鈴木涼美さんの小説『トラディション』読了。鈴木さんのエッセーが好きで小説も読むようになり、これで『ギフテッド』『グレイスレス』『浮き身』(順不同)につづいて4冊目。
10代で歌舞伎町を知り、街の外で社会人をし、また街に戻ってきた主人公
舞台は新宿・歌舞伎町。主人公は、兄が経営するホストクラブで働く、だがホストではなく、受付で働く(それも珍しい女性の)従業員。このほかに登場するのは、店に来てただお金を置いていくだけの猫姫、ホス狂いになった幼なじみ、その幼なじみと突然連絡が取れなくなったからと主人公に連絡してくる(幼なじみの)母、主人公がともに暮らすがセックスはしない男、かつては踊りを教えていたが今は大久保病院(という名前は出ないが)に入院している祖母――たち。
舞台はホストクラブだが、この単語は一度も出てこなかった(と思う)本作で特徴的、印象的なのは、舞台はホストクラブであるのに、主人公がホストでもホス狂い(客)でもない、だがホストクラブで働く第三者的な存在である「私」であること。そういう意味では、アダルトビデオ業界で働いていながら、女優ではなくメークが主人公だった『グレイスレス』に通じるところがある。
本作含め鈴木さんの書く小説は、いわゆるエンタメ小説ではなく文学だから当然だといわれるかもしれないが、単純な分かりやすさ、起承転結のあるエンタメ性のあるストーリーではない。何か大きな出来事があるとか、分かりやすい困難・苦悩・挫折を乗り越えて成長していく、というようなストーリーでもない。
ここで描かれているのは、歌舞伎町の外の住人が、外の常識の中で淡々と暮らすように、歌舞伎町の住人は、内の常識の中で淡々とお金を稼ぎ、お金を費やし、依存し、傷つき、心移りしている、その姿。
(なお昨年まで話題となった交縁と記される公園や、その前に立つ女の子たちにも言及があるが、いみじくもそこに建っている病院に=病院名は書かれていないが=祖母が入院している)。
外からみたら驚かれるようなことであっても、内にいる者からしたら、特筆するようなことではなかったりする。そうした(外から見たら)常識はずれな行為や出来事が、10代で歌舞伎町に来た後、一度街の外で社会人をしてから戻ってきた、第三者的な「私」の視点を通して、淡々と描かれている。
その淡々さ(?)は徹底していて、彼女は、目の前で起きていることに対して、また、目の前で起きたことから推測される「おそらくこういうことが起きているのであろうこと」に対しても、とにかく客観的な立場で受け止めている(ように感じた)。
本作を通して、この「私」の表情が変わったところをビジュアルとしてイメージ(想像)できなかった。
ただ、そもそも歌舞伎町はそういう街なのかもしれない。熱があるようでクール。他者との交流が密であるようで立ち入らない。本書にもこのように書かれている。
どんなに親しい者がいても街から出たとたん、本名すら知らないことに気づくのだ
「AともBとも聞こえるような声で」
鈴木さんの文章はいつも言葉の選び方、描写の仕方がよい。スパッと何かを短い文章で喝破するかと思えば、ささいな描写をちょっと丁寧に字数をかけて、している。
たとえば次のような描写。
腹痛をこらえるような姿勢で新しい煙草に火をつけた男に、歯ブラシを一旦口の外に出していくと、いや、ともうわ、とも聞こえる声からしばらくたって
もう一人の姫が、なんでともいやだとも聞こえる雄叫びに近い声を上げてビニール傘の先端を彼に向けて
このような「AともBとも聞こえるような声で」という言い回しが何度か出てくる。
別にこういう表現を取らなくても、「いや」か「うわ」かのどちらかに決め、「なんで」「いやだ」の両方を言わせてもいいはずだ。そうしていない、つまり一語でいくつかの聞こえ方があるように描写しているのは、自分で分析するのは荷が重いが、ここに持たせたい意味やニュアンスというものがあるからではないだろうか。
そして、おそらくは本書を読んだ人の多くが目を留めたであろう「狂いたい女が狂っていく際に、同性の友人がかけるべき言葉などない」といった言葉や、「繰り返される言葉は、繰り返された分だけ意味がそぎ落されていく」といった鋭い評価姿勢も、主人公の視点を通して共有される。
感じ方、解釈できる幅が広い本書は、誰かと語り合うに値する小説ではないだろうか。