成でした。

「こんな知識が役に立つのか?」との疑問をぶつけられたら

まずこの記事のタイトルにもしていますが、「何の役に立つの?」と問われたらどう答えますか?これについて森さんは「勉強の価値は抽象性にある」という見出しのもと、こう返しています。

勉強が「何の役に立つのか?」と問われることは、非常に多い。社会に出てから、「こんな知識が本当に役に立つのか?」と疑問を投げかける人も多数いるはず。

しかしそれは、勉強という行為の抽象性が理解されていないから、生じる誤解である。勉強yは、そのように具体的な成果を求める行為では、そもそもない。(中略)

したがって、「勉強が何の役に立つのか?」と問われたときに僕は、「あなたは何の役に立つのか?」ときき返すことにしている(p44)

最後は本当にうまい返し。勉強の価値を考えることもせずに聞いてくる(子供はともかく)大人には、これで十分でしょう。

森さんは大学教員でありながら、一般的なイメージの大学教員とはちょっと”教え方”が違っています。たとえば授業で学生から質問を集め、その質問で学生を評価していますし、また集めた質問に対する回答を公開しています。なおその成果(?)が『臨機応答・変問自在』という新書としても発売されています(2も出ている)。

なお、本書でもこう指摘しています。

どう答えるのかではなく、何を問うかで、その人間の理解度を測ることができる(p195)

そんな森さんがいう「教育」とはどういうものでしょうか。

各自に「自分の勉強」を発見させる行為こそが、すなわち「教育」というものである(P62)

教育というと、とかく「やり方を教える」ことと思いがちですが、決してそうとは言えません。

森さんはさらに、頭の使い方には2種類あり、計算的なものと発送的なものがあると分類、それぞれ数学でいえば計算問題と、(発想を問う)応用問題だとして、こう指摘しています。

算数や数学の応用問題が難しい、と感じるのは、すぐに計算ができないという点にある。そのとき、子供たちは何をして良いのかわからなくなる。

このように、どうしよう、と迷っている子供を、今の大人たちは放っておかない。「どうしたの?」「何がわからないの?」と寄り添ってしまうはずだ。だが実は、この「わからない」「迷っている」という状態をいかに長く体験させるかが、「勉強」なのである。(p203)

たしかに子供が、「分からない」という問題に直面していたら、すぐに手を差し伸べてしまいがちですが、それでいいことなんてないでしょう。

なお、本書で、学び続けるために必要な姿勢として感心したのがこの見方・考え方です。

ある個人をずっと見守っているのは、結局は本人以外にいない。つまり、もし学ぼうと思ったら、自分を先生にするしかない、という理屈になる。

自分を見守るには、自分を客観視できなければならない。自分がどう考え、どうしたいのかを常に観察する別の自分が、あなたを指導する適任者である(p172)

勉強は自分でやるという意味で自動詞だが、自分を指導する・教えるという意味でいうと他動詞でもある、という視点には、なるほどと思わされました。

「どうすれば良いか分からない」と言われたらどう答える?

ただどう勉強したらいいか、分からないという人は多いそうです。だがそうした疑問を抱く人に対して、森さんはこう答えています。

「勉強」は、自分で考えることが基本であり、本質なのだ。自分の頭で思考することが、すなわち「勉強」だといっても良い。したがって、どうすれば良いか、という質問には、こう答えるしかない。

「それを考えることから始めましょう」(p179)

若干身も蓋もないように聞こえるが、これは致し方ないでしょう。「何に興味を持つか」や「どう思えるか」は人それぞれ、物事の理解の仕方(どう分かるか、どう分からないか)もそれぞれなのだから、自分にあった方法は自分で考えて見つけ出すしかありません。

そして考えることには大きな価値がある。なぜなら

知らないことを知ることが成長ではなく、自分なりの考えを持つ能力こそが、人間の価値だといえる。勉強とは、自分の価値を高めるための行為なのだ。(p180)

と考えられるからです。

そして、「考える」ことの重要性に気づくと、同時に、「知る」ことは必要条件であっても十分条件ではないのだと気づきます。

「知る」ことと「わかる」こと、「覚える」ことと「理解する」ことが異なっている。(中略)今の日本人の多くは、「知る」ことを「わかる」ことだと勘違いしているから、勉強でデータをインプットすれば、それで自分はわかった、理解した、と錯覚する。(p182)

こう言われてみて自分がどうか省みます。

これまで「何かを知りたい」と思って勉強しているつもりでしたが、それはよくよく考えてみると、「知った上で、自分がどう思うのか・感じるのかに触れ、自分のスタンスをひとまずは確立する」ために勉強しているということなのかもしれない、と気づきました。

ちなみに自分には幸いにもしたいこと、知りたいことはたくさんあるつもりですが、世の人々はそうでもないようです。森さんはこう指摘しています。

自分は何がしたいのか、がわからない人が本当に大勢いる。ネットを眺めていると、それがよくわかる。そういう人たちを誘い込もうとする商売もまた多い。「これで楽しめますよ」と誘っている。

自分が何をしたいのかを知らない人は、自分で楽しみを作れない。作れるなんて考えてもいない。楽しみは、どこか自分以外のところにああるはず、ときょろきょろと探している。楽しみは、本来その人の中から生まれるものなのに、外部に用意されているもんだと勘違いして、探しているのだ。(p219)

この指摘の後、森さんは、多くの人が企業の宣伝によって釣り上げられ、ちょっとした楽しみに高額の支払いをし、それが人生の楽しみだと思い込んでしまうが、そうした姿を「もったいない話だ」と喝破しています。

勉強の面白さが感じられる瞬間

森さんは勉強の面白さは最初の段階にあるとして、こう述べています。

「勉強」において、「何に着眼するか」という最初のスタートが、最もエキサイティングであり、そこを考えることが楽しく、わくわくする時間といえる(p217)

「何をしようか」と選択するのも楽しいが、もっと楽しいのは「何ができるだろう?」という可能性をゼロから考えることである。今はできなくても、少し工夫をすればできそうな気がする。

そういった「予感」が、すべての「勉強」のモチベーションとなるのではないか。(p228)

特に後のほうの「何ができるかを考える」「予感が勉強のモチベーションになる」には共感を覚えました。たしかに、ワクワクする瞬間です。

最終盤、森さんは勉強の価値についてこうも指摘しています。

勉強をしたがらない人を観察すると、「あいつは偉そうだ」「あいつはバカだ」という慣用的な反応しかしていない。「勉強」を妨げるものは、そういった動物的な感情による自身の感覚の遮断ではないか、と思われる。

他者と自分を比較することばかりに終始し、妬んだり、僻んだりして、結局は自分の役に立つものを見逃している。吠えたてる犬が目を瞑ってしまうようなものだ。

「勉強」の価値とは、そんな雑念や煩悩を理性で抑え、自分というものを見つめなおすことだと思われる。(p238)

たしかに、学んでいる人ほど、謙虚になるものです。何も知らないから高をくくれるのです。少しでも学んでみれば、自分のそれまでの努力や思考など先達の足元にも及ばないことが分かってしまいますし、「知らないこと・自分なりのスタンスを考えてみたこともないこと」がたくさんあることに気づかされるからです。

知識と教養の違い

森さんはまた、知識と教養について、「知識があることが教養ではない」としたうえで、こうたとえています。

知識というのは、お金でいうと「持ち合わせ」のことである。今、ポケットに入っている金額が、その人の知識だ。すぐに出せるし、その場で使うことができる。人に奢ることができるのは、持ち合わせがあるときだ。
教養というのは、お金でいうと「資産」に近い意味になる。いつも持って歩いているわけではないし、また現金ではない別の帯に形態になっている場合もある。だから、その場ですぐに使えるものでもない。 
しかし、資産はその人がどのような生き方をするかを決めるし、なにか大きな決断をするときに影響するだろう。資産のある人は、より多くの可能性を持っていて、自由な選択ができる。(p192)

ただ、お金は減るが知識や教養は減ることがない、として「あまり良い例ではなかった」とすぐに否定していますが、とてもつかみやすく、納得できるイメージだなと思いました。

だからといって「知りたい」意欲を否定するのではなく、それを出発点にしながら、より自分の人生を豊かにするための資産をつくるという観点も持ち、何をどう学ぶかということについても考えていきたいなと思いました。